ブレイディ みかこさんに聞く “他者の靴を履く”ことの意味

NHK
2021年7月8日 午後6:24 公開

ベストセラーとなった『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の著者、ブレイディみかこさん。同書で紹介され、注目されるようになったのが、「エンパシー」、意見の異なる相手を理解する知的能力です。「他者の靴を履く」力と表現され、多くの共感を呼びました。新著『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』では、さらにエンパシーについての議論を進め、ジェンダーをはじめとする様々な問題に対して「他者の靴を履く」(=相手の立場に立ってみる)ことの重要性だけでなく、日本においては主に女性が負っている「エンパシー搾取」という負の部分にも触れています。現代社会において、「他者の靴を履く」ことの意味について、番組制作者がお話を聞きました。

「他者の靴を履く」ことの大切さと 日本人女性にかけられた呪い

Q.今回、番組では、ジェンダーギャップについて、自分が感じている身の回りのギャップなど、身近な視点から語っていきたいと思い、実際に「他者の靴を履く」体験を、2組の被験者の方にしてもらいました。目線のカメラやマイクを付けていただいて、相手の目線や音を頼りに、別の人の体を通して日常を送ってもらうことでギャップに気付いてもらおうという実験です。ブレイディさんは、まさに、このことの重要性について発信されてきました。

ブレイディみかこ:今回の番組の実験は、他者の視点を獲得する=パースペクティブ・テイキングという体験ですね。パースペクティブ・テイキング、すごく大切だと思います。私は、昔、保育士だったんですが、保育士の資格を取ったときに「子どもと話すときは、必ず腰を下ろして、子どもと同じ目の高さでしゃべりなさい」と何度も言われました。

 子どもに安心感を与えるというのもありますが、それだけではなくて、子どもの目線の高さになったら、どれだけ他の保育士や大人が大きく見えるのか、そこから話しかけられたときに、どれだけ子どもが威圧感を感じるのか。同じ視点に下りたときには、「あの棚ちょっと高くない?子どもには取りにくくないかな?」とか、そういうことにも気付くんですよね。だから他者の視点を獲得することは、まさにエンパシーの第一歩だと思います。共感(=シンパシー)というのは、他者に自然と同情したり共鳴したりして、気持ちから入っていくことですが、エンパシーは、もっと知的作業、意志的に行う作業であり、他者の立場に立ってその人の考えや感情を想像してみる能力のことです。その能力を身に付ける第一歩がパースペクティブ・テイキングだと思います。

 本の中でも取り上げたことですが、息子の中学校の先生が、学校のロックダウン中に生徒に出した課題に、『ロミオとジュリエット』のロミオになってジュリエットにラップ調のラブレターを書き、次にジュリエットになって、ロミオにクラシックなラブレターを書いてみるというものがありました。そうすると、普段、マッチョで反抗的な態度を取る男子学生が、ジュリエットになりきって、スイートで文学的な素晴らしいラブレターを書いてきて、逆に、普段は目立たないおとなしい子が、いきなりラップでクールなものを書いてきたりして思わぬ傑作が生まれたというんです。

 マッチョで乱暴なイメージの男の子も、本当はエンパシーとか思いやりの深いところがあるんだけど、「男の子たるものは強くあれ」「男は感情的になるな」みたいな鋳型に囚われているから、そうした部分を出せないとしたらどうでしょう。その子は素晴らしいラブストーリーを書く作家になる潜在能力があるかもしれないのに、そういう可能性が、もしかしたらジェンダーロールに囚われることで、失われるかもしれない。

 今回の本にもう1つ書いているのが、コロナ禍に女性の指導者が対応に成功したと言われていたことです。やっぱり女性のほうがエンパシーに長けているから成功したとのでは、と言われがちですが、これについては異論もあり、ニューヨーク大学の社会学教授キャスリーン・ガーソンは、男性の政治家たちは、女性と比較すると「指導者たるものこうあるべき」という鋳型にはまりがちで、たとえエンパシーに長けた人であっても、それを公に見せまいとすると主張しています。指導者は、感情的になって思いやりや優しさを見せるより、いかなる状況でも動じない強さやパワーを見せなければと思い込んでいるというのです。だから、コロナ禍でも女性みたいに、エンパシーのあるところを見せられない。女性指導者たちのように、強く、決断力もあるけど、思いやりに満ちた一面もあるという、多面的な指導者像を打ち出せなくなるんです。そうだとすれば、これもジェンダーロールに囚われて自分の能力を発揮できない一例ですよね。

 本当は、パースペクティブ・テイキングもできるし、エンパシーという力を持っているのに、ジェンダーロールから逸脱したら男として不利になると思い込んで自分のポテンシャルを狭めている。逆に、そういうことは女性の側でもあると思うんですよね。

 そういうことからもっと自由になると自分も周囲も楽になると思います。他者の視点をたくさん獲得して、いろんな考え方があることがわかれば、たとえば子どもだって、自分の親が言っていることとか、先生が言っていることがすべてじゃない。もっといろんな考え方、いろんな見方をしている人たちがいるんだってわかって、息苦しさがなくなる。

 その集大成が、今とは違う社会があると想像して、新たな社会を創り出していく力につながっていくと思うので、その第一歩として、他者の視点を獲得するっていうのはすごく大切な、エンパシーの第一歩だと思います。

Q.新著の中で、「他者の靴を履く」ことができる人たちの社会をつくるためには、自分たちにかけられている呪いを解く必要があると書かれていました。ブレイディさんは、日本のジェンダーの問題の中に、どんな呪いがあると思われますか。

ブレイディみかこ:男性も「男たるもの」みたいなものに縛られて息苦しさを感じておられるでしょうが、現実的につらそうなのは、やっぱり女性のほうですよね。ジェンダーロールの呪いがあるから、女性が「エンパシー搾取」されている。

 家庭でも、女性のほうが、男性や子どものケアをしているケースが圧倒的に多いじゃないですか。常に他者をケアしている人のほうがエンパシーという能力は伸びるので、「子どもが明日学校であれやるから、あれを忘れていったら恥をかくだろう」とか、「夫のシャツがちょっとしわくちゃだから、アイロンかけておかないと、明日ミーティングあるって言っていたな」とか、つねに他者の靴を履いて、いろいろ家の中で気を回して動いたりしている。

 そうすると、他者のことを考える力を持っているがゆえに搾取されるっていうか、ケアラーの役割を一手に引き受けることによって自分のしたいことが主張できなくなる。「私がこういうこと言うとわがままなんだわ」とか、「きっと皆が困って家の中が動かなくなっちゃうから、私は自分を押し殺して」ということになる。他者の靴を履き過ぎて、自分の靴を手離すんです。だから今回の本では、ちょっと一歩進んで、「私は私を生きる」っていう軸を入れないと、エンパシー能力ばかり高めていっても、搾取される場合があるということも書いたんです。極端な話、DV(ドメスティック・バイオレンス)だって一つのエンパシー搾取の例と言えないこともないんです。

 殴られても、「いや、この人もこの人でつらいんだ」「こんなことをしてしまうのは理由がある」とか、自分に暴力を与えている人の靴を履いてしまう。「私がここでいなくなったら、この人は、本当にいよいよつらくなる」と考えてしまって、逃げないから最終的には命を落とす悲劇的なケースもある。だから、そこにやっぱり「私は私自身を生きているんだ」っていう軸を入れないといけない。

Q.「私は私を生きる」っていう軸を持つことが、呪いを解くことにつながるのでしょうか。

ブレイディみかこ:それしかないんじゃないですか。私の人生は私のものだし、私が私の人生を生きなきゃ、誰も私を生きてくれないですよね。他者の靴ばっかり履いて歩いていたら、気付いたら自分がいたくなかった場所に来ていたっていうことが、結構あると思うんです。

 他者の靴を履くことはすごく大事だけど、それが他者に自己を明け渡すことになってはいけない。自分は自分の靴を履いて、自分の人生を歩いているんだっていう軸をしっかり入れないと、発する言葉ひとつにしても、自分が言ってるんだか誰が言ってるんだかわからないものになってしまう。イギリスでは、もっとやっぱり、自分の考えていることを自分自身の言葉として言える人が多い。組織や立場や、あるグループの一員としてそう喋ることを期待されている言葉ではなくて。ジェンダーロールなんかもまさにその一つだと思うし。

 今、日本では、このコロナ禍で女性の自殺がすごく増えていると聞いています。今こそ、本当にジェンダーの呪いを解いて、「何で私たちだけこんな目に遭っているのよ」って、「はしたなく」言っていかないと。あまりエンパシーを働かせすぎると、「皆、つらいんだから、私も自分でやらなきゃ」とか、「私のせいなんだ」とか思うようになってしまう。でも、それこそ実は「国が女性にDVをしている」ような政治の状況かもしれませんよね。

 例えば、コロナ禍で大変な思いをされていた看護職、介護職の方々などは、ケアを仕事としているだけにエンパシー能力が高い部分があって、それはそれで搾取される危険性と背中合わせです。すごく賃金が安いのだから、本当はストライキとか起こしたほうがいいくらいなんだけれど、「ストやっちゃうと世の中回らないし」とか、「私がやらないとこの仕事は他の誰もやらないから」と考えてしまう。

 さきほど女性の自殺が増えている話もしましたが、日本の場合、結婚している女性も厳しい状況にあると思います。特に今のコロナ禍では、昼間はずっと子どもの面倒をみて、夜中から本来の仕事を始めて、睡眠時間がないみたいな話もよく聞きました。やっぱりエンパシーがあるだけに、エンパシーが働く人であればあるほど、何か自分を締め付けているような感じもしますよね。

エンパシーを育むには?

Q.ここまで日本の女性の厳しい状況についてお聞きしましたが、逆に、他者の靴を履こうとしない、あるいは履いていてもすぐ脱いでしまう人は、どうしたらエンパシー能力が育つんでしょうか。

ブレイディみかこ:サイズが合わない、あんなのは自分に似合わないって思っていた靴をつっかけてみたら、意外と知らなかった能力が、職場とかでも伸びるっていうのは、あると思うんですよね。やっぱり、人の靴を履くっていうことは視野が広がるし、いろんな人の視点を獲得すれば、それだけクレバーになるし、物事を違う方向から見て新しい解決法を見つけることも可能になる。他者の靴を履く、というと、それは他者にとっていいことだと倫理的に考えられがちですが、実はエンパシーは、使う本人のためにもなるんです。

 それなのに、そこで他者の靴を履くのを拒否することによって、あなたは自分の能力や可能性を制限しているかもしれませんよっていう意識は共有されないといけない気がします。

 海外に住んでいると、日本って、何でこんなに変わらないのって驚くぐらい、何十年も変わらないじゃないですか。その原因も、想像力が足りないからかもしれないですよね。今とは違う状況を想像する力がないと、社会って変わらないというか、変えようがないですよね。プランAしか考えられない状態は脆いというか、プランBも必要なんです。

 その想像力を手にするためにも、いろんな人の視点を獲得して考え方の幅を広げるところから始める。身近な人はもちろん、違う国に住んでいる人の視点を想像してみるとか。

 とくに日本で言うと、おじさん層で、エンパシー不足が能力のなさにつながっているのではないでしょうか。新型コロナウイルスの対応にしても、他者への想像力がないとできないじゃないですか。コロナで多くの人が仕事を失ったらどうなるだろう、仕事を失って物を買えなくなったら経済はどうなるんだろうとか、それもエンパシーですよね。男性にとっても他者の視点を獲得することは大切だと思います。

Q.それは、彼らが受けてきた教育など時代の影響も大きいと思います。エンパシーと教育の関係については、どういうふうにお考えになっていますか。

ブレイディみかこ:国を変えるとか社会を変えるとかって、一朝一夕にはいかないところがあって、教育の影響はすごく大きいと思います。例えばオードリー・タン(※台湾でIT担当閣僚を務める)は、学校教育が合わなくて、不登校になってホームスクーリングしていたんですよね。それを支えた母親が、やっぱり、今の教育のあり方はいけないと、オルタナティブスクールを立ち上げているんですけれど、それが私の本で書いているイギリスのサマーヒル・スクールに似ていて、運営が民主主義的なんですよね。学校の先生も生徒も、皆、平等に1票ずつ持って、すべてを話し合って決める。

 だから、学校のルールも生徒たちが決めるし、何か問題が起きたら、学校の中に裁判所みたいなものがあって、そこで解決を図る。皆で決めたルールを破る人がいたり、衝突があったら、黙ってスルーしないし、先生に報告して何とかしてもらうのでもなく、必ず自分たちで能動的に解決する。いろんな違う考え方を持つ人たち、1人1人違うバックグラウンドで、違う育てられ方をしている人が集まっているから、話し合うことによって、こういう考え方をする人もいるんだねとわかるようになり、うまく落としどころが見つけられるようになっていく。

 本でも紹介した“赤ん坊にエンパシーを教わる”、「ルーツ・オブ・エンパシー」という教育プログラムがあります。教室の真ん中にブランケットを敷いて、赤ん坊を遊ばせ、生徒たちがブランケットのまわりに座って、言葉を喋れない赤ちゃんの行動から感情を想像してみんなで話しあうというもので、導入した学校ではいじめや暴力が激減しています。赤ん坊が泣いているのはどうしてだろうねっていうのを生徒に聞いてみたら、「お腹すいてるからじゃない?」って言う子もいるし、「怒っているからじゃない?」って思う子もいるし。他者の視点を想像するだけじゃなく、人はそれぞれ自分と違う想像をすることもわかります。他にも、イギリスで盛んに行われている演劇教育もエンパシーを育てます。演劇は、自分ではない誰かを演じることによって、まさに他者の靴を履くじゃないですか。

 イギリスでは、演劇が中学校では正規の教科の中に入っているから、好きだろうが嫌いだろうが、みんなやってみる。そういうエンパシーを育てる教育っていうのは、すごく大事ですよね。他者理解だけでなく、自分が思っていることを口に出してしゃべり、うまく相手を説得する訓練にもなる。コミュニケーション能力も育てているんですね。

 教育は、何かを詰め込んで、記憶して競争するだけじゃない。だって、自分の思っていることをしゃべれるっていうのは、民主主義の第一歩じゃないですか。それができなければ民主主義も育たないと思うので、教育はすごく大事ですよね。日本の教育って、本当に抜本的に変えなきゃいけない部分があるんじゃないかっていうのは、すごく思いますよね。

 日本の教育は公平という概念を勘違いしているっていうか、同じであることが公平だって思っている。そうではなくて、公平っていうのは、全然違う者たちが、違うからという理由で不公平に扱われたらいけないよねっていうことです。だから、どんなに違う能力とか、違うバックグラウンドを持った人たちでも平等に扱いましょうっていうのが公平(=equality)だと思うんですけど。

 日本では、同質であることが公平だと思われているから、変な校則とかもできるわけじゃないですか。皆が髪の毛は真っ黒じゃないといけないとか、まったく何の意味もないけれど、それが公平だと思っている。equality(平等・公平であること)と、sameness(同じであること)が日本では混同されていますよね。

 違うからこそイコールにしなきゃいけないというところで、その違いを理解する上で、やっぱりエンパシーが必要になる。皆が同じだという前提が強制されているような環境では、エンパシーは育ちにくいと思います。違う者を「場を乱す者」と見なしてバッシングしたりいじめたりするようになるから。

Q.上司になって、部下にひどいパワハラしている人も、かつては部下の立場だったから、部下の靴を履くことが出来るはずなのに、なかなか職場でそうもいかない…。エンパシー力もずっとトレーニングを続けなければ、鈍るものなんでしょうか。

ブレイディみかこ:トレーニングし続けないといけないんじゃないですかね。能力ですからね。使わないとさび付いてくるし、このスキルに関しては、トレーニングに終わりはないと思います。

 デヴィット・グレーバー(※アメリカの人類学者、公正な世界を訴える2011年の「ウォール街占拠」を主導)が言っていますが、やっぱり労働者階級というか、使われる立場の人たちっていうのは、人の顔色を伺いながら仕事をしているから、エンパシー能力に長けてくるんですよね。でも上の立場の人は、政治家もそうですけど、人の顔色を伺う必要がないので、末端の人間たちの靴とか履かなくても別にいいやっていう感じで、他者の境遇を想像しなくなるんですね。

 グレーバーが言ったのは、緊縮財政を例にして、政府が集めた税金を国民のために使わなくなったときに、「国は借金だらけで大変なんだ」とか、「財政破綻の危機があるんだ」とかもっともらしい理由を言うと、労働者階級の人間はエンパシー能力に長けているから、「お上はお上で厳しい事情があるんだ。だから自分たちは、どれだけ暮らしが苦しくなっても、福祉を打ち切られたり、学校や医療の現場がぼろぼろになっても、私たちは私たちで頑張らなきゃいけないんだ」といって我慢してしまうと。でもそうなってくると、為政者側は、「みんな黙っているし自分たちを支持しているみたいだからもっとやれるだろう」と、さらにどんどん残酷な政策を進めてしまうと。いや私たちは、私たちの生活が一番大事だと、なんで私たちの税金を集めといて私たちのために使わないの、と言えないと、庶民の思いやりはどこまでも利用される。

 下から突き上げられる社会じゃないと、現状のまま衰退していくだけですよね。新陳代謝も進んでいかないじゃないですか。日本がこれほど長い間、まったく変わらないのは、もしかしたら人々がエンパシー搾取されているせいかもしれない。

Q.日本では、ある種、物を言わないことをよしとする価値観が、植え付けられている部分もあるかもしれないですね?

ブレイディみかこ:物を言えない子どもを作ってきたのかもしれないですね。昔は、それでうまく回っていたから。でももうそうじゃなくなってきているわけだから、そこは民主主義の根幹である自分の考えを言う。言える場を作る、自由に言い合える社会にしなければ、民主主義は育つ訳ないですよね。

 日本社会って立場とか空気とか、目に見えない亡霊のようなものが人間を支配して苦しめているところがあるから、お互いにお互いの靴を履きあって、自分自身も含めた生身の人間のことをまず考えながら生きていったほうが、社会全体が幸せになれる気がします。今コロナ禍によって、まさにそういう局面に来ているのではないでしょうか。