精神科病院大国、日本。世界の病床のおよそ2割が集中し、入院が長期間となる人も多くいます。国連やWHOなどからは「深刻な人権侵害」と勧告を受けてきましたが、その内実が知られることはほとんどありませんでした。しかし、原発事故をきっかけに、その一端が明らかになってきました。精神科病院に39年間入院した男性の退院後の人生を追い、なぜこのような事態が生じているのかを探りました。
原発事故を機に自由を得た人たち
統合失調症と診断され、精神科病院に39年入院していた時男さん(66)。
退院の日は突然やってきました。
きっかけは2011年に起きた福島第一原発事故。時男さんが入院していた病院は原発から5キロ圏内にあり、すぐに避難指示が出ました。ところが避難先で「入院の必要なし」と診断されて退院したのです。
時男さんのように、原発事故をきっかけに精神科病院を退院した人は数多くいます。長期にわたって入院生活を送ってきた患者たちの取材を進めていくと、精神科病院の驚くべき実態が見えてきました。
「時男さんは長期入院の必要がなかった」と語るのは、退院後の時男さんを見守ってきた精神科医の石川信義さんです。薬を飲み、穏やかに暮らす時男さんと話すたび、その思いを強くすると言います。
「どうしてこの人が、精神科病院に40年も入ってなくちゃならなかったんだろう。人格の崩壊とかそういう類いの状況も見られないし、大変しっかりした人。その人が(精神科病院に)40年いたことに私のほうがむしろ衝撃を覚えた。彼もまた精神科病院の犠牲者、あるいは日本という国の犠牲者のひとりでもある」(石川さん)
なぜ長すぎる入院をすることになったのか?
退院を阻んできたのは何だったのか?
群馬県でひとり暮らしをしている時男さんは、いま、遅れてきた青春を取り戻そうとしています。
「なんで俺が入院しなくちゃなんないかと思って。40年間の空白を埋めたいっていう気持ちでいっぱいです。タイムトンネルから出て過去に行くみたいな感じ」(時男さん)
地域での友人もできた時男さんですが、入院生活であまりに多くのものを失いました。住まいは家賃3万5千円。生活は月8万円の障害者年金でやりくりしています。
「時間が戻るんだったら昔に戻りたいね。今のように独り身じゃなかったと思うんだよね。入院したおかげで台なしになっちゃったね」(時男さん)
2014年に退院した時男さんの、その後の生活は戸惑いの連続でした。病院で閉ざされた日々を送っていた40年間に、社会は大きく変化しています。時男さんは銀行のATMの使い方や切符の買い方など、生活に必要なことを一つひとつ覚えていき、最近になってようやく落ち着いた暮らしを取り戻しつつあります。
しかし、人生の喜びや苦労を分かち合える人は、かつての入院仲間しかいません。病院で長い時間をともに過ごした親友は、どのような思いで暮らしているのか。この日、福島県内の高齢者住宅で暮らす山口貞二さん(86)を訪ねました。山口さんは46年もの入院生活を経て2016年に退院し、原発事故以来の再会です。
時男さん:長かったな。
山口さん:長いな。
時男さん:地震(原発事故)がなかったら、こんなに自由になんねえぞ。
山口さん:なんねえ。病院だとひとり歩きはできないもん。絶対に。誰かついていかないと。付き添いがいる。幸せだな。ようやく幸せつかんだ。
時男さん:ほんとだな。
長い間、精神科病院での生活しか知らなかった二人。いま、ようやく得た自由をかみしめています。
必要のなかった長期入院と“隔離収容政策”
時男さんたちに転機をもたらした2011年の原発事故。原発の近くには5つの精神科病院がありました。
しかし、事故によって病院は機能を停止。入院していた1000人近い患者の多くが、県外の病院に転院することになりました。その中で、福島に戻りたいという患者たちが集まってくるのが福島県立矢吹病院です。
ここでは、避難していた患者を一時的に受け入れ、入院の必要がなければ退院させる取り組みを行っています。さらに、定期的に医師が回診して診断の見直しを行い、症状が落ち着いている患者が地域に戻るためのサポートもしています。実はこの取り組みが、精神医療の驚くべき実態を白日のもとにさらすことになったのです。
矢吹病院に転院してきた人は、5年間で52人。実にその半数が、25年を越える長期入院生活を送っていました。
さらに取材を進めると、衝撃的な事実がわかってきました。矢吹病院副院長の医師、佐藤浩司さんによると、多くの患者が長期入院しているにもかかわらず、その9割は入院治療の必要がないと言います。
「適切な治療をやっても改善しないので、入院治療の努力が必要とされる人たちは40名中2名くらい。つまり残りの38名は入院(治療)を必要としていない。それだけ入院を必要としている人たちはいない」(佐藤さん)
実は、日本は精神科病院大国で、世界の病床のおよそ2割が集中しています。入院期間もほかの先進国と比べて突出しており、平均在院日数は先進国が28日に対して日本は270日。5年以上入院している患者はおよそ10万人もいます。
こうした日本の精神医療の状況は「人権侵害にあたる」と、国連やWHOなどから何度も勧告を受けてきました。その内実はほとんど明かされることがありませんでしたが、原発事故を機にその一端が見えてきたのです。
必要のない長期入院が行われている現実。そのありさまは、戦後の国の政策によってもたらされたものです。
高度経済成長に向かう1951年に、国は「精神障害者によって年間1000億円の生産が阻害されている」とし、隔離収容政策を打ち出しました。当時の国家予算は7500億円。精神障害のある人による犯罪や、家族が働けなくなることによる巨額の経済的損失を防ぐという理由でした。
その流れに追い打ちをかけたのが、1964年に起きた事件。アメリカの駐日大使が精神疾患の疑いのある少年に刺されたのです。精神障害のある人を野放しにせず、収容すべきとの主張が、連日メディアで繰り返されます。その結果、精神障害のある人は危険だという風潮が作られていきました。
さらに、国は精神科病院の医師や看護師数の基準を緩和。患者一人にかける手間を減らし、病床数を増やすほどもうかる仕組みにしました。確実な収益が期待できるようになったことで、ほかの業種からの参入が相次ぎ、病床数が急増していきます。
しかしその頃、海外では真逆の動きが起きていました。人権意識の高まりから退院が進められ、日本は世界一の精神科病院大国となったのです。
出典:OECD Health Data 2000.2017
開放医療に取り組んできた医師の石川信義さんは、国の政策に問題があったと指摘します。
「精神障害のある人をいわば社会の邪魔者として、あるいは厄介者として、精神科病院を作って収容せよという国の政策がありました。精神科病院が治療病院としてよりは、社会防衛の一翼を担って収容所化していた。また、国はそれでよしとしたことに、基本的な原因があると思います」(石川さん)
その後、一向に進まない退院と、入院患者が増え続ける状況に、国連の場で非難の声があがります。それを受け、1987年に国は隔離収容政策を転換し、精神保健法が成立。患者たちの退院促進を掲げます。
しかし、グループホームなど、地域で自立生活を行う仕組みの整備が始まりましたが、精神障害のある人の施設がつくられることに住民が抵抗。各地で反対運動が巻き起こったのです。
結局、多くの人は受け皿をなくし、病院での長期入院を余儀なくされました。家族からも地域からも受け入れられず、人生の大半を病院で過ごしてきた患者たちにとって、退院は容易ではありません。
なぜ入院しなければならなかったのか
時男さんは改めて人生で失ったものの大きさを感じています。
両親は、時男さんの入院中に亡くなりました。葬式に参列できなかったことが悔やまれると言います。
「(父親は)俺のことを最後まで考えてくれて、死ぬ間際まで『時男、時男』と言って死んでいった。俺、なんとも情けない。今は一人暮らしをして、普通の暮らしをしてるから、安心して眠ってくださいと祈りました」(時男さん)
時男さんの人生の歯車が狂い始めたのは、10代の頃です。高校1年生のとき、時男さんは家を離れて東京へと向かいます。時代は高度経済成長真っただ中。都会で新たな人生をスタートさせたいと、希望を抱いていました。
「東京はまるで別世界だったね。福島にいるときとは全然違う。人が多いのにびっくりして、街の雰囲気に飲み込まれそうだった。やっぱり自分は馴染めなかったのかな、街の雰囲気に。街は人が多くて、店も繁盛して、忙しくて、それについていけなかったんだよね」(時男さん)
仕事に打ち込んでいた17歳のとき、統合失調症と診断されました。
「誇大妄想がひどかった。テレビで俺のこと言ってるって。カメラ目線というか、俺もテレビ見てるでしょ。テレビ(の出演者)の見ている目が、俺の目を見ているように感じて、『ああ、俺のこと言ってんだな』と思って。それが妄想に発展しちゃう」(時男さん)
時男さんは東京の精神科病院に入院。治療を受け、ほどなくして退院します。その後、薬さえきちんと飲めば症状が出ることもなく、仕事に意欲を燃やしていました。
しかし、精神障害者への差別が強かった当時、入院したことで家族からも偏見の目が向けられるようになります。
「おじの家に(遊びに)行って、そこでひと晩寝て、明け方になって足がつったんだよね。痛くて騒いだら、『また時男がおかしくなったんじゃないか』と、病院に入れられた。(自分のことを)特別なものを見てる感じがしたな。(一度)病院に入っただけでも、やっかいなやつだと思われたんじゃないかな」(時男さん)
22歳のとき、父親に言われて福島の病院に転院。稼働したばかりの原発に近い病院でした。以来、原発事故の発生まで、時男さんは人生の大半をそこで過ごすことになったのです。
“長すぎた入院”が奪ったもの
空白の39年をたどる旅路。この日、時男さんが向かったのは、子ども時代を過ごした福島市です。しかし、子どもの頃に見たふるさとの姿はもうありません。
「耐えてやっと退院にこぎつけて、ふるさとに戻ってきた。50年前に比べたら、ビルがすごく増えた。うれしいような、懐かしく思うね。みんな変わっちゃった。全然面影がない。知ってる建物ひとつもない。ほんと浦島太郎だ」(時男さん)
そして、原発事故以来、初めて入院していた病院を訪ねました。病院があった福島県大熊町は、今も大半が帰還困難区域になっています。立ち入りは制限され、中で暮らしている人はいません。病院の看板が残っている建物を見て、時男さんが当時の暮らしに思いをはせます。
「昔のことを考えてみると、嫌な思い出ばっかりあったけど、確かめて頭に刻んでおきたいと思って。懐かしいやなあ。まるっきりあのままだ。時間が止まったみたいだ。部屋から眺めて、いつ出られるんだろうなって考えてて、身動きとれなかったときもあった。今こうやって見ると、本当に苦しかったなあ、あの頃は。自分の人生がここで終わるのかなって思ったときもあった。早く退院していれば、家族を持ってたかもわかんないんだよな。子どもだっていたかもわかんないんだよな。だけど、どうしようもなかった」(時男さん)
病棟での日々。その思いを時男さんは詩にしたためていました。入院18年目、39歳のときの詩です。
外に出たい かごの鳥
毎日餌をついばむ かわいそうだ
しかし 私もかごの鳥
私も同じ運命
毎日食事をし いつもスケジュールをこなす
早くこの病棟から出たい
私もかごの鳥 私もかごの鳥
外を見る
小鳥たちは自由に大空を飛び交う
私の夢
ちょっとでいいから自由に外で遊んでみたい
新しい生活
病院にない空気を思いっきり吸いたい
退院できなかったワケ
自分は本当に退院できる可能性はなかったのか。
時男さんは話を聞くために、入院していたときの看護師を訪ねました。
元看護師:あらー、こんにちは。お久しぶり!
時男さん:元気かい?
元看護師:元気だよ。
時男さん:変わりないな。
元看護師:時男さんは、病状が安定してからは皆さんから慕われてたね。表情もなにもすごく立派だったのよ。かけ離れて立派だったの。
時男さん:そんなことないよ。
元看護師:本当そうだったの。正直で真面目だった。模範青年だった。
時男さん:ははは、模範青年…
元看護師:模範の患者さんだった。
ここで時男さんが、ずっと聞きたかった疑問をぶつけます。
時男さん:俺、退院する可能性なかったのかな?
元看護師:可能性はあったんだけど。もうよくなったんだし、若いんだから、「社会復帰させてあげたらどうですか?」っていう話は度々出てたね。
時男さん:清水院長のとき、退院できなかったのかな?
元看護師:退院できる状態、寛解状態(症状が治まって穏やか)だったの。
時男さん:俺、寛解状態だったの?
元看護師:そうそう、寛解状態だったんだけど、退院のことばかりせがんでたから、結局、精神的に不安定な部分もあったもんね。
時男さん:あったんだよね、やっぱりね。
元看護師:そうだよね。
時男さん:清水院長のとき退院できればよかったんだよね。退院できなかったもんな。
退院が検討されていたにも関わらず、なぜかなわなかったのか。
現在、認知症専門病院の病院長を務めている医師の清水允凞(しみず・のぶひろ)さんは、1974年から5年間、主治医として時男さんを診ていました。時男さんが入院していた病院の体制について、清水さんが振り返ります。
「(当時の病院の印象は)すごくよくないですよ。(200床の病院で)医者が一人しかいなくて、それを平気だといって続けているようなことが、当時は通用したんですよ。常識的でない常識ですよ。入院されている患者さんの人権はほとんど認められてなかったですね。そういう時代だったんです」(清水さん)
当時、清水さんは医師を増やし、できるだけ患者を退院させる方針を打ち出しました。
「病棟は(病気を)治してくれません。病院の中でできることと、薬ができることはここまで。それから先は、家庭と社会が治してくれるようにしなきゃいけない。そこで治してもらわなかったらよくならないんですよ。だから、自分たちはここまで、薬はここまで、それ以外のことは病棟ではできないから、退院がいいという考え方だったんですね」(清水さん)
その後、清水院長は任期を終えて退任。時男さんの入院は続きました。
「時男さんは、それからずっと40年も入院していた。ということは、僕と違う考え方で治療がされていたのだと思いますね。まだ危険があるかと考えると、退院できなくなります。それはのちの主治医の考え方によります。その考え方がいけないとは言い切れないですよ。今でもほとんどの病院がそうだと思います」(清水さん)
退院の可能性はなかったのか?家族への問いかけ
何が自分の退院を阻んだのか。
時男さんは病院から2000ページを超えるカルテを手に入れました。
入院して14年目、37歳からのカルテを見ると、「体調がよく、穏やかに過ごしている」という記述が頻繁に出てきます。幻覚などの症状が出たのは23年間でわずか2回しかありません。その間、時男さんは繰り返し退院を訴え続けていました。
時男さんは、年に一度面会に来る家族にも退院を訴え、家族から病院に退院を申し出てほしいと頼んでいます。当時、退院には家族の意向が大きく反映されていましたが、父親の答えは「誰が見てもよくなったら」と、そっけないものでした。
家族が退院を強く主張してくれれば、もっと早く出られたのではないか。答えを得たいと、時男さんは10歳あまり年の離れた弟に会いに行き、静かに問いかけます。
時男さん:なんで退院させなかったのか。家ではどんなこと考えてた? 病院任せにしてたべ、家では。ずるずるっと39年も置かれちまった。だから家のことわかんなかったんだな。家では退院させる気ねえのかなって。俺のこと何考えてるのかなって、疑問に思ってた。家ではどんなこと考えてたの?
弟:どんなことって…
時男さん:俺のことをどんなふうに思ってたか、聞きたかったんだ。
弟:まあ、商売やってるからな。とにかく忙しかったからな。
時男さん:忙しいから俺のこと考えられなかったか…。俺はひとりで孤独だったよ、誰も来ないで。みんな面会来ないで。誰も来なかった。つまんなかった。自殺した人もいるんだよ。出られなくて絶望して死んだ人もいる。でも俺、我慢していつかは退院できると思って、我慢してたんだ。
弟:…
弟は黙ってうなずくだけでした。
夢を持って人生をやり直す
時男さんの友人たちも次々と退院しています。この日、1年前に退院した15年来の親友を訪ねました。原発事故以来の再会です。男性は、グループホームで暮らしながら、自然栽培を行う作業所で働いています。
時男さん:楽しい?
友人:楽しい。病院にいるよりいいですね。
時男さん:病院にいるよりいいよな。
友人:明日が見えますから。生きているうちは前に進んでみないといけないので、毎日、一日一日、前が見えるということは、病院ではなかったですから。僕も時男さんみたいに一人暮らしをしたいです。グループホームもいいですけど。
時男さん:できれば家庭を持ちたいと思ってるんだ。やっぱり何か夢がねえと、生きている張り合いがねえもんな。家族持つっていうのは一つの夢だよな。一歩一歩、夢つかもう、ふたりで。俺もがんばっから、お互いがんばっぺ。
原発事故をきっかけに自由を手にした人がいる一方、全国では今なお、長すぎる入院が続いています。
日本で1年以上入院している人は18万人。5年以上の入院はおよそ10万人います。
※この記事はETV特集 2018年2月3日放送「長すぎた入院 精神医療・知られざる実態」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。