沢木耕太郎さんTV未公開インタビュー 25年かけ『天路の旅人』を書いた理由

NHK
2023年1月10日 午前0:00 公開

『テロルの決算』『一瞬の夏』『深夜特急』……独自の視点と新しい文体による数々の名作ノンフィクションを送り出してきた作家の沢木耕太郎さん。

この冬、25年の歳月をかけて書き上げたという、9年ぶりのノンフィクションを出版しました。主人公は、沢木さんがそのたたずまいを“理想型”とも表した人物。それはなぜなのか。

2時間近くに及ぶインタビューは、先の見えない時代を生きる私たちに力をくれることばであふれていました。

(聞き手:桑子真帆キャスター)

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――新作の『天路の旅人』を読み終わったとき、1つの壮大な旅を達成したように感じました。それと同時に、自分も旅に出たいって思わせていただきました。

沢木さん:

この2~3年、僕も外国に旅行することができなくて、このあいだパスポートを開いたら、最後に行ったのは3年くらい前だったんですね。国内もあまり自由に旅できなかったですけれども、『天路の旅人』という作品を書くために、 西川一三(かずみ)さんのすごく遠大で壮大な旅を追体験していた訳ですよね。

彼が書いた作品を読み、彼に1年間ぐらいインタビューをしたテープを聞き、それからgoogle earthっていう現代の兵器を使って何が見えるかって確かめたり……。そういうことをいっぱいやっているうちに、2~3年のコロナの期間は過ぎてしまったもので、退屈しなかったんですよ。

――そうですか、旅に出なくても。

沢木さん:

うん。最初に西川一三さんにお会いしたのは、今から26~7年前なんですけれども、実際に書き始めたのは7年前ぐらいから。最後の追い込みになったこの2~3年は、彼の旅を追うことで、書くことで、僕も何か旅をしていた感じ。

25年を費やした『天路の旅人』 “世の中に知らしめたい”と思った ある男の人生

沢木さんの最新作『天路の旅人』(新潮社)の書影

沢木さんの最新作『天路の旅人』(新潮社) 。主人公の名は、西川一三(かずみ)。第二次世界大戦末期、25歳のとき、日本陸軍の密偵として中国の内蒙古から大陸奥深くへと潜入。終戦後も、インド・ネパール・ブータンなど、8年に渡って旅を続けた人物です。

沢木さんは、西川一三が旅の記録を残した3200枚に及ぶ原稿を読み込み、旅の全貌を明らかにしていきました。書き上げるまでに25年の時間を費やした作品です。

――四半世紀かけて書き上げたわけですよね、今の気持ちは?

笑顔の沢木耕太郎

沢木さん:

“解き放たれた”って感じかな。

西川さんが書かれたものは、戦後すぐ物資もないときで、古い原稿用紙を集めて書いて2つ折りにしたものですから、重ねると高さが1m弱くらいになるんですよ。これが見つかって手に入れて、既に出版されている西川さんの本との違いを検証するという作業をやったんですけど、その3200枚の原稿が僕の家に送られてきたときに、何かひとりの人の人生を預かったような気がする。

(沢木さんが預かった、西川一三の3200枚の原稿)

(沢木さんが預かった、西川一三の3200枚の原稿)

沢木さん:

その原稿はすごく苦労して彼が書いたもので、しかもなかなか日の目を見なかった。西川一三さんの人生がこもったものを僕が預かって、そして「世の中に知らしめたい」と僕は思ったわけですね。

途中で若干書くのが難しいかなと思うときが何回かあったんですけど、それを我慢して耐えてここまで来たのは、多分ひとりの人の人生を預かった、それを世の中に解き放たなきゃいけない。書き終わってそして出版して、そしたら本当に肩の荷はなかったけどすごく心が解き放たれて、「あ、自由になった」と思いましたね。

――今回取材に応じていただいたことっていうのは、やはりそれなりの思いがあったということですか。

沢木さん:

やっぱり書き上げると陽気になるので、ついね、浮かれてここに出てきちゃった(笑)。

この『天路の旅人』はよく根気が続いたなって思うのね。これが仮にノンフィクションの作品としての自分の最後になることがあったとしても、それは何か納得すると思う。

破天荒な旅人から淡々と生きる商店主へ 沢木さんが感じた西川の“かっこよさ”

(盛岡で化粧品店を営んでいた頃の西川一三)

(盛岡で化粧品店を営んでいたころの西川一三)

中国からインドまで、たった一人で果てしない旅を続けた西川一三。帰国後は壮絶な旅から一転、縁もゆかりもない盛岡で小さな化粧品店を営み、元日以外の364日を働き、夜は2合の酒をたしなむという変わらない毎日を送るようになります。

沢木さんは、旅そのものより、西川の「その後の生活も含めた人生」に興味を持ったといいます。

沢木さん:

ものすごい破天荒な旅と、日本に帰ってからの、普通の人としてただ淡々と生きているっていう、この2つのギャップ。当人から見れば全然ギャップと思っていないでしょうけれど、僕たちから見ればすごい違いですよね。

そういう旅をした彼が、日本に帰って来てからはいち商店主として、じっと普通に、ささやかな生活を維持していることを全然不満に思わず生きていたらしい。その人はどういう人なんだろうと初めてお会いしたら、僕に言わせれば、“かっこいい人”に思えたの。

――かっこいい?

沢木さん:

身長は僕と同じぐらいで、180cmぐらいあって、そしてわりときちんとしていて、ジャンパーを着て。一緒に酒を飲みながら色々話をしていると、彼の旅については一度、あるテレビ局が彼の歩いたルートをドキュメンタリーで放送してみたいっていって、番組ができたことがあるんですね。その際プロデューサーから「一緒に行ってくれませんか」って頼まれたんだそうです。そのとき彼は、「一度自分が行ったところに行ったってしょうがない、知らないところなら別だけど」と言って断ったんだそうです。

お会いしたときはもう80歳くらい。その人がまだ未知のところに思いを持っている。普通年をとってくると懐旧的になって、昔に行ったところを訪ねたいとか思うじゃないですか。面白いなって思ったんです。この人のことを書いてみたいって。

惹かれた“一人で生きる”西川の姿

(密偵として中国奥深くに潜入した西川一三)

(密偵として中国奥深くに潜入した西川一三)

西川の人生の原点とも言える“壮絶な旅”。沢木さんは、困難な旅の中で1つずつ生きる手立てを身につけていく西川の姿に惹かれたといいます。

沢木さん:

西川一三さんという方はやっぱりすばらしい人だと思うのね。何がすばらしいかっていうと、彼は密偵から旅人になったんだけれども、お金がない、頼る人もいない。国のバックアップもない。僕たちはまだパスポート持っているから日本国が助けてくれるけど、彼はそれもなかった。逆にだけど、すごく純粋な旅人になったわけですよね。

――しがらみのない。

沢木さん:

全くない。ないっていうことはすごく困難なことだけど、逆にすてきなことでもあって、旅の純粋さ、旅の純度をすごく高めることになる。彼は旅をしながら、働いたり、言葉を覚えたり、自分で旅人としての力をつけていって、その力によって切り開いていくわけですよね。

彼は道連れを得ることもあるけれど、基本的には一人なわけです。純度の高い旅の中で、ことばを手に入れ、食べ物を手に入れ、知人を手に入れ、そしてずっとヒマラヤ山脈を越えて、インドに入りネパールに行きっていうようなことするわけですね。僕も比較的長い旅をしたことがありますけれども、その純度に及びもつかない。こんなに純度の高い旅をした日本人はいないんじゃないかと思うんですね。

(西川の足跡。内蒙古から始まり、インド・ネパール・ブータンなどを旅する)

(西川の足跡。内蒙古から始まり、インド・ネパール・ブータンなどを旅する)

――どうしてその姿に惹かれたのでしょうか。

沢木さん:

何て言うんでしょう……西川さんは結局一人旅をします。一人の人、ソロの人というのは、自分で基本的に何でもできなきゃいけないわけです。西川さんも、最初できなかったんだけど調理ができるようになり、裁縫も自分でしなきゃいけないからできるようになり、お一人で生きていく手立てを身につける。僕もやっぱり、西川さんとは違うけど、ソロで生きていくことができる人間でありたいと思うんです。

――どうして?

沢木さん:

何でも自分でできたほうがいいじゃないですか。例えば炊事でも洗濯でも掃除でも、自分一人でできた方が自由になれるじゃないですか。要するに人に縛られることがない。もし自分でできれば、それだけ自由になるとも思うんですよね。自分一人で、できるだけ一人でできるようになっていたい。

自由を獲得するために “僕も し烈な闘いをしてきた”

対談する桑子真帆キャスターと沢木耕太郎さん

――本を読んでいると、後半から「自由」という単語がとてもよく出てくるようになって、そこは恐らく沢木さんが共感しているところだと感じたのですが。

沢木さん:

僕の場合、最初に大学を出て、一応就職先が決まっていて、申し訳なかったんだけどすぐ辞めさせてもらって。そのときにやっぱり僕が望んでいるのは、何かに制約されない生き方なんだなと、何となくそう思ったことがあって。その制約をできるだけ排除していく、遠ざけていって、そして自分が選択できる幅を広くする。そういう生き方が心地よいって思ったんじゃないか。

――そこに至るまでは、やはり相当な時間と労力をかけていらっしゃるのでは。

沢木さん:

自由度というものを「制約からの自由」と考えると、その制約を受けているものを外していくために結構し烈な闘いはしたと思う。

例えば出版社から取材費を前借りする。もし取材費を自分で出さずに取材すれば、それは仮に取材に行って書くに値しないことでも書かなきゃならないですよね。だけど徐々に自分で取材費は賄えるようになる。そうすると、もし取材に行って書くに値しないと思ったら、書かなくて済みますよね。お金の面で出版社や何かに制約を受けないとか、それが締め切り日を持たないっていうことにつながっていく。

その状況、立場を獲得するためにやっぱり努力が必要だと思うし、努力をしたと思うし、そういう「自由」を獲得するための20代30代40代はじめまで、やっぱりものすごく努力したと思う。少しずつ闘って、自分の自由度を増していったと思う。

インタビューに答える沢木耕太郎さん

――いまは自由になれていますか?

沢木さん:

制度的なことでいえば自由ですよね。何を書こうか、あるいは書かないかっていうことに関しても自由。でも残念ながらこのコロナで行きたいときにどこも行けなくなったというのは自由ではありませんね。自分でコントロールしきれないものに対しては残念ながら無力だけれども、そうじゃないところで自由が勝ち取れるならば、大げさに闘う必要はないけれど、ひそかに闘って、そして1mmでも1cmでも自由の広さを広げるっていう、それはやってもいいような気がするな。

――その自分の状況の中でいかに自由であるかということを、人は考えると思います。でもなかなか時間が足りないという中で、自由であるためにはどうしたらいいんでしょうか。

沢木さん:

それってすごく難しくて、それを答えられたら何かこう教祖になれるかもしれない(笑)。

僕は毎朝、家から仕事場に30~40分かけて歩いていく。その時間で、1日の大事なことは全部考えられるような気がするわけね。30~40分ってみんな誰にでもあるよね。僕の場合だったら色々な考え事をする。もちろん何か聞いたり読んだり何でもいいんでしょうけど、でもその時間をすごく大事に扱って使えるのならば、その30~40分から開ける自由さっていっぱいあるような気がちょっとするね。

ある時間に割と深く考えてみると、そこから解き放たれるものがいっぱいあると思う。そのことがそれ以外の時間の自由を、自由度を保証してくれるような気もちょっとしますね。

沢木耕太郎 75歳のいま思う“理想型”

沢木耕太郎の作品集

作家デビューから52年。ノンフィクション作品を通して、様々な人物の内面に迫り続けてきた沢木さん。その先に何を見ているのか。語ったのは、ある“理想のたたずまい”でした。

――沢木さんの中で、なりたい自分はあるんですか?

沢木さん:

考えたことがないけれども……。例えばノンフィクションの書き手として名作を書きたいとか、あるいは作家としてすばらしい作品とかっていうのはないですよ、全然。いつでも今、目の前にある仕事が1つあるだけで、この仕事を、偉そうに言えば職人としていい仕事をする。そのために全力を尽くす。それ以外にその作品はどういうものであったらいいかっていう望みを持ったことがないんで。

――自分で自分に納得できているんですか。

桑子真帆キャスター

沢木さん:

そもそもそんなに欲しいものはないと思うのね。賞もそうだし、お金もそうだし。ただ興味を持って今やっているこの仕事は、僕にとっては大事だと思う。そのために全力を尽くすだろうし、人から見ればかなり根詰めてやってるよねっていうぐらいのことはやるだろうけど。それを超えたものを望んでない。「自由である」っていうことを最後まで貫けるかどうか。

だけどそれは肉体的な制限や何かで、やがて自由度は制約されていくよね。それはそれで受け入れていくにしても、それ以前まではできるだけフットワークを軽く、どこか行きたいと思ったら行き、何か読みたいと思ったら読み、何かちょっと酒飲みたいと思ったら飲めるぐらいの自由で十分なんで、その自由を確保していきたい。

沢木耕太郎さんと桑子真帆キャスターの対談の様子(遠景)

――作品を書き、自分を見定めていった先に、沢木さんが見据えているものって?

沢木さん:

強引に聞こえるかもしれないけど、西川さん的な感じ。何があっても淡々と仕事をし、そして仕事の帰りに2合の酒を飲みっていう。それってどこかで“境地”って感じだよね。

1年365日のうち364日働いて、仕事をきちっと9時から5時までするとお店を畳んで、帰りに居酒屋で、1人で2合のお酒を飲む。それだけで彼は十分満足だったわけです。それは僕の父親なんかと同じで、西川さんも僕の父親なんかと同じ世代なんですけれども、たたずまいが似てて。あまり多くを欲しがらないで、自分で今手に入れられている、ある仕事と、ある生活を、そこをただ淡々と生きていくっていう。その姿というのは、僕にはやっぱり1つの理想型であるわけです。

(若き日の沢木さんと、父親の二郎さん)

(若き日の沢木さんと、父親の二郎さん)

――お父様にも、西川さんと同じようなものを感じていらっしゃったのでしょうか。

沢木さん:

西川さんは2合の酒だったんだけど、うちの親父は割と本が好きな人だったから、1合の酒と1冊の本っていう感じで、それだけあれば十分だったと。彼が十分な人生だと思っていたかどうかは知らないけれど、僕から見ればとても静かに充足された人生だったと思うのね。

全く無名の市井の人だったけれども、僕にはものすごく教養のある人で、僕は全然及びもつかない教養を持っていた人だと思うけど、でも本当にいち溶接工で生涯を終えて、それに不満を述べたりっていうのを聞いたことがないから、きっと自分の中で納得して、そして1合の酒と1冊の本で、生きて死んだ。単純なことの繰り返しで、その中で自分が充足している。その繰り返しというのは何か僕は尊いもののように思えるんですね。

――今はまだ、沢木さんはその境地には至っていないと?

沢木さん:

まだ何かあっち行ったりこっち行ったり。あの人に会ったりとか、この人に会ったりとか、 まだまだ色々な影響を受け続けていると思うんだけど、もうちょっとしたら……。

朝起きて、何かちょっと仕事して、歩いて仕事場にいって、そして帰ってっていう単純な繰り返しが、もうそれで十分って言うふうになったら幸せじゃないですか?できれば自分もそういうふうに、多くのものを望まずに、ある状況の中で自分ができることと静かにやっていくっていう。

ただ、ちょっと僕の父親なんかと違うとすれば、旅をする金は少し欲しいいかなとかね(笑)。外国に行くときにちょっとお金が必要かなと思いますけどね。

2023年を生きる人へのメッセージは……

語る沢木耕太郎さん

――沢木さんが2023年、こういう年になったらいいなと思うことありますか?

沢木さん:

やっぱり僕なんかよりも、このコロナに対してすごく制約を受けた若い人たちが自由になってほしいと思う。『深夜特急』って本を書いたときに、あとがきに「恐れずに、しかし気をつけて」というメッセージを読者に向かって最後に一行書いたんですね。

今僕は逆にね、「気をつけて、だけど恐れずに」っていうのを。

気をつける、でも恐れない。そしてできるだけ自分たちの自由を、気をつけながら拡大していってもらいたいと若い人たちに思います。僕らの自由なんか、ある意味でいえば後回しでいいから、失われた何年間を経た若い人たち。その彼らが気をつけて、でも恐れないで、自由を広げていってくれるという、そういう1年になればいいなと思います。

沢木耕太郎さんと桑子真帆キャスターの2ショット写真

 

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