“眠らない街”  新宿・ 歌舞伎町いまむかし

NHK
2022年2月22日 午後6:00 公開

新宿・歌舞伎町の路上に集まって過ごしている「トー横キッズ」と呼ばれる子どもたち。

去年、薬物摂取や自殺、傷害致死事件などが相次ぎ、警察も対策を強化していますが、今年に入っても事件やトラブルが依然として続いています。どうすれば、子どもたちの状況が改善するのか。取材班は4か月近くにわたって密着取材を行いました。

取材現場となった「歌舞伎町」。600メートル四方の範囲に、居酒屋や、ホストクラブ、カラオケ、ホテルなどが所狭しと並ぶ日本を代表する繁華街です。その成り立ちと歴史を解説します。

(クローズアップ現代+取材班)

関連番組:クローズアップ現代+「トー横キッズ ~居場所なき子どもたちの声~」

NHK+で配信(~3/1まで)



  

焼け野原からの始まり

新宿歴史博物館の元館長で、新宿の歴史を本にまとめた橋口敏男さんに話を聞きました。

(新宿歴史博物館 元館長 橋口敏男さん)

 

新宿は甲州街道の宿場町として江戸時代に生まれましたが、歌舞伎町は第二次世界大戦のあとにできた比較的新しい街です。戦前は「角筈(つのはず)」という地名で、森と川があり、住宅と女学校が建っていました。

 

(1945年 空襲の焼け跡にできた闇市)

 

しかし、1945年の空襲ですべて焼き尽くされます。終戦してまもなく、復興に向けて立ち上がったのが角筈一丁目北町会長の鈴木喜兵衛でした。レストランや食料品メーカーの経営者だった鈴木は、敗戦国の日本が各国から憎まれる心配もなく生き延びる道は、観光国家になることだと考えました。

 

地元の力でエンタメの町へ

戦災からの復興がなかなか進まない地域が多いなか、鈴木の手によってこの地域の復興は早く進んでいきました。鈴木は「いま心ある者は自分のことなど考えているときじゃない」と地主たちを説得して借地権を一度手放してもらい、区画整理して繁華街へ作りかえる計画を立てました。

(鈴木喜兵衛)

 

このとき、歌舞伎劇場の建設も計画されたため1948年に「歌舞伎町」という町名の街が誕生しました。しかし、戦後まもない社会の経済状況から、不要不急な劇場の建設は中止に追い込まれます。

それでも復興計画を諦めなかった鈴木ら民間の力で、1950年代にはスケートリンクや映画館、ジャズ喫茶などが次々と建てられ、若者が集まるエンターテインメントの街が生まれました。1958年の大みそかには第9回NHK紅白歌合戦が歌舞伎町の劇場で開かれています。

 

新宿歴史博物館 元館長 橋口敏男さん:

「鈴木喜兵衛は“道義的繁華街”を目指していました。彼は、欧米からの輸入食品を扱うなかで、100グラムと書いてある缶詰に100グラム以上入っていることに感銘を受けたといいます。自分がもうけることだけでなく、客が喜ぶことを考えることが、最終的にみんなの利益になると考えました」

(1958年の歌舞伎町)

 

魅惑のT字路

鈴木は、歌舞伎町の道にも人を引き込む仕掛けを施しました。それはいまも感じることができます。T字路がいくつも組み合わさってできているのです。

(鈴木喜兵衛がつくった区画整理図)

 

道の入口に立てば正面に店が見えます。しかし、その左右に広がっている空間は突き当たりまで行ってみなければ見ることができません。そのため、人は自然と街の奥へ奥へと引き込まれていきます。

(現在の歌舞伎町 道の入口から見ると突き当たりは建物になる)

 

眠らない街

1960年代の歌舞伎町は若者たちの熱気がみなぎる街でした。早朝まで営業を続ける喫茶店、スナック、バーなどの飲食店が増え、「眠らない街」「不夜城」と呼ばれるようになります。東京六大学野球の早慶戦が行われた夜は学生たちが広場に集まり朝まで大騒ぎしていました。

 

売春防止法で売春が盛んに?

歌舞伎町が日本有数の繁華街へと成長し始めると売春行為が問題になります。『歌舞伎町の60年史』によると、そのきっかけは、驚くことに1958年に全面施行 された「売春防止法」だと記されています。

それまでは歌舞伎町から数百メートル離れた新宿二丁目が、遊郭などの風俗営業が特別に許されている、いわゆる「赤線地帯」でした。売春防止法によって赤線地帯を追われた業者や女性たちが流れ込んできたのが歌舞伎町だったといいます。

 

新宿歴史博物館 元館長 橋口敏男さん:

「営業が認められているうちはコントロールがきくのですが、法律で禁止されてしまうと闇営業する人たちが増え、かえって無法状態になって売春行為が繰り広げられるようになりました」

 

次々に現れる性風俗業と、それを取り締まろうとする警察や地域住民の攻防が始まっていきます。

 

バブル景気をきっかけに“危険な街”のイメージへ

だんだんと若者の遊び場が渋谷や原宿へ移り、歌舞伎町はサラリーマンの街へと変化していきました。『歌舞伎町の60年史』によると、バブル景気のきざしが見え始めた1980年代、歌舞伎町を訪れる人の数は1日推定50万人。通りでは肩と肩がぶつかり合い、背伸びをしても人の頭しか見えず、道を横切ることさえ難しかったといいます。

(1985年の歌舞伎町)

 

1985年には東京都庁の新宿移転が決定し、歌舞伎町は土地価格が上昇していきました。古くから親しまれてきた店舗が消えて貸しビルに変わり、性風俗店が急増。客引きや、法の網をくぐり抜けようとするシステムの乱立が問題になりました。さらに、暴力団組織の大規模化も問題となり始め、歌舞伎町は“危険な街”のイメージを持たれるようになりました。

(1985年の歌舞伎町)

 

イメージ回復へ クリーン作戦

歌舞伎町を安心・安全な繁華街にしたいと、「官」と「民」が立ち上がりました。

1992年に暴力団対策法が施行 。なかでも新宿は重点地区に指定され警視庁挙げての取り締まりが始まりました。2002年には街頭に防犯カメラが50台設置されました。

歌舞伎町で店やビルを経営する人たちも、みずから街のパトロールを行い客引きや迷惑行為を監視。観光客向けに安全な店を掲載したマップを製作するなど、取り組みを始めます。

(2003年の歌舞伎町 パトロールの様子)

 

新宿歴史博物館元館長の橋口さんは、このころ、新宿区の職員としてまちづくり計画を担当していました。

橋口敏男さん:

「治安の正常化だけでなく、歌舞伎町を将来どんな街にしたいか長期的な都市計画を考えようという声があがっていました。大手芸能プロダクション吉本興業の社屋の誘致や、ハリウッド映画の俳優を呼んでイベントを開くなど、歌舞伎町が本来目指していたエンターテインメントの街へ、かじを切っていきました」

 

世界から注目される一大観光地に

2015年、歌舞伎町に新たなシンボルが誕生しました。地上30階地下1階の新宿東宝ビルと、そこから顔を出す「ゴジラヘッド」です。その近くのビルに設置された「I♡歌舞伎町」の赤いネオンもSNS映えすると話題になり、多くの若者を街に呼んでいます。

2018年、新宿駅の乗降客数は1日359万人となり、ギネス世界記録に認定されました。新型コロナの感染が流行する前の2019年の東京都の調査では、外国人観光客が都内で訪問した場所として最も多かったのが「新宿・大久保」でした。

 

(2019年の歌舞伎町)

 

コロナ禍と“トー横キッズ”

ところが、コロナ禍で街は一変。多くの飲食店が営業を自粛し、一時は人影が消えました。

(2020年 緊急事態宣言発令中の歌舞伎町)

 

そうした中、1年ほど前から増えてきたのが、“自分の居場所がない”と歌舞伎町の路上に集まって過ごしている中学生や高校生の若者たち。周辺の安いホテルやネットカフェで寝泊まりしながら生活している人もいて、「トー横キッズ」と呼ばれています。そうした若者たちが犯罪に巻き込まれる事態が表面化してきています。

(2021年 歌舞伎町にたむろする若者たち)

 

歌舞伎町のこれからはどうなっていくのか。最後に橋口さんに聞きました。

 

新宿歴史博物館 元館長 橋口敏男さん

「歌舞伎町は何度もピンチに直面し、自分たちの力で乗り越えてきた強さを持っています。来年の春には、映画館と劇場とライブホールをあわせもつ48階建てのホテルも開業します。コロナが収束したら、必ずにぎわいを取り戻すと思います。若者たちが事件を起こしたり巻き込まれたりしているのは心配ですが、歌舞伎町自体は昔からいろいろな人を受け入れてきた懐の深い街です。誰もが安全にいられる“表通り”もあれば、身を潜めたいときに潜められる“横町”もある、それが歌舞伎町です」

 


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