水平社宣言100年 (1)「人間は尊敬すべきものだ」

NHK
2022年3月6日 午後0:05 公開

人種や民族、障害やセクシャリティーなど、人はみないろいろ。しかし現実にはマイノリティーの前にはさまざまな社会の壁が立ちはだかっている。そんな社会に向き合う指針となるかもしれないと注目したいのが水平社宣言だ。100年前に宣言が生まれた歴史的経緯や理念を読み解きつつ、差別と人権について考えてみる!

近代以前には「エタ・非人」などと呼ばれた人たちが社会の底辺あるいは外側に置かれていた。明治政府はこうした被差別身分を廃止したが、社会には変わらず厳しい差別が残った。そんな差別に苦しんだ若者たちが、ちょうど100年前に立ち上げたのが水平社だ。

「人の世に熱あれ、人間に光あれ。」で締め括られる水平社宣言。今こそ誰もが自分ごととして「みんなが暮らしやすい、生きやすい世の中になるためにこの宣言を考えていきたい」と番組ご意見番の玉木幸則がシリーズの目的を語った。

部落民って誰のこと?

「僕が障害者ってことは(車いすに乗っているので)見てわかる。でも“部落の人たち”っていうくくりは… 」と話すのは、三井孝夫さん。差別の対象となる人たち(部落民)がどういった人を指し示すのか、わかりにくいと問いかけた。

角岡伸彦さんは、祖父が水平社運動に関わっており、先祖をさらにたどると「エタ」身分であるという意味で自分は部落民だと語る。それを受けて、宮前千雅子さんは、そのわかりにくさこそが、部落差別の問題にはあると指摘する。宮前さん自身は、被差別部落に住んだことはないが、ルーツが被差別部落にある。その上で、「差別する人はそこまで厳密に分けて、人を差別するわけじゃない。ごく恣意的なくくりで差別自体は行われる」と指摘する。

解放令がもたらしたもの 近代の部落差別

まず玉木さんが水平社のことを詳しく知るために奈良県御所市の水平社博物館へ。ここでは全国水平社の歴史や理念を伝える資料が展示されている。館長の駒井忠之さんに見せてもらったのは、水平社創立の約50年前、1871年に明治政府が出した『賎民廃止令(賤称廃止令)』、いわゆる『解放令』の写しだ。

そこには「エタ非人等の賎称が廃止され、身分職業とも平民同様たるべき」と記されている。

しかし現実社会の差別がなくなることはなかった。これまでの職業的特権が失われ、稼ぎのいい仕事には部落外の人たちが参入。一方で、一般の企業・商店への就職はままならない。逆に苦しい生活を強いられるようになったのだ。

部落民へのレッテル

大正時代、部落問題に世間の注目が集まる出来事がおこる。1918年、米の価格が暴騰したことを背景に起きた米騒動だ。ここに被差別部落からも多くの人たちが参加した。京都の米騒動は生活に困った女性たちが交番に押しかけたのがきっかけ。有力者から寄付された米の配布券を求めてのことだった。この事件では軍隊が出動し、多くの部落の住民が逮捕。新聞や雑誌は騒動が過激になった背景には「部落民の気質」があると報じた。「部落の住民の中には牛馬などの屠殺を仕事とするものが少なくない。その性質は粗暴で、ややもすれば残忍になる傾向がある」など部落民に対する一面的な報道が相次いだ。  

地元の歴史を研究してきた山内政夫さん「食えないのにね。米が欲しいのに、弾圧も厳しかったわけですよ。部落民だからそういうことをするというレッテルが貼られてしまいましたからね。有罪も続き、非常に傷跡が残った。自然発生的にできた集まりでは限界があった」と語る。

警察や行政も米騒動をきっかけに部落対策が必要だと考えるようになった。しかしその多くは世間から同情してもらえるように、部落の側に「言葉遣いや振る舞いを正せ」と説くものだった。関西を始め各地の青年たちは、「差別されているものがなぜ卑屈にならなければいけないのか、世間の同情を求めるのではなく、自分たちの力で差別と闘うべきではないか」と考え、水平社の母体となる集まりを作る。彼らはその理念をめぐって何度も議論を重ねた。そして水平社宣言が書き上げられたのだった。

誇りうるときが来たのだ

1922年3月3日、京都市公会堂。全国の被差別部落からおよそ700人が集まったとされている全国水平社創立大会。参加した人たちはどんな気持ちだったのだろうか。 悩みながらも参加した田中松月さんの証言がNHKに残っている。

「全国水平社創立のポスターに目がいって、うれしいような、何か恐ろしいような。我々はそれまで身元を隠そう、隠そうというような気持ち。そこへ自分の方から看板を掲げて大会を開くということ。そんなことしなくてもよいのに、なぜそんなことをするのか?という思いと、やっぱり何かしたいという思いがあって。複雑な気持ちで行ったんですね」

全国水平社創立大会では部落民に訴える宣言が朗読された。同情や哀れみではなく、人間は尊敬すべきものであること。さらには「吾々がエタであることを誇り得る時が来たのだ」、そして「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と訴えかけた。

水平社博物館の駒井忠之館長は「この宣言は、被差別マイノリティーが発信したものとしては世界で初の人権宣言」と指摘する。

水平社ができたことで何が変わったのか

スタジオでは「水平社ができる前後では、行政や部落の中から部落改善運動とか、同情融和運動っていうのがあった。これは要するに部落民が品行方正になれば、差別は無くなるんじゃないか、という運動なんですね」と角岡さんが水平社創立の時代背景について語る。

さらに宮前さんは水平社創立の意義について「水平社ができる前は、差別の責任は差別される側にある、というように、部落の人の多くも思っていた。でも水平社は、差別した人に抗議して、改めさせることによって差別を克服していこうとした。水平社の存在は、差別されることが当たり前だった時代に、視点を大きく変え、泣き寝入り状態だったものを声をあげていいんだと思わせた。」と指摘する。しかし宮前さんは水平社創立当時の時代的な制約として、中心メンバーの中に女性がいないことに着目する。創立翌年には婦人水平社が結成されるものの、部落出身であり女性である、という差別の交差性が問題として認識されることは百年前には難しかったと指摘する。

私の水平社宣言

スタジオに集まった人たちは水平社宣言をどう受け止めたのか?坂東希さんは「烙印(らくいん)を投げ返す時が来た」というフレーズにシビれたと話す。「非行のある子たちや引きこもりとか、いろんな生きづらさを抱えている若い人たちをサポートする仕事に関わってきた。その子たちって身近な大人から傷つくようなことを言われていたり、生き方を狭めてくるようなラベルみたいなのを貼り付けられている。」宣言文から「(烙印は)自分で剥がして、投げ返していいんだ」というメッセージを受け取ったと語る。

アメリカ先住民のラコタ族と20年交流を続けてきた岡本工介さんは「誇りを持ってNATIVE PRIDEとタトゥーしたり、黒人公民権運動でのBLACK IS BEAUTIFULというスローガンなど、自ら社会を変えていこうと当事者が立ち上がり、社会を変えてきた」と語る。生まれ育った被差別部落を出て、外の世界を見てまわる中で、宣言の「光」に気づいたと話す。

今は外国にルーツを持つ人たちの支援をしている三木幸美さんは、小学校の授業で水平社宣言を習った時から最後のフレーズ、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」の「熱」と「光」とは一体なんだろうかと考えてきた。「(マイノリティーであることで)力を奪われたり、選択肢を奪われたりしてきた時に、“怒り”すら奪われる。この“熱あれ”っていう部分は、(社会に対して)“なんでそうやねん”って怒ってもいいよっていうことだと思う。自分らしく生きたいと思う“熱” 。その“熱”があることで、自分の中に“光”が感じられるようになるし、それは多分、そう生きたい、そう生きられる世の中であってほしいっていう社会に対しての希望や光でもあると思う」

三井孝夫さんは大学の同級生で部落解放運動に関わっていた友人を通じて水平社宣言に出会った。「(宣言に)お前は、自分の障害をどう捉えてるんだ?みたいなことを言われた感じがしたんですよね。当時の僕って障害をなくすために“歩けるように頑張りなさい”、学校とかでも“周りの人に助けられるように、ニコニコしときなさい”とか言われてきていて、障害をマイナスに捉えていた。“自分が障害者である”ということをまず“認める”っていうことができていない状態がすごくしんどくて 。それを認めて、“障害者だから俺はできないんだよ、だけど、やりたいねん、だから手伝ってくれ”とか“一緒に戦ってくれ”みたいな仲間を作っていくことで、自分のことを好きになれるんじゃないか、みたいなことを思ったんですよね。」

「自分のことを好きになる」という三井さんの言葉に対し、宮前さんは「自分のことを好きになるって実はすごく大変なこと。水平社宣言の“人を尊敬する”っていうのが大事なワードなんですけど、西光さんは“自分たちの運動は<己に惚れよ>というようなものだという風に言ってるんです」と教えてくれた。差別でへし曲げられてしまった感情を元の美しい形に戻すことは、宣言が説く「誇り」にもつながっていく。「他人を尊敬しようと思ったら、自分のことも尊敬できないといけない、ということを西光さんは分かっていたのかなと思います」と宮前さんは語った。

立ち上がる勇気 受け継がれるバトン

角岡さんの地元・加古川市でも全国水平社創立の翌年、さっそく差別に反対する運動がおこったという。角岡さんがむかった。

1923年8月、ある事件が起きた。隣村の若者の差別的な発言を耳にした部落の住民たちが抗議。しかし相手は詫び状を書くことを断った。そこで部落住民200人は地域の寺を拠点に抗議活動を行った。角岡さんは地域の古老・前田さんとともに寺を訪ね、松本住職と事件について語り合う。角岡さんは事件の前年に誕生した水平社の存在を指摘、「差別することが当たり前、されることが当たり前の中で、水平社の創立で一筋の光が見えたのでは?」と言う。これに対し、森本住職は「今まで(差別で)抑圧されたものだけがたまっていたのではなく、これからは差別に対して立ち向かっていけると考えた。その後押しをしたのが水平社だと思う」と語る。さらに前田さんは「自分たちは差別を受けてきたし、受けているが、孫子の代までは差別させないという強い思いがあった」と語る。水平社の誕生ともに、たとえ被差別部落に生まれても、これまでの差別的な扱いに甘んじなくてもいい、これまでとは違う未来を選びとっていい、自分たちの手で作っていい、という考えが燎原の火のごとく全国に広がっていたのだ。

住民が寺にこもって2日目。警官隊が突入し50人以上が検挙された。詫び状を取ることもできずに弾圧で終わった事件。これ以来、地域の住民たちが事件に触れることはなくなっていった。角岡さんも、前田さんも、子どもの頃は事件のことを一切知らされなかったそうだ。

沈黙が破られたのは1970年代後半のこと。地域の人たちがお金を出し合って石碑を建てた。そこには100年前、差別と戦った20人の名前が刻まれ、角岡さんの二人の祖父の名前も刻まれている。石碑を建てると、この地が部落であると分かってしまう。反対する住民はいなかったのかと尋ねる角岡さん。「そういう人もいた。しかし差別する人たちに対して、前を向いて理解してもらうという方向でいきたいという思いが強かった」と前田さんは当時を振り返った。事件から来年で100年、バトンをどう受け継いでいくかは今も問われ続けている。

差別する/される、を越えていくための「出会い方」

スタジオでは角岡さんが歴史を知るということの意義を語る。角岡さんの故郷では以前は、お宮の秋祭りに参加できなかった。子どもたちが祭りに参加できるようになったのは差別発言への抗議活動から実に50年近く経ってからのこと。その際にも事件の記憶をどのように受け止めていくかという議論があった。自分には関係のない歴史だから知らなくてよいわけではない。全ての歴史は「今」につながっているのだ。

角岡さんの話をうけ、「まちづくりや教育の中でどう人と人が出会っていくかがすごい大事」と語るのは生まれ育った被差別部落で、まちづくりに取り組む岡本さん。 「差別する側/される側」ということで関係性を作るのではなく、同じ学校に行くとか、同じ生活をしていく中で、豊かな出会いをくり返すことで、その関係を越えていく必要があると、これからの展望を熱く語った。

水平社宣言100年スペシャル、次回も続きます!