575でカガク!
2022年放送の「エアロゾル」の特選句紹介
第8回 ■エアロゾル 特選句 選者:夏井いつき 三伏の海どろどろと雲の孵化 ぐ エアロゾルは世界中の様々な場所で生まれています。中でも自然環境から生まれたものは自然起源エアロゾルと呼びます。波しぶきに舞い上がる海塩粒子もその一つ。一年で最も暑い三伏の海原は、秋の訪れを妨げんとばかりに熱されます。「三伏の海」という空間をどろどろと飽和し始める粒子たち。雲の静かなる孵化の起こりです。 氷晶は鳥語にふとり秋高し くらげを 「氷晶」は季語でもありますが、ここでは科学の用語と捉えましょう。エアロゾルを核に凝結した水蒸気は上空へ昇るに従って氷へと結晶し、絹のような薄い上層雲を構成します。時に高度数キロメートルを飛ぶ鳥たちが鳴き交わす空気の震え。その大気のなかを昇りながら、秋の高い空へと氷晶は少しずつふとってゆくのです。 雲つかむ話をしよう秋夕焼 山内彩月 慣用句を逆手にとった、気象研究者への粋なご挨拶句です。「雲をつかむ話」とは漠然とし実現不可能な話を意味する言葉。ですが気象研究者にとっては違います。気象を広く深く科学すれば、気候変動の未来さえ予測できるかもしれません。いやあ、秋夕焼の美しい色がエアロゾルの働きだなんて、俳人はとんと知らなかったよ。 ひとりなのいつしよにはるのくもにならう 青海也緒 ひらがなで書かれた優しい呼びかけ。人が人へ声をかけるように、エアロゾルも様々なものとくっつき変化します。水蒸気に、同じような他の粒に。何万ものエアロゾルたちが結びつき春の雲を形作る、その最初のきっかけはこんな一言からかもしれません。歴史的仮名遣いによる表記もゆっくりと十七音を味わう時間を与えてくれます。 樹枝六花芯はよごれてゐるこころ 津島野イリス 六角形の樹枝状に成長した美しい雪の結晶。その核となるのはエアロゾル。特に黄砂や鉱物などの固く水に溶けない性質のエアロゾルが氷の粒になりやすいのだそうです。繊細な細工物のような六花も、溶けてしまえばあとに残るのは極小のほこりと汚れ。その事実は寂しくも、汚れつつ生きる人間の心を肯定してくれるように思えて。 佳作 天にある天の渚や波の花 長谷川水素 雄鶏の尾羽ゆする風くさめせむ 謙久 吐いて吸う百物語その行方 吉野川 粉雪や肺は五葉の杜である 三尺玉子 夏果てよ火星の青き夕焼けよ 碧西里 声のなき粒子の集ふ秋の空 ギル 梅東風をひとつまみほど捉へたり ギル 冬すみれ雲白き日の深呼吸 ちびつぶぶどう 野を焼きて草木虫のエアロゾル けーい◯ エアロゾルたらふく喰ふて雲の峰 雲友おかなつみ 島々へ雲はろばろと梅雨菌 黒子 薄氷やアイルランドのみづの神 渡辺桃蓮 不純物ありて我らも夏雲も ありあり 気管支は岩窟のごと咳潤む 立川茜 舌は死のなめし革なりつちふるを 冬のおこじょ 映写機のひかりに傷秋の粒子 かねつき走流 千の雲生まるる秋の火葬場 真井とうか 数時間生きた粒子や夏怒涛 そまり 霧雨や山のホテルの小さき灯 でんでん琴女 満月が赤銅色になる不思議 いとみ 核に火のこころをもてり雪も吾も えむさい 秋に入る雲や神馬の歩みほど 風慈音 風花の終末速度といふ余生 芦幸 うす雲やころろと月は繭の中 シュリ 穴あけるスプレー缶のごと野分 ノアノア スモッグの黒や地獄の釜の蓋 とまや 椿落ちて風は遺児めく香を拐ふ 石井一草 霾やからくれなゐの日を溶かし 風慈音 ロス焼く火マサチューセッツの夏霞 宇佐美好子 桃熟れた匂い雨雲まで届く たらちねの蛍 HEPAフィルターで貴重書室を吸ふて冬 ルーミイ 黄砂降る帰任の兄のモンゴル語 星月さやか 好物はおしろい春の雲ふえる 片野瑞木 これこそは日本を春にするスプレー 滝澤凪太 エアロゾル握れば割れる枯葉かな 青山灰重 流れ星落ち太陽を遮りぬ 樫の木 サイダーの泡の弾けて帰国前 Dr.でぶ 肺奥へ九月十一日の塵 古田秀 お喋りは光の粒子秋澄めり 川越羽流 なにもかもあなた任せの秋の雲 Early Bird 秋冷の帰路に木漏れ日一人分 背番号7 ひとすじのもの焼く煙冬うらら 寺尾当卯 桜蘂降る別れを光る粒として 坐花酔月 熱砂飛ぶゴビや四駆はロシア製 池之端モルト 霾や白昼の着弾はるか 佐藤儒艮 鳥雲に雲の命を測る人 有本仁政 ぬか雨の産まれる山や茸狩り 安斎浩英 秋高へ湯けむり神を呼ぶような ジョージア 菊焚きてあをあを出づる静心 綾竹あんどれ 夜霧揺るる阿像しづかに吼えつづく 石井一草 ほの暗い秋雲だった水たまり 音羽実朱夏 臆病な象に献花を春驟雨 望月とおん 暁のガンジスに降る冬の星 藤永桂月 湿りある一息分の秋思かな ひでやん 街を雹雲は孤独の集合体 いさな歌鈴 ダイヤモンドダストもう立てぬ牛の息 板柿せっか はばたけば肺腑に満つる小鳥かな 薄荷光 大国のやうな峰雲くづれ初む 大黒とむとむ 隕石で落ちよか秋雲になろか あさいふみよ 黙々と星座を喰らふ大火の尾 すいよう 秋の蝶手負ひの星に集まり来 岸来夢 星の子の千千に散らかつて茸 あずお玲子 霾や海は豊かになりにけり 井納蒼求 冬の雲あゝこの微粒子は苦い さとけん 凍蝶にりふしふれあふ音すなる 早田駒斗 理科室の秋思を雲にする実験 高尾里甫 霾の日暮大火のごとビル群 高尾里甫 春眠し雨は人魚の歌ふごと 露草うづら 喫煙所のガス室めいて冬ざるる 三月兎 湯冷めして肺腑に10ナノの埃 安溶二 煙茸ぽかり夢は雲まで届くのよ こま さりさりとみづ削ぐ夜の吸入器 藤白真語 雪は色失ふ刹那たなごころ 浦野紗知 雲量5天はプリズムなる溽暑 白プロキオン 冷たき雨よ大和の夜に触るる雨 神木美砂 花氷言葉どこまで砕けるか うからうから しつとりと半音下げて蚯蚓鳴く くま鶉 恐竜の肺胞の奥霧時雨 颯萬 薄青きオゾンしづかや雁渡 杏乃みずな 光芒の優しく濡れてゐる白露 染井つぐみ 秋高しNOx可視化する仕事 薄荷光 柚子のこのしぶきのつぶにあるうしほ 古瀬まさあき 冬ざれを濾して湖ほの青し 銀紙 嚏とはわたしの破裂ではないか 銀紙 流星の燃え尽きむんと匂う水 DAZZA 竜天に登り鏡のつぶ掃く尾 せり坊 シュタウディンガーの肩車夏の雲 原田晃 秋天へ雨になりたい胞子たち いかちゃん 散るものは骨片のいろ花の雲 登りびと ポンペイや夕焼に深く傷むいろ ぐ
2021年放送の「重力波」の特選句紹介
第7回 重力波 特選句 選者:夏井いつき 日盛りや鏡の国の迷子の子 ちびつぶぶどう 重力波を観測する重力波望遠鏡は二本のレーザー光を鏡に反射させ、到達速度のズレをみます。本来ぴたりと一致してお互いを打消し合うはずの二本の光。重力波が歪めた空間に取り残されて、打ち消され損ねたレーザーは永遠に迷い続ける「迷子の子」のよう。恐ろしい寓話めいた出来事と、容赦ない烈日との取り合わせ。 星崩るさざなみ夜の桃熟るる 石浜西夏 遥か遠くに崩れてしまった星と、身近に置かれた桃との対比による取り合わせ。観測できるほどの大きな重力波は超新星爆発など、宇宙規模の劇的な現象によって発生します。(文法的には「星崩るる」となるべきですが)星が崩れたさざなみを無自覚に受け取りながら、「夜の桃」は爛熟の芳香を強めていきます。 榠櫨の実神は一人に飽きたんだ シュリ 口語で言い切る「飽きたんだ」の断定が魅力。大きく滑らかな榠櫨の実をためつすがめつしながら、慣れない「重力波」について思い巡らす作者。脳裏にあるのは連星の合体でしょうか。互いの周りを公転していた連星はある時急速に近づき、ブラックホールが誕生します。その様は一人に飽きた「神」同士の結びつきのように思えて。 一空の歪みの溶くるアイスティー ひでやん 「空」とは小さな数の単位。ひでやんさんご自身の説明を引用すると「10のマイナス21乗というとても小さな数」なのだそうです。重力波の観測とは、10のマイナス21乗以下の小さな時空の歪みを検出する作業。人の知覚できようはずもない、途轍もなく小さな歪み。今飲み干そうとするアイスティーにもその歪みは溶けているのかも。 さびしがる星ほど重しダリア咲く 古田秀 科学的には物質である「星」が「さびしがる」ことはないのでしょうが、「さびしがる星」は美しい詩の言葉。さびしがる星はそのあまりにも巨大な質量で空間を歪ませ、重力を生み出します。大輪の球を形作るダリアは、一つ一つが星と同じようにさみしさを抱えながら咲いているのかもしれない。寂しさを核に結びつく二物衝撃。 超新星爆発秋の蚊に揺らぎ 真井とうか 物理的には、私達が普段生活するなかで目にするものが重力波によって揺らぐようなことはありません。しかし弱々しい「秋の蚊」なら……と思ってしまうのが俳人の習性。勢いの失せた秋の蚊の些細な揺らぎぶりを「もしや重力波!?」と観察するようになる。真偽はともかく俳人にも科学の目線がインストールされるのが嬉しい! あめんぼや 宇宙はいまだ揺れている やのじ 確信犯的な一字分の空白。これも作者の表現意図だと受け取りました。宇宙が生まれた時から、宇宙空間を漂い続ける重力波。何億年もの旅を続け、今も宇宙を揺らし続けています。地球という宇宙の片隅の、そのまた片隅の水の上に踏ん張る「あめんぼ」。頼りない世界にそれでも確かに存在している生命の誇示。 狐火が飛べば重力波の臭み 白プロキオン 正体のはっきりしない青白い「狐火」。一説には狐が口から吐くのだとか。空想的な虚の世界の季語を、作者は科学の目線で捉えようとします。狐火が質量を持つなら、飛べば重力波を生むに違いない。ならば、その臭いはどんなものだろう? 重力波と狐火。捉えどころのない二つの事象を嗅覚で表現しようとした意欲を褒めたい。 あめんぼへ星を弔ふ波ひとつ 田中木江 同様の発想は数多くあれど「星を弔ふ波」の詩語が美しい。「あめんぼへ」の「へ」は方向を表す助詞。水上のあめんぼへ向かって小さな波紋がひとつ。この波は宇宙の何処かで滅びてしまった星への弔いの波であるよ。その波を受けてもあめんぼはほんの少し揺らぐだけ。淡々と生きるあめんぼは我々人間の姿のようでもあります。 柿実りゆっくり叩かれる地面 知野 昴太 「なんでもないことをなんでもなく描く」。重力の存在然り、当たり前を知覚するのは実は難しい。柿が実り、熟して枝から離れる。重力に引かれた果肉がゆっくりと地面を叩く。「地面」の側に映像の主軸を置きスローモーションで捉える一連の流れは観察の目線が行き届いています。俳句も科学も、好奇心ある観察から始まります。 重力波 佳作 龍天に登る重力波の螺旋 高林やもり 重力波の旅終ふる日や六花 巴里乃嬬 重力波来て鶯のケキョがとぶ けーい〇 枡付きの冷酒なみなみなみ光り 史子改め桜遙 星の死の声や冬の灯ゆらぎたる 磐田小 百光年先に歪みやはつ蝶来 南方日午 炎帝はささやく僕の心臓へ 渋谷晶 古の星の骸や栗の花 朝月沙都子 桜蕊時空が少しだけ縮む 木染湧水 八月のきらめくママのネックレス 阿部 雄稀 古のさざなみ聞こゆ鏡冴ゆ 内田こと 重力波さがす学問緑立つ 斉藤 浩美 音も無く生まれし星よ風鈴よ もふもふ はじまりを探す数式星月夜 シュリ 耳掻きの綿は春日の波なりぬ 風慈音 歪みつつ伸びつつくらがりのサーフィン 石浜西夏 大山鳴動ねずみを探しふける秋 あらみつ 重力波ひかりに出逢ふ夏嶺かな 月の道馨子 重力波蛍袋の揺れるのも GONZA プールあおくてちょっとだけ届く君の波 浦野紗知 磯巾着星のあはれに縮みをり 藤 雪陽 秋の星きらり捩れるピカソの手 イエティ伊藤 半夏生とほくの波はのびちぢみ まこ ラの音の形に百合の花ひらく 平本魚水 簗守の波の閑かを聞いてをり 長谷川水素 春星や重力波吐くうみへび座 野中泰風 蜘蛛の囲のたわめば歪みたる宇宙 一斤染乃 星めげて時空ふやけて心太 福良ちどり 重力波ほどの詩拾い上げ昼寝 青海也緒 重力波冷やし中華の紅生姜 理酔 ノイズなきKAGRA地上は蝉時雨 宇佐美好子 金鉱へ下るトロッコ夜這星 遣豪使 宇宙にも凹みあるらし冷奴 中岡秀次 カタバミの種爆ぜそこにあるチカラ 夢雨似夜 消光や月は地球へ落ちつづけ 板柿せっか 桃冷すしづかなみづをくぼませて 佐藤直哉 賢治忌の星にうねりや河を象 北藤詩旦 みづ鳥の重さにみづの撓みをり 古田秀 蟇鳴けば優しき波紋あたへ合ふ いさな歌鈴 かなしみの質量幽霊とは歪み ぐ 星の無き辺りの重き今日の月 亀田荒太 LIGOてふ星の補聴器蝶生まる いさな歌鈴 檸檬嗅ぐ太陽三つまな裏に 西川由野 かすかなる胎児の鼓動星祭 かとの巳 銀漢や連星パルサーの饒舌 彩汀 地の底を鏡冷えゆく茅花かな 穂積天玲 夜濯や子の星柄の歪みゆく 28あずきち 室伏の汗の一投地のさざ波 小泉ひろみ 連星はたつた半数豆の飯 ルーミイ 木耳へ聞こえよ鳥が生まれいづ 上峰子 ががんぼの影ががんぼを追ひ越せり 古瀬まさあき 重力波こんな形か豆の花 谷口 浩文 名月の水素ひとつぶぶん揺るる ルーミイ 陽炎や脳の周りの水へ波 颯萬 シリウスの滅べば空はさざなみを 坂野ひでこ 春を待つ日誌に科学者の予言 安溶二 一斉に兎の耳は星へ向く 彼方ひらく 月涼しKAGRAの長き腕まくら 露草うづら 竜の玉星も子宮も重たくて おきいふ ぶち当たる水流歪む処暑便器 TAKO焼子 ゆがみ合ふ怒濤や日神鳴あをし 早田駒斗 木星にリビドー蟹の口動く 山本先生 ブラックホールぎゅるぎゅる蠅が蠅追うて 山本先生 冬鵙や光らない星あちこちに 次郎の飼い主 白秋の力士が四股を踏む強さ 藤咲大地 あの星も孤独あめんぼ甘からむ 稲畑とりこ ででむしのしづしづ波を拾ふ角 あずお玲子 浦島草が其処にたゞ在るてふ歪み ギル 夏休みサファイアはトンネルの奥 田辺ふみ キロノヴァに歪む時空と磯巾着 井納蒼求 ゆがめ時空!実石榴ぎぎと噛み潰す 丹下京子 春水に目覚むる種や重力波 蜂里ななつ ででむしの波打つ足や星死せり 北野きのこ 星飛んで歪む星図の端と端 石井一草 仙人掌の花と寝相の悪い星 さとけん 香水をベテルギウスの悲鳴とす 薄荷光 珈琲ゼリー震へて今日も星滅ぶ 樫の木 秋の燈やグラフの一辺三十二・六億光年 神木美砂 薔薇朱くふるえB612に風 武智しのぶ 風花やふれて時空のよきゆがみ 駒水一生 胡麻はぜて星はますます重くなる ちゃうりん 湯豆腐の四角ふるえるうそほんと 髙田祥聖 重力波溢る巨神の半仙戯 背番号7 月光は淋しき胎動星生まる 岩のじ 生活にわずかなゆがみ墓洗う 畑中 彩華
2020年放送の「ミトコンドリア」の特選句紹介
第6回 ミトコンドリア 特選句 選者:夏井いつき 古の細胞鎖国を解けば春 あさいふみよ 遥か遠い昔、ミトコンドリアの祖先が単細胞生物と融合し、生物は酸素を力にする能力を手に入れました。「鎖国」を解くように共生を始めた彼らの世界はなんと広がったことでしょう!地球を満たすほどに繁栄してゆく彼らの、生物としての「春」。その「春」の一端に、我々人間も今、生きているのです。 ミトコンドリア・イヴです瓜の馬一台 木江 ヒトのミトコンドリアDNAを辿っていくと、アフリカの一人の女性に行き当たります。それが人類全ての母とも言われる「ミトコンドリア・イヴ」。まさかそのミトコンドリア・イヴの霊が「瓜の馬」に乗って盆に帰ってくるなんて、そんなバカな!(笑) 敬語にも「瓜」のつるんとした緑色にも爆笑してしまったよ。 リークする電子はうれんさう茹でる 蜂里ななつ ヒトの体内で電子がリークすることにより発生する活性酸素。毒性が強く、様々な病気や老化の原因となる物質です。なんと菠薐草にはその働きを抑える効果があるらしい。ミトコンドリアを学ぶついでに良いこと知った、と早速「はうれんさう」を茹でる俳人根性。好奇心の結実のように青々と茹で上がる菠薐草が美味そう。 果つる所作あり細胞も茶の炭も 克巳@夜のサングラス ミトコンドリアは細胞の死も司ります。機能の落ちた細胞や不要な細胞へ死ぬよう命令を発するのです。身体の内側で今も死へのプロセスを歩んでいるであろう我が「細胞」。今にも崩れようとする、眼前の茶釜の「炭」。両者のイメージを繋ぐ「果つる所作」という把握に静かな達観の眼差しがあります。 はんざきの髄をミトコンドリア這ふ 古瀬まさあき 「はんざき」は山椒魚のこと。特にオオサンショウウオは身を半分に裂いてもすぐには死なないことから「はんざき」の名があります。真っ二つに裂かれた傷口に見える生々しい「髄」。ここにはまさに生きた「ミトコンドリア」が「這ふ」に違いないよ、と観察する作者。俳人の目は科学者の目でもあるのです。 たまごわれ海がうまれた雨の夏至 本田むらさき 本来「たまご」の中にあるのは黄身と白身。しかし作者は「たまご」を割ると「海がうまれ」ると言うのです。この虚の世界を提示された瞬間、読み手の思いは遥か太古の世界にタイムスリップします。全ての生命が渾然一体と泳ぐ「海」。昼夜が釣り合う「夏至」の均衡は、生命を育む奇跡の均衡にも思えて。 名月や酸素の毒であつた頃 せり坊 酸素は様々な物質と化学反応を起こしやすい、危険な毒なのだそうです。ミトコンドリアと共生し酸素をエネルギーにできるようになる以前は、毒の大気を闊歩する生物はいなかったはず。ただ孤高に輝いていたであろう「名月」。ミトコンドリアはその凄絶な月光を記憶しているのかもしれません。 クエン酸回路くるくる夏つばめ 森川いもり 「クエン酸回路」は酸素呼吸を行う生物が持つ、酸素を使ってエネルギーを生む仕組のこと。環のように反応を循環して繰り返すのだそうです。空にはくるくると輪を描く「夏つばめ」。彼らの飛び続ける元気も、体内の代謝によって生み出されているのです。か行の音の繰り返しも口ずさみたくなる良いリズム。 からくりのやうに焼野のやうに生く 小椋チル 人体は無数の機関が絡み合った「からくりのやう」。そして古いものを棄て新しい生命を代謝する「焼野のやう」。比喩として使われつつも「焼野」の一語は脳裏に黒々と広々と美しい。下五呟くような「生く」は共生と再生を深く理解した証。ミトコンドリアへの科学的理解と詩が見事に融合した一句。 鶏頭の輪廻ゴヲダマシツダルダ 池之端モルト 「輪廻」も「ゴヲダマシツダルダ」=釈迦も仏教の言葉です。新たな子孫を残し種としての生を繰り返す「鶏頭」の実在。カタカナの旧仮名遣いで表記された後半は、念仏のようでも、仏教の概念に懐疑的な意を示しているようでもあり。鶏頭の不気味な姿と「ゴヲダマシツダルダ」の音がいつまでも脳裏に繰り返される怪作。 ミトコンドリア 佳作 きりたんぽ体はやをら燃えつづく 塩谷人秀 ミトコンドリアイブ母系代々青き踏む 吉村よし生 秋日影自分の中にゐる他人 亀田荒太 イブは海になり母になり月涼し 松浦麗久 爽やかやけふの細胞死ぬからだ 平本魚水 薔薇に棘ミトコンドリアに策略 平本魚水 胎の子に茄子にミトコンドリアかな 青海也緒( 教育実習生の白衣のさやか顕微鏡 かねつき走流 ミトコンドリアや蘇鉄の花ほてる 黒子 渡り鳥幼鳥のミトコンドリア 北川蒼鴉 蘇鉄の花ミトコンドリアに発熱 ひでやん 秋澄むやなんて小さなオルガネラ 片野瑞木 下萌や燐燃ゆるミトコンドリア 風慈音 青梅雨の土星へ還りたき朝 穂積天玲 聖母月緑に光るATP 明田句仁子 満身のミトコンドリア啄木忌 彼方ひらく 我が内に命のあまた秋の水 京野さち まだ青きミトコンドリア鵙の贄 川越のしょび 孑孑は死にゆくやうに生きてをり 城内幸江 酸化的燐酸化待つ神輿衆 吉村よし生 郭公のたまご細胞膜のなか 等夜 熱を吐くこの身醜しねこじやらし 月の道 毒満つる星のいのちや蓮の花 渡邉桃蓮 牛洗ふミトコンドリアの痒いとこ 縞午 肺胞へ爽気ミトコンドリア疾し 風慈音 この鶏も単一起源菊薫る 田尻武雄 生きるとは錆びてゆくこと吾亦紅 くみくまマフラー 嫁に来て炭焼く日々よミトコンドリア 克巳@夜のサングラス 細胞に春の愁ひを飼ってゐる 安溶二 猿人も我もアポトーシスの汗 安溶二 汗を産む細胞石臼挽くやうに ぐ 春は水めく窒息したがる我に ぐ ぱたぱたと蜻蛉の翅のATP 明惟久里 亀鳴けり骨惜しみせぬ居候 キートスばんじょうし 小鳥来て鳴くクリステの断崖に 板柿せっか 細胞内共生説や花氷 板柿せっか ミトコンドリアたとへば善きサマリア人 愛燦燦 内に飼う羊幾千蟇 上峰子 蝶老いてミトコンドリアの静かなる 宙のふう 人体は複雑すぎて貝割菜 神楽坂リンダ 細胞といふ名の個室小鳥来る 神楽坂リンダ DNA持たぬ案山子のへうへうと 神楽坂リンダ
2020年放送の「反物質」の特選句紹介
第5回 反物質 特選句 選者:夏井いつき 薔薇はわたしわたしは夜空なる消滅 平本魚水 一読、「薔薇はわたし」という大胆な詩的定義から一句の世界が始まることに驚きます。「薔薇はわたし」に続き「わたしは夜空」と続く詩的定義は「消滅」へと結ばれます。たしかに存在する「薔薇」も「わたし」も、いつか明ける「夜空」のように消滅してしまう。それでも今存在する薔薇は匂やかに輝くのです。 いかづちの落ちて原初の匂ひ立つ ぐ 自然界にはほとんど存在しない反物質。数少ない自然発生の機会となるのが雷なのだそうです。「いかづち」が落ちた後の、焼け焦げたような空気の匂い。俳人の嗅覚はそこに反物質の発生と消滅を捉えるのです。「いかづち」への「原初」の畏れに加え、科学の目線が一層の奥行きを加えます。 反物質は極遠に在り夜の桃 彩汀 「極遠」は距離の遠さだけでなく遥かな過去、時間の遠さも表します。宇宙の誕生と同時にその殆どが消費し尽くされてしまった「反物質」。どこか人類の力の及ばないほど遠くには今も存在しているのでしょうか。科学の徒でない俳人には想像する他ありません。蠱惑的な「夜の桃」を前に思索に耽る豊かな時間。 万緑のなか太陽が痩せてゆく くみくまマフラー 太陽は毎秒凄まじいエネルギーを発すると共に、その質量を減らしているそうです。なんと毎秒400万トン!宇宙はなんとスケールの大きな世界かと圧倒されます。地上を染め上げる「万緑」に対し、青空にぽつんと灯る太陽の大きさの対比も鮮やか。太陽からのエネルギーを受け、万緑はさらにその勢いを増します。 人も獣も石も物質雪月夜 京野さち 「人」、「獣」、「石」。まるで違う三つの物は「物質」であるという点で共通しています。中七で「物質」と言い切る作者の胸中にあるのは静かな納得でしょうか。直後、「雪月夜」が一句の世界を包みます。しんしんと降る雪は人も獣も石も、等しく冷たい夜の中に閉じ込めます。 手のひらに雪はあつたと濡れてゐる 柊 月子 降る雪を受け止めたのか、落ちていた雪を手に掬ったのか。さっきまでたしかに存在した「雪」は今、水へ変化し痕跡として手のひらを濡らしているのみです。「雪はあつたと濡れてゐる」の詩語は「雪」自身が存在の証明のためにあげる、微かな主張の叫びのように手のひらに残ります。 CPの非保存ふき味噌の味噌かげん 北野きのこ 宇宙の誕生と共に発生した物質と反物質。なぜ反物質だけは消滅し、物質が残ったのか。その謎を解く鍵が「CPの非保存」なのだそうです。ほんの少しだけ物質が多く残った、絶妙のさじ加減。言ってみれば「ふき味噌」が上手く仕上がるかもそんな「味噌かげん」だよなあ~なんて小市民的な理解が楽しい。 反物質放つバナナの反る暢気 一斤染乃 今回の投句でなぜか多く寄せられた「バナナ」の句。なんとバナナは微量の放射性カリウムを含むため、75分に1個、反物質である陽電子を放出するのだとか。「反物質」なんて大それたものを放っているのを知ってか知らずか、今日も「バナナ」は暢気な黄色で反っているばかり。 触れるものみな消え薔薇に咲く力 ちゃうりん 破調のリズムで取り合わせられた二つの事柄。片や物質に触れ消え去ってしまった反物質、片や咲く力をみなぎらせる「薔薇」。消えて力を使い果たしてしまったものと、これから生まれ出ようとするもの。何層にも折り重なって開く「薔薇」の花弁の奥には、底知れない力が内包されていそうで。 柚子に柚子ぶつけエネルギーの匂ひ 古瀬まさあき ごつごつした「柚子」と「柚子」がぶつかり、皮から放たれる香気。ああ、これぞ正に「エネルギーの匂ひ」! 一読、今まさに我が鼻先で起こったかのように嗅覚情報が肉体に再生されます。反物質と物質の衝突が生むエネルギーから発想を広げたのでしょうが、こんな形で肉体的共感を呼び起こされるとは実に愉快。 反物質 佳作 神様は左利きとか種を蒔く 塩谷人秀 更衣にんげん少し非対称 有本仁政 反物質秋思の匙のてんびん座 北藤詩旦 流星や少女の中の少年性 松浦麗久 雷やぼろぼろ生まれ来るたまご 平本魚水 反物質や休み続ける冬銀河 野中泰風 夜濯(よすす)ぎやカチオン界面活性剤 大江深夜 物質の取りこぼされて稲の香に 播磨陽子 反物質のごと手花火の果てて闇 カンガガワ考川 雨は地に落ちるまで雨走馬灯 石井一草 踊る踊る対称性の綻びに 青海也緒 触れ合へば冬蝶消えてしまひけり 佐藤直哉 六連星反物質の寿命とは 打楽器 廃坑の泉 寂光なる小舟 板柿せっか 神様のブレイクショット明け易し 彼方ひらく 冬銀河百鬼夜行の渦の縁 久蔵久蔵 反物質無月の影のやうなもの 藤村清彦 ケプラーの楕円かたつむりの鼓動 登りびと 残暑の陽よ水筒の核よ 卓上白球 反物質天地衝撃して夕立 吉野敬子 長き夜を閉じ込められる反粒子 宇佐美好子 素粒子に電荷西瓜に縞模様 片野瑞木 対のなき貝合寄す神の庭 せり坊 蛇の影三面鏡の奥に部屋 月の道 風船の割れて宇宙を押し広ぐ ぐ 斧虫や世の粒はみな未亡人 白プロキオン 嚔して辻褄合わせたる宇宙 高田祥聖 対消滅を 逃れた末の 藪虱 木野雨情 白秋の半跏思惟像反物質 西村小市 性格の違ふ双子や青胡桃 南方日午 ロバよりも寡黙な時間ディラック忌 亀田荒太 冷麦喰ふわづかなマジョリティとして 鞠月けい 白南風やオセロの黒は翻る 福良ちどり 億年の反物質空星涼し 馬庭あつ子 反物質に出逢ひ損ねて沙羅の花 齊藤正幸 綱引きの綱真つ二つ涼新た 高橋寅次 美しき神の数式大銀河 斎乃雪 反物質生成出来た日の野分 けーい〇 天の川逆回転のほし遥か 中山月波 冬の雷対称性にある背理 富山の露玉 墓洗ふ人も死んだ人も物質 丹下京子 さみしさの対消滅や稲光 池内ときこ 開闢の炎暑天秤傾きぬ うしうし 龍淵に潜むひかりの二千発 久我恒子 わたくしの失くした影よ浮いてこい 宙のふう 陽電子沖で爆ぜけり鰤起し 樋口滑瓢 在ることは名の有ることよアマリリス 亀田荒太 扇風機粒子加速器フル稼働 吉村よし生 西瓜てふつめたき粒子手離さず 古田秀 みづ澄みてみづに重さの生まれけり 古田秀 うたかたに消え且つ生まる蝶の朝 池之端モルト 勾玉の壊れたピアス星月夜 池之端モルト 翌なき春粒子の色即是空 ひでやん 正と邪の一つ身にあり流れ星 玉響雷子 こころにもプラスの電荷夕涼み 青田奈央 バナナより陽電子出づ燦めける みねらる いかづちの光は愁ひだつたのだ さとけん 反物質食して龍は冬ごもり 豚ごりら 存在したはずの泉もわたくしも 越智空子 合はせ鏡のビー玉にひび冬の雷 芍薬 冬銀河我も宇宙に残る物 亀の 新秋のみづうみ反物質の翳 RUSTY 消滅とはががんぼどうしぶつかること 豊田すばる 反粒子喰うて蚰蜒この形 いかちゃん 反物質とは炎昼のブラームス 穂積天玲 CERN 加速器に日の丸のある大暑かな クラウド坂の上 鳴神や原初宇宙の呱呱の声 里野みみず 雀はぐれて粒子の海の蛤に すりいぴい 対称性破れて夏の雨臭し 安溶二 箱庭に入るカードと影がない 七瀬ゆきこ 荒星や二匹の龍の吼ゆる地下 さとけん さ迷ふもの胸に匿ふ天の川 鹿本てん点 ウロボロスのへびの身震い星流る 今野淳風 寒雷に熟れ極上のγ線 蜂里ななつ 碧空へ影泳ぎ去り金魚玉 いさな歌鈴 ディラックの海より秋思這い寄り来 滝澤凪太 世界とはもともと破れ心太 播磨陽子 脳磁図の反物質として秋思 木江 反陽子消ゆ白さるすべり散るやうに 樫の木 ベル2や六百人の汗匂ふ 板柿せっか 鬱の吾の反物質として林檎 橘まゆこ 夏蝶の翅に阿吽の熱を閉づ 門屋朋子(時計子) 海女小屋の火やサハロフの三条件 北野きのこ 粒子すこしおほくて春の生まれたり 香野さとみZ 五を足して五を引いて夏終りけり めろめろ もひとつの地球あそこも春かしら 雪井苑生 落ちてなほ椿は其処にあるけふは 薄荷光 日雷我へ入れ替はらんと影 大槻税悦 しゃぼん玉ふたつ割れるかくっつくか 高田祥聖 かたわれと会いたる春の光かな 光晶 恋猫の対消滅ののちの闇 小泉岩魚 郵便受けほどの箱へ飛び入る冬の雷 かま猫 すべて幻なら夏シャツの白さ よだか 桃割れば左右にひとつづつ宇宙 倉木はじめ うまれくるはずのいのちや花筏 岩のじ 春の芽や中間子論今富岳 鷲﨑秀明
2019年放送の「恐竜」の特選句紹介
第4回 恐竜 特選句 選者:夏井いつき 落着きのなき恐竜もゐて小春 板柿せっか 進化の過程で様々な特性を得ていった「恐竜」たち。中にはこんな恐竜もいたかもしれません。忙しなく周りを見回したり、飛び跳ねている姿を想像すると愉快。冬の最中のふっと暖かさの差す「小春」が一層彼らをそわそわさせそうな気がしてきます。 第六絶滅期最中にゐて涼し 寺沢かの ある時期に多くの生物種が同時に絶滅することを「絶滅期」と呼ぶそうです。最も近くに起きた第五絶滅期は約6600万年前。恐竜たちもこの絶滅期で滅びました。そして現在、地球は「第六絶滅期」を迎えているそうです。驚愕と同時に「死」という無常を冷静に受け止める作者。肉体だけでなく心理にも及ぶ「涼し」。 ユリノキの花恐竜の目の高さ 野村かおり ユリノキは15メートルほどにも成長する大きな木。チューリップのような大ぶりの花をつけます。「ユリノキの花」を見上げ、俳人は夢想します。恐竜がいたらこれくらいの高さかしら、枝ごと花をむしって食べるのかしら。カガクとの出会いが俳人の想像をもっと楽しくしてくれます。 恐竜は死んだ蛙は生き延びた 平本魚水 ばかばかしいけどこんな率直な句も好きだなあ!巨大な「恐竜は死んだ」、しかし小さな「蛙は生き延びた」。大小を対句表現で並べることで詩を生み出す型。恐竜たちがいなくなった大地に次々と増えていく「蛙」は小さな身体で世界に音を発し始めます。 恐竜の肌は虹色かも素風 ひでやん 近年の技術発達の結果、昔はわからなかった恐竜の色までが判別できるようになってきました。ひょっとしたら「虹色」の恐竜もいたかもしれない、なんて驚きです。秋の風は色なき風、素風とも呼ばれます。恐竜に生えた色とりどりの羽毛を素風はそっと戦(そよ)がせていたのかもしれません。 恐竜の骨に噛み跡夏の空 くま鶉 夏空の下での発掘。「恐竜の骨」に見つかった不自然な凹み。これは他の恐竜が噛みついた跡だ、と断定される。そこから科学者たちの思考は広がっていきます。彼らはどんな生態だったのか。襲った恐竜の数や種類は。尽きることない科学者たちの探求心を吸い込んで夏空は青く広がります。 化石竜の眼の穴の闇秋の声 高橋寅次 組み上げられた恐竜の骨格標本。本来眼球が収まっているべき眼窩(がんか)はぽっかりと闇があるばかりです。「秋の声」は天文の季語でありながら、心理的わびしさをも含んだ季語。「目の穴の闇」を吹き抜ける風、あるはずのないその物音まで聞き止める俳人の聴覚。 恐竜の胃石ごろごろはたた神 中山月波 恐竜たちは食べたものを胃の中で砕くために石を飲み込み、「胃石」として体内に留めているそうです。発掘と共に出て来る「胃石」の数々。かつて恐竜の胃の中でこの石たちが「ごろごろ」と肉も骨も砕いていたという事実に驚きます。「はたた神」の轟(とどろ)きもごろごろと発掘現場をどよもす夏の日。 小鳥来てひろびろ恐竜の眉間 香野さとみZ 恐竜は進化の過程で大きな身体を捨て、空を飛ぶ力を手に入れました。そして現在の鳥へと姿を変えていったのです。今窓辺にくる「小鳥」の鮮やかな羽色も恐竜たちから受け継いだ色彩かもしれない。もし恐竜たちの時代にも「小鳥」たちがいたら、恐竜の広い眉間にも止まったかもしれない。時代を越えた俳人の色鮮やかな夢想。 図鑑よりプテラノドンの飛びて雪 きさらぎ恋衣 一読、飛び出す図鑑を想像しました。寝る前の読書でしょうか。ページを開くと立体に立ち上がって空を飛ぶ「プテラノドン」。外には静かな雪が降っています。楽しい気分のまま眠りに落ちた夢の中では本物のプテラノドンが空を飛んでいるのかも。 恐竜 佳作 万緑や恐竜の影隠しけり 野中泰風 灯火親し化石に翳す拡大鏡 腹胃 滴りやコバルトの羽閉じ込めて 板柿せっか 恐竜といたでで虫の琥珀かな 播磨陽子 時の日や恐竜の糞掘り当てり 島立隆男 恐竜の羽根の色して色鳥来 中岡秀次 恐竜の卵に罅や大夕焼 青海也緒 虹見ればきっと優しくなる恐竜 清水風流 籐椅子は揺るる進化論すら定まらぬ 松浦麗久 春の雪始祖鳥の目の開きけり 穀雨 足跡の化石の三つ春の月 亀田荒太 竜の首丸く畳まれ合歓の花 霞山旅 爽やかや恐竜と居るゴビ砂漠 花紋 囀りに混じる咆哮らしきもの 井上三重丸 恐竜の極彩色の鶏冠炎ゆ みねらる 森のごと恐竜の骨遠花火 クラウド坂の上 ブロントサウルスの足跡湖へ大夕焼 あまぶー ブラキオサウルスみたいな橋を走る夏 あいだほ 白亜の夏竜の色とりどりの生 しかもり あの蜃気楼眠れる恐竜のいびき ヒカリゴケ 火食鳥の爪恐竜の爪油照 ゆすらご ハンマーとタガネ仕舞いて麦茶かな 宇田建 夏の月白き化石のキンと鳴き 宮のふみ 遠花火今なお卵抱く化石 桑島幹 八月十五日恐竜は骨晒す 斉藤浩美 胃袋に石の記憶の良夜かな 土井探花 優しい竜でした抱卵の霜夜 富山の露玉 恐竜と鰐と駝鳥と赤まんま 椋本望生 傷だらけの恐竜の爪冬籠り 芍薬 遠雷やプテラノドンの骨密度 あみま 恐竜吼える吼える銀河の疼くほど ぐ 恐竜の系統樹枝先には小鳥 くりでん たゆとうて海竜の子を成す良夜 けいこ ユタ暑し恐竜に三百の骨 さるぼぼ 春光や紅き羽毛の竜番い しかもり 竜の骨撫でる熱砂の音のさやか しゃれこうべの妻 恐竜の目脂あふるる夜長かな しゅんや 恐竜の卵今宵の月の罅 どかてい 青鷺の恐竜だつたこゑの池 ときこ 中生代の岩をけずりて滝落つる ひなた 亀鳴くや隕石落下後の世界 ゆすらご 恐竜の色にも似たり朱夏の夢 よだか 恐竜の糞はつるつるレモン水 安宅麻由子 槌音や熱砂噛みつく歯の化石 一斤染乃 膝を折る恐竜 長き夜の抱卵 榎並しんさ 恐竜の爪先ほどの石竜子かな 佳山 その中に翼竜の子も小鳥来る 樫の木 春を待つ太古の竜の血は琥珀 岩のじ おろろおろろと恐竜哭くや夏の月 久我恒子 鉤爪の抱卵地平線ぬくし 宮武みかりん 恐竜の生まるる水辺星月夜 玉響雷子 風の死は化石とならず石を蹴る 綱長井ハツオ 梅雨晴間コプロライトに紅散りて 克巳 満月へ恐竜求愛の叫び 彩楓 恐竜の新樹にからむ長き首 斎乃雪 はじまりは小さな欠けら山滴る 坂井見居代 剣竜の昂りのまゝアロエ咲く 次郎の飼い主 白南風や恐竜前傾に走る 小泉岩魚 灼かれゆくトリケラトプスの首に傷 小野更紗 暴龍の足跡のいま青泉 雪井苑生 馬乳酒を飲み干すバヤンザクの夏 池之端モルト 風の秋トリケラトプスは夢を見る 天弓 月光やモササウルスの胎にゐて 田尻武雄 炎天や恐竜の背は放熱す 播磨陽子 日盛りやタールピットの青光る 飯村祐知子 満月をあく海竜の子宮口 比々き 恐竜に母性泰山木の花 片野瑞木 亀鳴くや竜の化石に二次性徴 北野きのこ 魚捕らえた翼竜ら夏暁へ 打楽器 朧夜や子を抱く恐竜の乳房 満る 恐竜の黴かもしれぬ背の福毛 福村まこと 進化とは存外速し時鳥 播磨陽子 プテラノもイグアノも「ドン」西瓜食む 渡邉竹庵 ダークマター降る白亜紀や星冴ゆる 中島容子 恐竜の知性母性や夏の露 大村真仙 霾や記憶現すゴビ砂漠 蒼介 山河けふ竜を飲み込む氷かな ちびつぶぶどう 野尻湖のナウマンゾウや水草生ふ ときめき人 日盛りやコプロライトに虫とまる 乙子女 刺しやすき皮膚はあるまじジュラ紀の蚊 古田秀 みゆうみゆうと子恐竜鳴く夏原野 宙のふう 海竜の腹に胎児や望の月 田辺みのる 下闇を血の香追ひゆく獣脚類 彼方ひらく 丹波竜化石も孕む栗の里 ふわりねこ 恐竜の癌に呻くか夏の夜 京野さち
2019年放送の「はやぶさ2」の特選句紹介
第3回 はやぶさ2 特選句 選者:夏井いつき 夏濤の記憶星にも子宮にも 青海也緒 ※夏濤(なつなみ) はやぶさ2が探査する小惑星リュウグウには水の痕跡があるかもしれないと言われています。生命の生まれる源となっていった「水」を秘めた「星」を思う時、自身がかつて命を宿した「子宮」のイメージが重なります。遥か隔たった両者の存在を「夏濤」の大らかさが繋いで力強い。 りゅうぐうに初めての客秋の風 あさふろ 「りゅうぐう」の名に思い出すのはもちろん浦島太郎の昔ばなし。遥か宇宙の旅を経て人類が初めて到達する小惑星リュウグウは、もちろん華美な都ではなく、荒涼とした岩の星。探査機の到達は涼やかに清新な思いを地球に居る私に思い起こさせるのです。 飛花落花三億キロを経て制御 斎乃雪 はるか「三億キロ」も離れた探査機を地球にいながら精密に「制御」し得るとは、人類の科学の進歩にくらくら目眩がする思いです。無作為に飛び落ちる桜の花びらの頼りなさよりもさらに捉えがたい存在を、科学者は今日も「制御」し導いているのです。 リュウグウへ涼しく触れて帰りけり 小野更紗 「リュウグウ」へのタッチダウンの映像を俳人の目線で描写した一句。ゆっくりと地面へ採取のための管が近づき、一瞬触れたかと思いきやすぐに上昇へ転じるはやぶさ2。その姿にも、パッと舞い上がる破片の波紋にも、俳人は「涼し」という季語を感受するのです。 リュウグウに海月の化石ありさうな 雪井苑生 ※海月(くらげ) 遥か地球からの観測により水を含んだ鉱石が存在すると判明した小惑星リュウグウ。「海月の化石」もあるかしら、リュウグウという名だし…と俳人は夢想するのです。頼りない半透明の「海月」が真っ黒な星の肌に刻まれていたらと想像するとファンタスティック! リュウグウへ行かん小春と水あらば 土井探花 「リュウグウ」を目指す科学的理由はさておき、俳人目線でその理由を語るならばこんな句になるのでしょう。遥か遠い小惑星にも水と、初冬の穏やかな春に似た日和があるのならば、さあ行きましょう、と。「小春」が想像と現実のバランスを取って味わい深い一句。 凡そ球状じゃがいももリュウグウも 板柿せっか ※凡そ(およそ) 科学者に言わせればまるで違う!と怒られそうですが、「凡そ球状」の大雑把な捉え方が個人的に大いに共感、笑ってしまいました(笑)。手の中のごつごつした「じゃがいも」に小惑星リュウグウとの共通点を見いだす、俳人の日常感覚から生まれるこの発想が大好き! 銅埋むる清明のリユウグウよ 彼方ひらく 「清明」は二十四節気の一つ。万物が溌剌(はつらつ)とする春の頃です。人工クレーターを作るためリュウグウへと撃ちこまれた純「銅」の衝突体は、見事10メートル以上のクレーターを形成しました。黒色のリュウグウに鮮やかに埋まるあかがねは、これから幾千年もの「清明」を迎えることでしょう。 恋猫に傷リュウグウに有機物 片野瑞木 地上にいる「恋猫」、はるか宇宙の「リュウグウ」。それぞれが持つモノを並列に語ります。「恋猫」は昨夜の争いの生々しい「傷」を留め、「リュウグウ」は弾丸に剥がされた「有機物」を含む破片として採取カプセルへと収められる。詩の天秤に両者がぴったりと釣り合います。 冷奴星に触れても良い時代 北野きのこ 人類にとって「星」は遠くに在り、ただ思いを馳せるだけの存在であった長い長い時代。しかし小惑星探査に乗り出した今は「星に触れても良い時代」である。その事実に驚きつつ、作者にとっての現実は目の前の「冷奴」をつつく、昔ながらの生活。飄々(ひょうひょう)とした対比に小市民的実感があります。 はやぶさ2 佳作 豆ご飯ターゲットマーカーはこんなかな あきはつ プレパラートの銀河に原始の欠片 いさな歌鈴 リュウグウの土産待ち侘び枇杷をもぐ カンガガワ孝川 石にあるベンゼン環や冬銀河 クラウド坂の上 竜宮やただ沈黙の冬の海 ちびつぶぶどう 水は在つたかアンテナ平らかに蝶は ときこ 竜宮の欠片拝借する無月 ひでやん 一億年前一億年後天の川 めいおう星 はやぶさ2冬舐めるよに宇宙嗅ぎ 鮎川 渓太 風光る三億キロを来る始原 宇佐美好子 冬雲や指令棟の拍手握手 宇田建 返信を待つ夏空の水の星 甘平 銀漢や生命の水を探しゆく 吉村よし生 星雲の鱗粉撒きて隼来 月の道馨子 はやぶさ2のニュース網戸に星ひとつ 高橋無垢 億年の水に棲んでる目高かな 石岡女依 その箱に星の若水汲んでこい 雪ぽん 無音なる胎児の夢か湖の月 走流 磁極から探査領域青嵐 大村真仙 地球とは何からできた春の海 大野美波 遠ざかるための引力冬の星 中岡秀次 ブラックボックス開ける呪文や鳩を吹く 直木葉子 十九分先のはやぶさ2の声 島崎伊介 はやぶさ2町工場難加工遂げ 南城馬天 出来のよい子だと褒められ夏の星 日午 隼の神の独楽なる星に添ふ 播磨陽子 目を持たぬ魚の星や月冴ゆる 平本魚水 「はやぶさ」や 二百十日の 白き渦 律儀者の子沢山 神様の難問次々明易し あまぶー 探査機の放つ弾丸竜天に えむさい りゅうぐうの石遙かなる星明り かつたろー。 リュウグウの破片飛び散る冬銀河 きなこもち 開闢の濁る枯野を遠ざかる ぐ 母は海父は星なり蓮の花 クラウド坂の上 ごつごつの星に舟着く夏至の夜 しかもり 剥がされる惑星の皮膚鳳仙花 じゃすみん エーテルも孤独も架空秋の宙 ちゃうりん かちこちと軌道修正てんと虫 どかてい カプセルに宇宙の起源ソーダ水 なかの 花梨 滴りや原始の地球より今へ ひなた 消印はリュウグウ滴りの匂ひ 一斤染乃 茅の輪めくはやぶさ2の大軌道 可笑式 星月夜渦の中心の静けさ 海葡萄 探査機の孤独な旅路花氷 海老名吟 「はやぶさ2着陸」馬鈴薯の芽を刳り貫く 樫の木 龍穴に隼の影止まりけり 亀の 引き合つてできる星空鶴帰る 亀田荒太 かそけき電波夏蝶を震わせて 鞠月けい リュウグウの砂石のロマン秋気澄む 宮本幸子 鮭太し星の静寂を回帰する 芹澤 順子 秋灯鉄瓶の肌星めきて 月の道馨子 惑星のサンプルに2グラムの夏 古瀬まさあき 超新星爆発冷し酒かちり 古田秀 地震の無き小さな星よ風涼し 綱長井ハツオ 心あるごと探索機夏の星 香野さとみZ 探査機のカプセルぽつん炎天下 高橋寅次 惑星のゲノム孕みて星涼し 克巳 猛禽の巣立ちのごとき逆噴射 佐々木のはら 銀漢や時の欠片を捕まえる 山田由美子 星屑は謎を解く鍵鳥渡る 山内彩月 ラムネ抜く音もあかるきタッチダウン 次郎の飼い主 太陽系はあな喧し月涼し 七瀬ゆきこ 月明の光と影の石拾ふ 純音 星の声拾う腕あり街に虹 小泉岩魚 盛夏待つコアセルベートの海の謎 小倉あんこ 爆発の記憶リュウグウの凹み 上原淳子 星涼し持ち帰りたるオルト雲 星埜黴円 草笛やはやぶさ2の降りる音 西村英雄 通信は十三分の時差落し文 斉藤浩美 会見の満面の笑み梅雨月夜 村上ヤチ代 夏星に触れて本望七億キロ 谷口詠美 傾いて降りる機体の秋思かな 中山 月波 エンジンの青き噴射や朧月 中西柚子 喜雨粛々管制室の三時間 田尻武雄 蚯蚓鳴き星の終はりを警告す 田村利平 竜宮は石の星らし旱梅雨 渡邉竹庵 哺乳せる宇宙しづかな冬支度 登りびと リュウグウを傷つけ冴ゆる星に住む 豚ごりら 孤独ではなき長やかな旅や夏 薄荷光 玉手箱の中身は時間冬銀河 比々き 夏へ切る緊急離脱時のシャッター 富山の露玉 運動の第二法則流れ星 腹胃 壮 生命の最初はアミノ酸銀河 豊田すばる はやぶさや虹を引っ掻く爪隠す 満る はじまりは何だったのか雪蛍 眠井雨 見えざるを掴む一徹星朧 野地垂木 りゅうぐうへ行きつ戻りつ半仙戯 有本仁政 無音吐き開闢の使徒舞い上がる 眞子 寂しがり屋の惑星めがけ隼来 芍薬
2018年放送の「チバニアン」の俳句作品を見たい
第二回 チバニアン <番組内でご紹介した俳句> 青葉闇磁場逆転の地層嗅ぐ 鮎川渓太 オーロラよ地球に漏れ出す赤き警告 弓簿 里山に地球ロマンのチバニアン カジ 千葉時代加ふ地球の走馬灯 有本仁政 灰掬ふチバ紀白尾や月の眉 倉形さらさ ※掬う(すくう) 金鋲待つ千葉セクションや月天心 次郎の飼い主 ※鋲(びょう) チバニアン恐竜のたまご抱いてるか 宙のふう チバニアン原人も見し流れ星 花谷馨 地球とは彷徨ふ磁石チバニアン 雪井苑生 ※彷徨ふ(さまよう) 地虫出づ磁場逆転の地層かな こふみ 夏冬が逆転の跡チバニアン samu 千葉時代とふ磁場のなき春の闇 香野さとみ 北海道チバニアン前南海道 飯尾和樹 薫風に星が繭張り守り神 新椛 オーロラのそそぐ氷野やチバニアン 中西柚子 海底が顔赤らめて千葉の泥 恵風 夏草やここは海底だったという 夏井いつき 時が経て秘め事あらわ雲丹の糞 セセロリス ※雲丹(うに) この地球の逆子の記憶蚯蚓鳴く 寺沢かの ※地球(ほし) ※蚯蚓(みみず) チバニアン海底に積む夏幾万 山内彩月 磁極から磁極へ道や鳥渡る 樫の木 七百の地層サンプル星朧 播磨陽子 ※朧(おぼろ) 緑陰に腸晒すチバニアン ふわりねこ ※腸晒す(はらわたさらす) 断層の灼け鼻先に熱の壁 夏井いつき <チバニアン 特選句紹介 選者:夏井いつき> 番組で紹介できなかった句の中にも、夏井いつきさんを唸らせる優れた句がありました。 そこで全ての応募作の中から特選として7本にコメントをいただきました。 緑陰に腸晒すチバニアン ふわりねこ チバニアンの地層は谷川に面した山の斜面に晒(さら)されています。斜面のすぐ上まで緑が迫る採掘現場。古い古い地層はさながら地球の「腸」。「緑陰」には何億年もの記憶を語る地層がしっとりと涼気に濡れています。 青葉闇磁場逆転の地層嗅ぐ 鮎川 渓太 未知の物に相対した時、人の好奇心は様々な形で表れます。「地層」の匂いを「嗅」ぎたい!と思う、その精神がまさに俳人。かつて地球の「磁場」が「逆転」した、その記憶を留めた地層は一体どんな匂いがするのでしょう。「青葉闇」が私たちの嗅覚を刺激します。 磁場逆転記す大地や青嵐 一斤染乃 番組未発表 千葉セクションを強い川風が吹き抜けます。山の緑を揺らしていく力強い「青嵐」。かつて海の底だった渓谷には数十億年前の「磁場逆転」の記憶が眠っています。海流に変わって風に磨かれるむき出しの「大地」に向かい、研究チームはまた新たな「記(しるし)」を読み取るのです。 磁極から磁極へ道や鳥渡る 樫の木 科学の視点で見れば、地球は巨大な磁石だといいます。磁極から磁極へと結ばれている磁力の道を、渡り鳥たちは知っているのでしょうか。何の道しるべもなく目的地へたどり着く渡り鳥を見上げながら、その習性と地球規模の自然との結びつきを思います。 苔の水露頭に光る逆転層 克巳 番組未発表 むき出しになった「露頭」には瑞々しい「苔」が生えています。崖を伝う滴りは苔を湿らせ、その珠の水がきらきら光ります。この方はきっと現地を見に行かれたのでしょう。まさに千葉セクションの姿をそのまま描写した、現場証明のある一句です。 ためらう磁極ねむれない含羞草 中山 月波 番組未発表 ※含羞草(おじぎそう) 地球の磁場が逆転するには数億年単位の長い長い時間がかかります。一度定まった磁極がまたゆっくりぶれはじめ、徐々に違う位置へと固まっていく。ためらうように定まらない「磁極」の姿と、ざわついてねむれない「含羞草」。科学的には何も関係ない両者を取り合わせることで詩的スパークが生まれます。 七百の地層サンプル星朧 播磨陽子 地層のサンプルを採取するために岩肌に穿たれた穴。採取用の機械でくり抜いたつややかな穴。本当に「七百」もの穴があるのか。あるいは「七百」はサンプルとして採取され並ぶ試料の数なのかもしれません。星朧の夜を静かに眠る「サンプル」はこれからどんな地球の歴史を語ってくれるのでしょうか。
2018年放送の「ニュートリノ」の俳句作品を見たい
第1回 ニュートリノ <番組内でご紹介した俳句> 冬の水湛えて星の終り知る うしうし 水槽は小糠雨受け金魚無し 伊予吟会玉嵐 ヘルメットにnakahata汗のノーネクタイ 夏井いつき 陽炎のやうなものよねニュートリノ くま鶉 春恋やニュートリノかなすり抜ける 鮎川渓太 貫通の粒子の無音星流る かぬまっこ ニュートリノ秋はすり抜けやすいかも 塩豆 花片の軽さニュートリノの重さ 一斤染乃 夏山に幽霊つかむ地下水槽 カンガガワ孝川 清水受くる四六時中や金盥 岩佐十零空 ※金盥(きんだらい) 幽霊の蛍弾けて湖の底 薄荷光 素粒子にかくも巨大な囮籠 克巳 ※囮籠(おとりかご) 捕虫網は五万屯なりニュートリノ 比々き ※屯(トン) 蝶の目の湖に天琅拾ひたり 田尻武雄 ※天琅(シリウス) 亀鳴くや素粒子ほどの振動に ときこ タンク開け前の戌年の水澄む サイコロピエロ七変化 しづけさに耳きゆんきゆんと鳴りさうな 夏井いつき 愛犬の名前にしたいニュートリノ 春雪 つかめない採用内定ニュートリノ ぴぴん ニュートリノなんでもすり抜けお化けみたい SAE 星死ねばニュートリノと蟷螂生まる ぐ ※蟷螂(とうろう) 青蜥蜴カミオカンデに尾を残し ときこ ※蜥蜴(とかげ) 蛍火や水のしじまをニュートリノ たんじぇりん金子 ニュートリノ原初高天原を出ず 斎乃雪 廃坑の水底蒼き朧かな 樫の木 ※朧(おぼろ) 秋天の粒子我らを透きとほる 寺沢かの 開闢の無音のことば銀河より 純音 ※開闢(かいびゃく) 見えないが在るたとえば百合の香のように 夏井いつき <ニュートリノ 特選句紹介 選者:夏井いつき> 番組で紹介できなかった句の中にも、夏井いつきさんを唸らせる優れた句がありました。 そこで全ての応募作の中から特選として8本にコメントをいただきました。 冬の水湛えて星の終り知る うしうし ニュートリノを捕らえる巨大な水槽。湛えられた「冬の水」はじっと静まりかえって、「星の終り」を知らせる粒子の到来を待っています。装置が粒子を捕らえた瞬間発せられる、青い光。冷たい一瞬のひらめきが、冬の水の刺すような冷たさを深くするようです。 枯野へと無垢な暗黒物質来 ヒカリゴケ 番組未発表 宇宙を構成する見えない物質と言われる「暗黒物質」。全く無垢な原初の存在。その粒子は寒々しい「枯野」へも降り注いでいます。目の前の茫漠たる枯野は、あらゆるものを通り抜ける無数の粒子を受け止める器のようにどこまでも広がります。 粒子にも恋にも質量あつて夏 よだか 番組未発表 ニュートリノを題材にしてこんな軽やかな句が生まれてくる愉快。重さなど限りなく小さい「粒子」と、目に見えず触れることもできない「恋」。どちらにも「質量」があると言い切る作者の「夏」は幸せなものになるでしょうか。鮮やかに過ぎていきますように。 廃坑の水底蒼き朧かな 樫の木 スーパーカミオカンデは今は使われなくなった「廃坑」を利用して作られています。ひんやりとした廃坑の奥深く、ニュートリノを捉える巨大な水槽が設置されています。空間全体が巨大な水底であるかのような大空洞。水気を含んだ朧なる夜の底を、水は蒼く粒子の到来を今日も待ち続けています。 秋天の粒子我らを透きとほる 寺沢かの 抜けるような秋空。身を温める秋の日射しが気持ちの良い日です。晴れ晴れとした「秋天」の下に立つ私たちを無数のニュートリノがすり抜けていきます。その「粒子」の知識を得なければただ気持ちの良い日であるというだけの感覚。科学が物の見方を変えるという体験のなんと楽しいことでしょう。 開闢の無音のことば銀河より 純音 銀河が始まったその瞬間、天地開闢の時。宇宙には無数の粒子が放たれたのでしょう。一切の音のない世界で放たれた粒子は今も「無音のことば」となって宇宙を飛び交っています。夜空に見上げる乳色の「銀河」は深遠な美しさに瞬いています。 数式の羅列囀の其処此処 村上ヤチ代 番組未発表 ※※囀(さえずり) 其処此処(そこここ) スーパーカミオカンデには世界中から何人もの研究者が集まり、日夜研究を続けています。「羅列」された難解な「数式」と格闘する研究所を一歩出れば、外は「囀」の降り注ぐ山中。固まった背中をうーんと伸ばすと柔らかな緑。其処此処から降る囀にリフレッシュし、再び研究へと戻ります。 水昏くいうれいの目方に歪む 中町とおと 番組未発表 ※昏く(くらく) 幽霊粒子とも呼ばれるニュートリノ。地下深くに満々と水を湛えて水槽は粒子の到来を待っています。「いうれい(幽霊)」ほどの微かな「目方」を捉え「歪む」水が蒼く昏く瞬きます。見えない物を捉えた瞬間の反応を科学の目は確と観測し、俳人の眼はぞっとする詩的真実として描き出します。