東日本大震災から12年、津波に襲われた東北沿岸部には総延長400kmにわたる防潮堤が完成されようとしています。クローズアップ現代では、震災で被害を受けた宮城県亘理町を舞台にした小説「荒地の家族」で、今年1月に芥川賞を受賞された仙台在住の作家・佐藤厚志さんとともに、防潮堤がそびえる町を縦断しました。佐藤厚志さんから、旅についての手記を寄せていただきました。
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防潮堤を辿る旅を終えて
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宮古市田老地区、道の駅「たろう」を右折すると、間もなく白いコンクリートの巨大な建造物が見えてくる。コの字型に漁港を囲んで聳える、高さ14.7メートルを誇る最大規模の直立型防潮堤である。
壁の大きさに息を飲んだ。言葉が出てこない。海にきたという感覚はなかった。
防潮堤に開いた門をくぐると小型漁船がぽつぽつと浮かぶ穏やかな漁港の風景が見渡せ、ようやく海の営みを間近に感じることができた。
海に向かって左手には名所の山王岩を望む展望台があり、対岸に黒々とした岩山が海の眺望を遮る。岩山はウミネコの繁殖地だと聞いた。湾というより、入り江に近く、12年前に押し寄せた津波は17メートルを超えたともいわれる。
強風に吹かれながら、防潮堤に備えつけられた階段をのぼる。町の景色を一望できると期待したが、陸側を向いても見えるのは民家の屋根部分と山沿いの家々だった。陸からであれば、二階三階からでも海は見えないだろう。
道の駅「たろう」に戻り、道路を挟んだ菓子店の主人田中和七さんに意外な思いを聞いた。14.7メートルの巨大なコンクリートの壁に違和感は感じないという。むしろ15メートルに届かなくて残念だとも語った。
「強固な防潮堤がなければ、安心して娘を店頭に立たせられない」
菓子店の目の前は海である。そう語る田中さんから、家族への思い、そして再興した菓子店を守りたい切実な思いが伝わってきた。
その後、語り部として田老地区の震災の歴史を伝える小幡実さんの案内で高さ10メートルの第一防潮堤を歩いた。第一防潮堤は昭和8年の三陸大津波を受けて東京から技術者を呼んでつくられたという。田老地区では防潮堤を「防浪堤」と呼ぶ。菓子店の田中さんも、小幡さんも物心つく頃には防浪堤はあって、昔遊び場にしていた記憶を懐かしそうに思い出していた。よじ登ったり、待ち合わせの場所にしたり、冬は橇遊びをしたりした。
防浪堤と暮らすのは町の宿命だと小幡さんは語る。海の町の住人はもちろん海を見て暮らしたいと望む。だが、田老地区では防浪堤は風景の一部として受け入れられ、親しまれさえしている。12年前、津波は第一防潮堤を越えて町を襲ったが、田中さんも小幡さんも、遺体や家財が流出するのを防いだという側面を強調した。
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翌日は石巻市中心部から北上川に沿って河口を走り、雄勝町へ向かう。
湾を囲む道路は、まるで山間を走っているかのような錯覚を覚える。「日本一美しい漁村」ともいわれた雄勝の景色は全く見えない。もし防潮堤がもっと低かったら、絶景のドライブコースだったはずだ。要塞のような防潮堤が守っているのは、交通量のほとんどない道路と災害危険区域に指定され、新しく家の建てられない荒地がほとんどである。
雄勝は山と海が近い。
話を聞いた漁師の佐野内利昭さんは家の前が自分の漁場であり、お邪魔した時はちょうど獲ったナマコを海に沈めているところだった。
防潮堤について聞くと矢継ぎ早に話し、感情をほとばしらせる。電動式の防潮堤の門が津波を受けて本当に動くのか。波が防潮堤を乗り越えたら陸から水が逃げないではないか。去年3月の地震では防潮堤にひびが入ったが突貫工事ではなかったか。
「津波がきたら海水はどこへいく、小説家先生ならわかるだろ」
強い口調で問われた。
狭いところへいきますか、と聞くと、湾の奥のその狭いところには防潮堤がないんだ、と高い防潮堤と対照的な湾奥を指さした。さらに高台移転先の区画についても「いつか戻ってくる人の余地が欲しかった」と話す。町を出た人も気持ちが変わるかも知れないと、土地の確保を求めたが聞き入れられなかったと悔しさを滲ませた。
声が届かなかったと話す佐野内さんに、どうして雄勝に残るか聞いた。
佐野内さんでさえ、震災直後は他所へ移ろうかと考えた。だが、海が好き、雄勝が好き。そして海の仕事がある。これからの時期はホタテの稚魚の耳吊り作業があるという。山の間伐もある。やることはたくさんだ。雄勝への愛をひしひしと感じた。
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山元町は、祖父の実家である亘理町の隣である。途中、車からの景色も見慣れたものだった。海岸へ出て防潮堤にのぼる。犬の糞が落ちていて、防潮堤が住民の散歩コースなのだと知れた。陸を向けば荒涼とした平らな草地が広がっていた。
まばらに住宅の残る中、色彩の書いた風景にキャンプ場「カサノバ」のカラフルな看板が目立つ。トレーラーハウスが置かれ、中ではオーナーの齋藤順子さんがパンを販売していた。
齋藤さんは周囲の人や出会った人のアドバイスで少しずつカサノバができていったと話した。思いついたらやってみる。シンプルだが難しい。
被災したイチゴハウスがあった土地を利用しているという。捨てがたいイチゴ栽培への思いを、齋藤さんと話している間に何度も感じた。近所の人はもちろん、噂を聞いてパンを買いにきたり、キャンプをしにきたりと人が集まる。荒涼とした場所に人の集まる場所があった。
話を聞いていると、近所の砂金良宏さんがパンを買いにきた。時々くるという。
八重垣神社を指さして、震災前に住宅が建ち並んでいたあたりを教えてくれた。砂金さんは被災した自宅を修繕して住み続けている。
どうして住み続けるか聞いてみる。
親しんだ近所と住み慣れた家が一番だというが、本当は母のためだったと語った。知らない人と積極的に話すタイプではなかった母の気持ちを思いやる砂金さんの優しい人柄が伝わってきた。
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岩手県宮古市田老地区から宮城県南部山元町まで防潮堤を辿って旅をしてきた。住み続ける人も、親しんだ土地を出て暮らしを立て直した人も揺れ動く気持ちを抱えて前に進んできた。
震災から立ちあがろうという意思を高く保ち続けるのは簡単ではない。復興の進みゆきに合わせて不安を感じながら、行政、地域、家族で目指すものに相違があるのは当たり前だ。理想通りにならず、思い通りにいかず、数え切れない辛酸をなめた。
元には戻れない。その事実を噛みしめながらも、大切な日常を日々積み重ねてきた先の、一見立て直したように見える今の暮らしがある。
田老の菓子店主田中さんの奥さん、和氣子さんは「震災直後は感情が麻痺していた」と別れ際に控えめに話した。最近は泣いたり笑ったりできるようになったそうだ。思い詰めて田老で懸命に生きてきた家族の姿に思いを馳せ、胸が苦しくなった。
震災から一二年経つ。節目でも何でもない。東日本大震災の経験は置かれた場所で一人ひとり全く違う。わかっていたつもりだったが、改めて地域、家族、個人によってまるで事情が違っていた。どれだけその感情を掬おうとしても、指の間からこぼれてしまう気がした。
《了》
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●クローズアップ現代 2023年3月8日放送 ※3月15日まで見逃し配信