「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」詩人・茨木のり子 現代に響く魅力

NHK
2022年1月12日 午後1:46 公開

気が付けばSNSを追いかけ、テレビや新聞のニュースに一喜一憂する――

何をよりどころとしたらよいのか不透明なコロナ禍、私(ディレクター)の支えとなったのが16年前に亡くなった詩人・茨木のり子さんの作品です。

 

そんなに情報集めてどうするの

そんなに急いで何をするの

頭はからっぽのまま

 

自律した精神性や生き様が投影された茨木の言葉が、いま時代を越えて人々をひきつけています。今回初めて撮影を許された仕事場を訪ねると、その言葉に込められた思いをうかがい知る、手がかりが残されていました。

(クローズアップ現代+ 取材班)

 

 

茨木 のり子 (1926-2006)

「わたしが一番きれいだったとき」「自分の感受性くらい」などで知られる、戦後を代表する詩人の1人。73歳の時に発表した「倚りかからず」は詩集としては異例の累計24万部。没後も重版が続いている。

  

 

初めて撮影が許された茨木のり子の自宅

 

茨木さんの家は西東京市東伏見の閑静な住宅街に建つ、山小屋風のモダンな邸宅。1958年(昭和33年)から夫と2人で暮らしたこの家で、茨木さんは2006年に79歳で亡くなるまでの50年近くの歳月を過ごし、詩を創作していました。

  

 

茨木さんがこの世を去って15年が経ちますが、部屋は暮らしていた当時の時間で止まっているようでした。リビングの壁にかかったカレンダーは、亡くなった2006年2月のまま。時計の針も、時を刻むことをやめていました。

 

ダイニングテーブルの脇に置かれた使い込まれたダイヤル式の黒電話に目を向けると、晩年に書かれた詩の一節が思い浮かびました。

 

車がない

ワープロがない

ビデオデッキがない

ファックスがない

パソコン インターネット 見たこともない

けれど格別支障もない

 

そんなに情報集めてどうするの

そんなに急いで何をするの

頭はからっぽのまま

 

すぐに古びるがらくたは

我が山門に入(い)るを許さず

(山門だって 木戸しかないのに)

 

はたから見れば嘲笑の時代おくれ

けれど進んで選びとった時代おくれ

もっともっと遅れたい

 

(「時代おくれ」より一部抜粋) 

 

コロナ禍が長期化し、これまでの暮らしや働きかた、生活そのものが根底から揺さぶられるなか、何が正解なのか、何をよりどころとしたらよいのかが不透明な世の中。子育てと仕事に追われる私は、時間があればスマホでSNSをちらちら眺め、テレビや新聞のニュースに一喜一憂する日々を過ごしていました。

 

そんなとき、偶然にも「時代おくれ」の一節にある

そんなに情報集めてどうするの/そんなに急いで何をするの/頭はからっぽのまま

を目にして、はっとさせられました。再び茨木さんの言葉に触れてみたいと思った瞬間でした。    

 

 

何度も読み返して 刻まれた言葉たち

 

茨木さんの詩と初めて出会ったのは中学生のとき。国語の教科書に載っていた「わたしが一番きれいだったとき」が授業で取り上げられたのがきっかけでした。

 

わたしが一番きれいだったとき

街々はがらがら崩れていって

とんでもないところから

青空なんかが見えたりした

 

わたしが一番きれいだったとき

まわりの人達が沢山死んだ

工場で 海で 名もない島で

わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

 

 (「わたしが一番きれいだったとき」より一部抜粋) 

 

 

1926年生まれの茨木さん。太平洋戦争中、“いっぱしの軍国少女になりおおせていた”という彼女が、自分の青春時代をふりかえって書き綴ったこの詩には、おどろおどろしさがありません。

戦争はどす黒くて怖いものという先入観があった中学生の私にも読みやすく、何よりも、若い女性の視点で戦争体験が読まれていることが新鮮でした。

  

教科書の出会いから3年後。高校生になった私は、自宅の本棚で「茨木のり子」の名前を見つけました。「この詩人の名前、見たことある」と軽い気持ちで開いた詩集で、私は本当の意味で茨木さんと出会うことになります。

 

自分の感受性くらい

 

ぱさぱさに乾いてゆく心を

ひとのせいにはするな

みずから水やりを怠っておいて

 

気難かしくなってきたのを

友人のせいにはするな

しなやかさを失ったのはどちらなのか

 

苛立つのを

近親のせいにはするな

なにもかも下手だったのはわたくし

 

初心消えかかるのを

暮しのせいにはするな

そもそもが ひよわな志にすぎなかった

 

駄目なことの一切を

時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄

 

自分の感受性くらい

自分で守れ

ばかものよ

  

 

「自分の感受性くらい」は、茨木さんが48歳のときに発表された代表作の1つです。この詩に支えられて生きてきたと言ってもいいくらい、私はこの詩を何度読み返したかわかりません。

ことあるごとに書棚から茨木さんを引っ張り出しては、何もかも投げ出したくなる自分のどうしようもない気持ちを叱咤(しった)してもらっていました。

直接会ったことがあるわけでも、こみいった話をしたことがあるわけでもないのに、茨木さんには私のことをわかってもらえているような、未熟な私には言葉にできないことを代弁してもらえているような。

「自分の感受性くらい」は、辛いときや迷ったとき、弱った自分が再び前に進んで歩んでいこうと思える、道しるべの存在になっていました。

 

 

時代を越えても色あせない言葉

茨木さんの「自分の感受性くらい」は発表から半世紀近く経つ今も、多くの人の共感を呼んでいます。SNS上には、茨木さんの言葉に共鳴する人たちの声があふれています。

 

「道に迷ったときや腹立たしいとき 寂しいときや悲しくて落ち込むときすごく心に響く」

「厳しいけれど、愛を感じる」

「自分の心がざわざわしたり 人を羨む気持ちが膨らんだときに読む 背筋しゃんとする」

(茨木のり子の詩集は)断捨離重ねても手放せなかった」

 

 

女優 志田 彩良さん

 

世代を超えて愛される茨木さんの言葉。女優の志田彩良さん(22)も茨木さんに強くひかれている若者の1人です。撮影現場にいつも持ち歩いているという詩集を見せてくれました。

 

女優 志田彩良さん:

「ちょっと弱っていたりとか、逃げたいなって思っている時は、自分自身を正してくれたり、優しく寄り添ってくれたり。日常的に持っていくことが多くて、自分にとってはお守りみたいな存在です」

 

中学2年でお芝居の仕事を始めた志田さん。大学に進学せずに、演技の道を究めることに迷いを感じたときも、傍らには茨木さんの言葉があったと言います。

  

  

大人になってもどぎまぎしたっていいんだな

ぎこちない挨拶 醜く赤くなる

失語症 なめらかでないしぐさ

子供の悪態にさえ傷ついてしまう

頼りない生牡蠣のような感受性

それらを鍛える必要は少しもなかったのだな

年老いても咲きたての薔薇 柔らかく

外にむかってひらかれるのこそ難しい

あらゆる仕事

すべてのいい仕事の核には

震える弱いアンテナが隠されている きっと……

  

(「汲む」より一部抜粋)

 

 

そんな志田さんがもうひとつ好きだという詩が「私のカメラ」という詩です。

 

 

それは レンズ

 

まばたき

それは わたしの シャッター

 

髪でかこまれた

小さな 小さな 暗室もあって

 

だから わたし

カメラなんかぶらさげない

 

ごぞんじ?わたしのなかに

あなたのフィルムが沢山しまってあるのを

(中略)

世界にたったひとつ だあれも知らない

わたしのフィルム・ライブラリイ

 

(「私のカメラ」より一部抜粋)

 

女優 志田彩良さん:

「いま、SNSとかネットとかいろんなものが発達していて写真も簡単に撮れてしまう時代ですけど、やっぱり直接目で見て感じたことっていうのは勝てないぐらい大切だなって思うんです。他の詩もそうですけど、この詩も昔書かれたんじゃなくて最近書かれたんじゃないかっていうぐらい、今の私と同世代の人たちにも届くのかなと思っています」

 

 

時代を見つめ続けた証 本棚に並ぶスクラップブック 

 

生き方や価値観が多様化したいま、色あせることなく、むしろ私たちにせまってくる茨木さんの言葉。創作の場となっていた書斎には、生涯、時代を見つめ、対峙(じ)しようとしてきた茨木さんの姿が垣間見えるものがありました。

 

 

本棚に並ぶ50冊を超えるスクラップブック。新聞の切り抜きは、世界情勢の時事問題や武蔵野平野の歴史をたどる連載、日本古代の遺跡発掘など、多岐にわたります。ひときわ目をひくのが、戦争にまつわる記事のスクラップブックです。

 

 

これは湾岸戦争が起きた直後の1991年の新聞記事。過去の戦争の死傷者数を取り上げた文面に、赤い線が引かれていました。

戦後の混乱から平穏な日常を取り戻した後も、戦争について考え続けていた茨木さん。スクラップブックにストックされた新聞記事は、詩人の創作の源にもなっていました。

太平洋戦争中、激戦地の一つだったフィリピン・ミンダナオ島で戦後しばらく経ってから見つかった日本兵の遺骨について、茨木さんが書き留めた「木の実」という詩に、茨木さんの眼差しが感じられます。

 

(中略)

ミンダナオ島

二十六年の歳月

ジャングルのちっぽけな木の枝は

戦死した日本兵のどくろを

はずみで ちょいと引掛けて

それが眼窩であったか 鼻孔であったかはしらず

若く逞しい一本の木に

ぐんぐん成長していったのだ

 

生前

この頭を

かけがえなく いとおしいものとして

搔抱いた女が きっと居たに違いない

 

(中略)

この髪に指からませて

やさしく引き寄せたのは どんな女(ひと)

  

もし それが わたしだったら……

 

絶句し そのまま一年の歳月は流れた

ふたたび草稿とり出して

嵌めるべき終行 見出せず

さらに幾年かが 逝く

 

もし それが わたしだったら

に続く一行を 遂に立たせられないまま

 

 

最晩年に語っていた、詩を書くことの意味

 

自宅にはNHKのラジオ番組に出演したときの肉声も残されていました。テレビやラジオなどのメディアの取材を受けることをいやがっていた茨木さんが、最晩年に自らの創作の原点について語った極めて貴重な資料です。この音源はNHKのアーカイブスにも保存されていないものでした。

 

ラジオのインタビューのなかで、茨木さんは創作の原点として、戦争体験について語っていました。代名詞ともいえる「自分の感受性くらい」が書かれたのは、1975年、茨木さんが48歳のときですが、この詩の創作の種がまかれたのも戦時中だと言います。

 

 

茨木のり子さん(ラジオより):

 「第二次大戦中は美しいものは悪であるという時代だったんですね。銀座なんかで着物を着て歩いてみますと、国防婦人会に呼び止められて、非常時なのになんでそんな格好してるとか。パーマをかけてるじゃないかとかってとがめられたんですね。だけど『美しいものを求めるってそんなに悪いこと?』って疑問がね、子ども心に芽生えたんですよね。

だけど、こんなこと考えるのは私が非国民で、日本人にあるまじきとか。で、それをもみ消してたわけですね。後になってみれば、自分の疑問のほうが正しかったと思うんですね。そうするとやっぱり自分の感性というものはもう少し信じてもいいんじゃないかと。それが一番間違いが少ないということをあの戦争中に悟ったんですよね。

自分の感じたもののほうが、間違いは少ないですね。で、もし間違っても自分が間違えたならば、あぁ間違えてしまったで済みますけれども、時の権力なんかに巻き込まれた戦争中の有様みたいな、ああいうふうに巻き込まれたときに、どうしようもないじゃありませんか、それを悔やんでも」

 

15歳のころの茨木さん

  

自分の感性を信じるということ。混沌の時代に、周囲に翻弄されて時代の大きなうねりに流されてしまった自分自身を省みて、生きることの意味を問い詰めた茨木さんが見いだした答えでした。

 

茨木のり子さん(ラジオより):

「『あなたの詩を読むと、非常に励まされる』、『勇気をもらった』ってお手紙をよく未知のかたからいただくんですね。私自身は、人を励ますなんて、そんなおこがましい気持ちで詩を書いているわけではないのですね。

結局、誰しもそうだと思うんですが、自分は強い人間と思うときと、弱い人間と思うときとありますでしょ。私なんか自分を本当に弱い人間と思うんですね。自分を叱咤激励するっていう意味で詩を書いているってこともあるんですね」

 

 

今だから受け止めたい茨木さんのメッセージ

 

茨木さんの肉声は、日本社会を震撼させた無差別テロ事件に触れながら、「自分を生きること」の大切さについても語っています。

 

茨木のり子さん(ラジオより):

「物事でも人でもそうですけど好き嫌いはありますけど、それは本人にとっては大事なことでね。嫌いなものは嫌いでいいんだし、それは変であると思ったら変であるというところに、立つべきだというふうに思うんですね。それが未だに駄目ですよね。

たとえば、あのオウム真理教なんかも一つの大きなあれですけれど、あんなに優秀な若者たちが、殺人にまで至るということがですね、自分の感性、自分の感受性でものを捉えていなかったってことでしょ。で、引き返すこともできたと思うんだけど、あそこまで突っ走てしまったってことは自分自身がないに等しいですよね。

うん、だから戦後60年近く経ちますけれど、まだ個人ってものを確立できてないなっていう感じがとても強いですね」

 

 

茨木さんの目には、現代の若者たちが自分自身を生きているようには見えないという痛烈な言葉。それは、生きるうえで大切なことに気づいてほしいと願うメッセージのようにも映りました。

このラジオ収録の5年前の1999年、生前最後に刊行された詩集のタイトルにもなった「倚りかからず」は、茨木さんの生き方そのものが昇華されています。

 

 

倚りかからず

 

もはや

できあいの思想には倚りかかりたくない

もはや

できあいの宗教には倚りかかりたくない

もはや

できあいの学問には倚りかかりたくない

もはや

いかなる権威にも倚りかかりたくはない

ながく生きて

心底学んだのはそれぐらい

じぶんの耳目

じぶんの二本足のみで立っていて

なに不都合のことやある

 

倚りかかるとすれば

それは

椅子の背もたれだけ

 

「倚りかからず」のモデルとされる、自宅のリビングルームに置かれた椅子

 


今回の取材を通じて、茨木さんが今の時代を生きる私たちに刺さり続ける理由がわかったような気がしました。それは、茨木さんの言葉が、混沌とした時代と対話を続けながら「個」として生きる意味を問い続けて刻まれていたからこそ、未来を見通せない時代を生きる私たちに響き続けているのではないかということです。

茨木さんの言葉をよりどころとする読者の1人として、自分の感受性を見くびらず、震える弱いアンテナが自分の中にも隠されていることを信じて、これからも茨木さんの言葉を反すうしていきたいと思います。


 

 

 

女優・志田彩良さんが朗読

志田彩良さんが茨木さんの作品を朗読(動画を再生します)

女優の志田彩良さんが茨木さんの詩を朗読。

「倚りかからず」「自分の感受性くらい」「汲む」の3編です。

 

 

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