“アントニオ猪木とは何者だったのか!?” 藤波・ハンセン・新間・古舘が激白

NHK
2022年10月5日 午後3:22 公開

プロレスの黄金時代を築き上げ、人々を熱狂させた“燃える闘魂”アントニオ猪木。

アントニオ猪木とはいったい何者だったのか?

“一番弟子” 藤波辰爾

“ライバル” スタン・ハンセン

“過激な仕掛け人” 新間寿

“名勝負実況” 古舘伊知郎

アントニオ猪木の人生を彩った男たちが、激白した。

(クローズアップ現代 取材班)


“一番弟子” 藤波辰爾さん 「僕は猪木になりたかった」

藤波辰爾(ふじなみ・たつみ)さん(68) 幼いころから猪木さんに憧れ、1970年に日本プロレスに入門し、付け人を務めた。1972年に猪木さんが旗揚げした新日本プロレスに参加。50年以上、師弟関係を続けてきた。

-藤波さんにとって猪木さんはどんな存在なのでしょうか。

藤波さん:

「僕にとってはプロレスラーとしてだけじゃなくてね、人生の道しるべみたいな方ですね。だからちょっと人生であったりとか、特にプロレスの枠の中で自分が迷ったりしたときに、猪木さんに聞くっていうことよりも、猪木さんがそこにいるっていうだけで自分の立ち位置や行く方向が分かったりするっていう、本当に道しるべのような方ですよね」

-なぜ猪木さんにそこまでひきつけられたのですか。

藤波さん:

「これはもう、あの人独特の雰囲気っていうか、アントニオ猪木がにじみ出ているっていう、まさにアントニオ猪木にほれるっていうのか。ただ単に憧れてファン的にじゃなくて、本当に人間としてね、あの裏表のない、妥協しないっていうそういうものに近づきたいんでしょうね。僕の場合は『猪木になりたい』っていうところから、もう横についてましたんでね。その気持ちはいまだに変わらないですね。68になってもまだその少年と同じ気持ちですね」

(1988年8月8日 IWGPヘビー級選手権 藤波辰巳×アントニオ猪木)

藤波さんが“生涯のベストバウト”と語るのが、1988年8月8日、猪木さんとのタイトルマッチ。王者・藤波、挑戦者・猪木ともに一歩も引かず、60分フルタイムドローとなりました。

藤波さん:

「そのとき僕がチャンピオンでね。猪木さんはまさか弟子の僕を、入門した当時のあの若造の僕を知っているなかで、プライドを投げ捨てて僕に挑戦してくるとは絶対に思わなかったの。猪木さんが挑戦してきたって、そこでもう自分自身が、猪木さんの気合いに負けていましたけどね。結果的に猪木さんに勝てなかった。でも反対に勝てなかった悔しさよりも、猪木さんを60分独り占めできたっていうね、そのうれしさと無我夢中で戦ってね、本当にあのまま時間が止まってほしいっていう、そういう気分になりましたね。もう勝敗なんか二の次でね。ファンも会場が本当に一体化っていうのか、ものすごい熱気でね。8月8日のいちばん暑いときでね。横浜文化体育館がまだクーラーがなくてね。でも、自分の中で本当に宝ですね」

藤波さんが猪木さんと最後に会ったのは8月。その際にサインをもらったことを明かしました。

藤波さん:

「無性にいただきたかったんです。変なことは僕も想像したくなかったんだけど、ここでもらわないとっていうのを、自分で感じたんですよね。痛々しい姿で書いているんですよ、筆が震えるような感じでね。あのときの猪木さんも、やっぱり最後まで病魔と闘っていたっていう、闘っている自分に対しての気持ちの強さをやっぱり出しているっていうか、俺の気持ちを受け取れっていう感じ。これが僕の中の、最後の闘魂アントニオ猪木のサインです」

“ライバル” スタン・ハンセンさん 「猪木が私の100%を引き出してくれた」

スタン・ハンセンさん(73) 1970年代にアメリカから来日し、ウエスタンラリアートを必殺技に猪木さんと名勝負を繰り広げた。

-アントニオ猪木のすごさはなんだと感じていますか。

ハンセンさん:

「彼はプロレス界で最高峰のレスラーの一人でした。彼はいつも新しい技に挑戦していました。どの試合でも何かしら新しいことがあり、私はそれに耐えねばなりませんでした。そうやって私を不安定な態勢にさせました。最も印象的だったのはこの点です。彼は強く、非常に素早く、猫のように動くことができるのです。ディフェンスが非常にうまいのです。一方で攻撃面では、こちらが予想しないような、何か新しいものをいつも投げかけてきました。そこから30年がたった今、ファンはたくさんの技を見ているわけですが、それらを革新し、開発したのは彼なのです」

(1979年 アントニオ猪木にウエスタンラリアートを見舞うスタン・ハンセン)

-猪木さんがハンセンさんに与えたものはなんでしょうか。

ハンセンさん:

「もし日本に行かなかったら、私の人生はまったく違ったものになっていました。彼とプロレスができたこと、猪木は本当に私にトップの男になる最初のチャンスを与えてくれました。スター性と言っていいのか。彼は、試合でいい結果を出そうとする、やるべきことをやろうとする、私の100%のひたむきさを引き出してくれたと思います。そこで生まれた“スタン・ハンセン”に、自分のキャラクターを確立しようと決めました。このことを私は常に感謝しています」

“過激な仕掛け人” 新間寿さん 「“俺が震えるような試合”を」

新間寿(しんま・ひさし)さん(87) 新日本プロレスの元営業本部長。現役のボクシング世界王者・モハメド・アリとの異種格闘技戦を実現させるなど、猪木さんと二人三脚でさまざまな企画をプロデュースした“過激な仕掛け人”。

-猪木さんは何を目指していたのでしょうか。

新間さん:

「猪木さんがいちばん最初に思っていたことは、『誰もできない、誰もやらないことを、男の夢として実現していく、これが男のロマンである』、これだった。『新間、プロレスこそ最強の格闘技であるというのを自分は見せたいんだ』って。私が言ったことは『日本は富士山がいちばん高い山で、そこにはジャイアント馬場さんがいる。しかし、私はアントニオ猪木が好きで、アントニオ猪木と一緒にやるんだったら、私があなたを世界のエベレストにしますよ。それにはあなたも努力してください、私も努力します』と。そしたら『新間、いいマッチメイクを考えろ。俺が震えるような試合をさせてくれ』って」

(左:新間さん 中央:モハメド・アリ 右:アントニオ猪木)

-猪木さんに対して、いま改めてどんな思いですか。

新間さん:

「アントニオ猪木っていうのは、僕にとっては永遠にナンバーワンのスターであり、最強の人だっていう思いがありますよ。政治家になろうが、北朝鮮へ行こうが、何をやろうが、あの人というのは自分の目的に向かってまっしぐらに進む、純粋無垢(むく)の精神を持った人でしたよ。いちばんいい時代に私はあなたと一緒に仕事ができました。本当にうれしかった。本当に思い出というのは尽きない。夜寝る前に必ずアントニオ猪木のこと考えました。毎日ですよ。考えないときはありません」

“名勝負実況” 古舘伊知郎さん 「闘魂は輪廻転生する」

古舘伊知郎(ふるたち・いちろう)さん(67) 猪木さんの現役時代、多くの試合でテレビ実況を担当。闘病中の猪木さんの自宅に通うなど、プライベートでも親交が深かった。

-猪木さんとファンとの関係をどうみていますか。

古舘さん:

「ファンというのはこの上なくありがたくて、この上なく残酷なんですよ。もっともっと、もっと頑張ってと、そうやって要求するんですよ。で、猪木さんはそのたびに応えるんですね。大変難しい病気(心アミロイドーシス)をされたんだけど、そもそも病気を抱えていたし、腰の手術も2回するし、首の手術もするし、すさまじい試合をファンに応えるべく徹底的にやり続けた方は、必ずいろんなところにダメージが出てきますよね、引退してから。猪木さんもそういう後遺症がいっぱい出てきていたんですよ」

それだけファンの期待に応え続けてきたということでしょうか。

古舘さん:

「そうですね。僕も東京ドームの引退試合(1998年4月4日 ドン・フライ戦)はしゃべらせて(実況させて)もらいましたけど、久々に。だけどリングを降りて、『われわれプロレスファンが猪木の不在をここから覚悟しなければいけない』みたいなことを実況で言っているんですよ。『猪木なきプロセスをわれわれは見ていくんだ』みたいなかっこいいこと言っているんですけど、僕はそのあとで後悔したんですよ。猪木さんはリングを降りてもアントニオ猪木というリングネームはずっと卒業させてもらえないで、何回も闘っていたということを、亡くなった日にきょう(10月1日)思います。何かと闘っていた。事業であり、政治であり、(湾岸戦争の危機に直面していた)イラクでの日本人の人質救出の動き。いろんな軋轢(あつれき)のなか、行動するんだって言って。だけど、きょう(弔問して)猪木さんに語りかけさせていただいたのは、『猪木さん、いったんしばし休んでください』って。『安らかにお休みください』じゃなくて『いったんしばし休んでください』って勝手ながら言ったのは、闘魂ってのはもしかしたら輪廻転生するかなって思うんですね。誰にとか分かりませんけども、猪木さんの肉体はついえたけれども、闘魂は輪廻するとすればね、『いったん、苦しかったんだな、しばし休んでください』って」

(1983年 放送席 左:古舘さん 中央:アントニオ猪木)

-猪木さんが私たちに与えたものとはなんでしょうか。

古舘さん:

「端的に言うと、猪木さんは負け戦から始まっている人の強みがある人。才能はしこたまあるのに、なかなか活躍の場が初めは得られなかった。なんといっても“東洋の巨人”ジャイアント馬場さんがいらしたので、同期に。猪木さんと馬場さんは同時デビューで、シングルマッチでは猪木さんの16戦全敗です。そういう負け戦から始まっている人が、どうやったらはい上がって上にいくのかと。猪木さんがたまに言っていたのは、『普通は港で船整備して、そして順風満帆の航路もあるんだろうけど、まぁ変則で非常識だけど、なんの修復も整備もしないで沖合に出て、航海しながら船を大慌てで直していくやり方もあるよね』と。そうやってとにかく、自分が満を持す前にまずやってしまう。それで負けを勝ちに反転させていくという、僕はそういう猪木さんの敗者復活的なはい上がり方も含めて、ものすごく多くの人たちの心を打ったと思っています。みんな負けますから、人生で。勝ちっ放しの人なんかいない。ほとんどの人が失敗だらけだと思うんですね。で、猪木さんはその失敗を見せるんですね。見せた上で巻き返したんですね。僕はそのプロセスの猪木さんの作法が、天才的に時代とマッチしたのかなという気がしたんです」

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