ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ石井光太
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作家。1977年生まれ。国内外の貧困、災害、事件の現場を取材。著書に『虐待された少年はなぜ、事件を起こしたのか』『漂流児童 福祉施設の最善線をゆく』など多数。
インタビュー記事
ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ聞き手 山浦彬仁ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ
NHK制作局ディレクター。1986生まれ。クロ現+「外国人労働者の子どもたち」「虐待後を生きる」「コロナ禍の高校生」「在留資格のない子どもたち」など制作。教育や福祉現場を多く取材。
少年院は、社会の矛盾を写し出す
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山浦D 石井さんは、少年非行に関する本を多く書かれていますが、なぜそうした取材を深めているのでしょうか?
石井 現場を見てみると、少年たちが抱えている問題がいわゆる社会の写し鏡のようで、少年たちを見ることが社会の問題そのものを見ることにつながるところがあると思うんです。1つの原因があって非行しました、だから少年院行きました、ということではないんです。例えば家庭の問題だとか、発達の問題、知的な問題だとか、あるいは友人関係、学校、地域、国籍だとか外見とか、いろいろな問題を複合的に抱えてしまっている。普通に生きることが難しくなっていって、少年院に行くようなことを起こしてしまうことになる。彼らが一人の人間であっても、複合的に色々な社会の問題を抱えてしまっているわけなんです。彼らの姿を通して逆に現代を見る、社会のあり方や問題を見てみたいというところから、注目することになると思います。
山浦D 子どもの中に社会の問題が現れるのは、なぜでしょうか?
石井 やはり社会の中で一番弱い立場だからでしょう。法務省が出しているデータなどを見ると、虐待を受けている少年たちの比率が非常に高かったり、あるいは親の離婚率や貧困や学歴など、いろいろな問題が見えてくる。特に弱い子どもたちが、その落とし穴にはまっていってしまう。弱い立場だからより被害を受けやすい、一番しわ寄せが来ているというのが現実だと思いますし、そこが一番、少年院の子どもたちから見えてくるところなのではないかと思いますね。
山浦D “少年院は社会の写し鏡”と石井さんは言われますが、一般的にはなかなか知ることができないところですよね。
石井 社会に、そのような少年たちの存在を見えにくくする構造があるわけです。例えば家庭で虐待を受けている子どもであれば、当然不登校になる率は高かったり、いろんな学校を転校して、しかもそれが親の仕事の理由ではなく、借金とか、ものすごく身勝手な親の都合で1年に何回も転校させられているとか。あるいはお母さんが家に帰って来ないからずっと夜起きていて、翌日学校に行けないとか。それが弱い子であればあるほど、早い段階で社会のレールから外れてしまうわけです。
保育園や小学校低学年のとき、彼らは隣りにいたはずなんですよね。でも、年齢を重ねるごとに、彼らの抱える問題はどんどん膨らんでいく。保育園のときには「周りに馴染めない子」だったのが、小学校に入ったら「いじめ被害者」「性的虐待の被害者」になっていき、それらがもとで「精神疾患」になる。そうなると、小学校高学年の頃には「不登校」「施設に預けられる」といった形でレールから外されてしまう。
社会のレールに乗ってる人からすると、その子たちは見えなくなってしまうんですね。そうすると僕たちは社会のレールに乗ってる側ですから、そういった人たちが見えなくなってしまうという構造がある。そこが大きな問題なんじゃないでしょうか。例えば不登校の子どもとか、虐待を受けてる人は膨大な数いるわけです。でも、実際に僕たちの目の前になぜ見えないのかと考えると、僕たちがその人たちと会わなくなってしまう。単純に「見えない=考えない」というふうになっていくわけなんですけれども。
さらに言えば、家庭内の問題だけでなく、社会にある格差問題も複雑にからんでいますね。経済格差、教育格差、医療格差、国籍格差などです。家庭の問題の原因が貧困問題にある、本人の発達や精神の問題が医療格差にある、いじめの問題が国籍の違いにあるとか。それがぼくらと彼らを分断させてしまっている。
取材で児童養護施設や少年院へ行けば、上記のような問題を抱えている子供はたくさんいます。でも、ぼくが通っていた私立高校や私立大学にはいませんでした。あるいは、更生保護施設や母子生活支援施設へ行けば、大人になった彼らが大勢存在します。でも、僕がNHKや文藝春秋の社員と仕事をしていると、そういう大人と出会うことはありません。
こう考えると、家庭や社会格差の問題で、ぼくらは小学生くらいの段階から彼らと別の世界を歩きはじめていて、大人になった時には彼らが存在しないような認識を持ってしまう。ぼくらは社会が見えているように思っているけど、実際はごく一部しか見えていません。分断されてしまった別の階層の子どもたちや、彼らが生きている世界を、意識的に見ようとしなければ、社会全体を見ることができなくなっている。そういう意味では、少年院の子どもたちに目を向ける必要性は、大きくあるんじゃないのかと思います。
子どもの負のエネルギー 表出の仕方が変わってきている
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山浦D 石井さんは、実際に少年院を取材されて、どんなことが見えてきますか。
石井 昔も今も、基本的に子どもが抱えている根本の問題は同じだと思うんですね。家庭の状況が悪かったり、地域の問題、社会的な問題だとかがいろいろ重なって、社会と合わない行動、非行という形で表に出てしまう。ただ、社会にどう表出するかは時代によって少しずつ違っていて、昔は反社会的な行動、例えば怒りを社会にぶつけるというのが、1つの表出の仕方だった。つっぱってみるとか、あるいは学校の先生に対する暴力だとか、社会に対する反発として暴走族的な行為に出たりとか。かつての少年院の教官たちは必死になって、“反社会”の子たちと体当たりで向き合って、何か『スクールウォーズ』のような形で信頼関係を築いて、厳しさをもってして愛を教えるような。それが社会の移り変わりと同時に、子どもたちの負のエネルギーの表出の仕方がどんどん変わっていく。自傷行為、ひきこもり、いじめという問題になっていったり、子どもたちの心の問題のほうがどんどん大きくなっていく。少年院としての取り組み方もやっぱり変わってくるわけです。
山浦D 石井さんは、ご自身の著書『虐待された少年はなぜ、事件を起こしたのか』の中で、少年の犯罪や非行の背景に「虐待」があると、指摘していますが。
石井 そうですね。虐待、あるいは家庭環境が一つにきっかけとなって、いろんな問題が雪だるま式に膨らんでいく事例がほとんどです。とはいえ、じゃあ昔の子どもたちは虐待を受けてなかったのかと言うと、そうではないと思うんです。昔だって、虐待を受けた子の多くは家庭環境が非常に悪い子たちばかりでしたので、それはたぶん同じだと思います。ただ、ここ10年、20年の中で、「虐待」というものがより注目されて、虐待を受けているということ自体が問題化されてきている。その子に起きる内面的な問題が可視化されてきているので、注目されてきている部分もあります。
さらに言うと、虐待じゃなくても、親の極端な指導という形で、その本人にとって環境が悪いということもある。よく少年院にいる子どもと話をしていて感じるのが、スパルタ教育家庭の子が一定数いることです。例えば、親が東大へ行きなさい、勉強して一流企業に行きなさいという教育をしたとします。それでちゃんといい大学へ行く子だってたくさんいるし、それが社会的に批判されるかというと批判されない。むしろ教育熱心な親として褒められるわけです。だけど、例えば3人兄弟がいて、2人が東大出だとして、そのうちの1人が学習障害で生まれつき勉強が苦手だったときに、お兄ちゃんお姉ちゃんはできて東大行きました、自分だけできません。当然お母さんは「やる気がない子」「ダメな子」と考えます。そうすると子どもというのは必死になってやるんだけれども、全部否定される。血のにじむような努力をして80点取ったのに否定されても、結局その家庭で起きていることは世間一般で言う虐待ではないんですよ。けれど、その子にとってみれば毎日「ダメな子」と人格否定されるのって、虐待以外の何物でないんです。そうやって物事の考え方が歪んでいって、いろんな傷を負って問題を膨らませてしまうケースもあります。
また、少年院の子どもたちを見ていて多いと感じるのが、親が心を病んでるケースですとか、薬物依存症で人格が壊れているケースです。物心ついた時から、そういう親と向き合って、プライベートな時間を捨てて、ずっと介護しなきゃいけない、いわゆるヤングケアラーとして。それって「親想いの良い子」として褒められるかもしれないけど、実際に向き合っている子供にしてみればひたすら親に振り回されているだけです。介護という名のもとに、過酷な状況に縛りつけられている。そういう意味で言うと、社会がこれは「虐待」だと認めて救っている虐待と、子どもにとって虐待と感じるかどうかは、かなり違う部分がある。少年院の子どもたちを見つめてみると、そのあたりもかなり浮き彫りになります。
あるいは、親から虐待を受けると、発達障害に似た特性が出ると言われています。また、家庭環境が悪いと、発達障害や精神疾患が気づかれずに放置されがちです。これによって、その子たちはものすごく不利な立場に置かれるので、いろんな被害を受けやすい状況にあるわけです。家庭では性的虐待や搾取の対象となり、学校ではいじめや厳しい指導の対象となる。その結果、家出や不登校となって街をフラフラしているときに、悪い人たちに目を付けられ、利用される。例えば売春をさせたり、詐欺の受け子をさせたり。その子たちは他に逃げ場所がなく、そうやって生きていくしかないので、そこに吸い込まれていってしまう。絞り取られるだけ絞り取られて、最終的には使い捨てにされる。それで、一番弱い人たちが少年院に行く。
こうした現状を踏まえれば、今の少年院に入っている子供たちって、昔ながらのヤンチャな「不良」というより、むしろ不良や悪人に利用される「弱者」なんです。少年非行の問題に関わる人の中には、じゃあ、そこを何とか見抜いて、その子を理解しなきゃいけないよね、という空気もできてきている。そういう意味で言うと、治療的な形の介入の重要度が増してきたというのが、たぶん今置かれている状況ですね。少年に対する院内でのアプローチや、院を出た後に社会に適合できるようにするための方法は、以前とはかなり違う形に変わってきている。だけども、社会全体がそうした構造や取り組みが見えているかと言えば、そうじゃない。まだまだ、非行少年をヤンキーみたいな若者だと思い込んでいる。だから、罰を与えればいいという意見が根強い。罰するなということではないのですが、彼らが抱えている問題の根本や、時代の移り変わりを見なければ、本当に安心、安全な社会を構築していく方向にはならないですよね。
少年院は、絶望の中にある少年を落ち着かせる場
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山浦D 今回、少年院の中で少年たちと話をして、本当に絶望的になって犯行した、という話をすごくするわけです。
石井 思春期ぐらいになって、自分でもどんな問題を抱えてるのかわからないぐらいたくさんの問題を抱えてしまっていて、しかもいろんな人間に利用され、振り回されたりするわけなんですよ。親からはうっぷんのはけ口として殴られ、学校行けばいじめられ、学校行かなければ、先輩から覚せい剤やらされて売春させられる。で、そのお金を全部取られ、結局、何が何だかわかんなくなってるんですね。それが彼らの言う「絶望的」なんでしょう。そういった子たちをある程度、緊急的に一時保護して、抱えてる問題を一つひとつ解きほぐして、その上でじゃあどうやって生きていけばいいのかということを、示してあげないといけないんじゃないのかなと思います。
山浦D 少年院の中の矯正教育は、石井さんにはどのように見えていますか?
石井 少年院の一番の意義は、そのような子たちの環境や心を、とりあえず穏やかにさせましょう、自分の気持ちや自分の置かれてる立場、状況を把握させるぐらいまではせめて落ち着かせましょう、というところだと思います。救命措置のように、パニックになっている子たちに、とりあえず3食与えて、決まった時間に寝させて、世の中には自然というものがあるんだ、本や映画というものがあるんだ、体育という体を動かすこともあるんだ、さあ、やってみようというふうに。今までそのようなことをしてこなかった子たちに対して、ようやく普通の生き方、普通の生活とは何かを教えるための半年間だったり1年間だったりするんですね。例えばアンガーマネジメントであったり、命の尊さを知るために赤ちゃんと同じ重さの人形を抱きしめたり。あるいは妊婦のお腹と同じ重さの砂袋をお腹につけて、お母さんがどういう思いで妊娠してあなたを生んだのかということを知ってもらうとか。初歩的なところから始まって、認知行動療法のような形で、なぜ窃盗や性犯罪を行ってしまったのか。それに対して、次またそういう状況に陥ったら、どういう対処をすることで回避するべきなのか、ということもやってますよね。
それを繰り返すことによってようやく心が落ち着いて、じゃあ自分はどういう問題を抱えていたのか、どっちの方向に行けばいいのか、ようやく考えられるようになるんです。そういうことをする場所だということでは、非常に意味のある場だと思います。
でも、半年ないしは1年でたくさんのことを全部できるかというと、なかなかそうはいかないので、そこも同時に少年院が抱えている難しさかなと思います。少年院を出た後も、いろんな支援者に支えられリハビリを長く行っていく期間が必要になるんですが、それが社会には抜け落ちているんです。だから少年院でやってることだけでは更生が難しいわけですよ。そういうところも考えて、少年院の意味を一般の人が理解できるようにしないと、少年院のあり方の議論はそもそもずれてしまうと思ってます。
後編へ続く
石井光太さんへのインタビュー記事