日本と北朝鮮のトップ、当時の小泉総理大臣とキム・ジョンイル(金正日)総書記が初めて向き会った日朝首脳会談から今月17日で20年になる。
この会談を経て拉致被害者5人が帰国を果たしたが、その後、北朝鮮は核兵器やミサイルの開発を進め、日朝関係は極度に悪化した。拉致問題にも表立った進展はなく、その後、日朝関係は停滞したまま、現在に至っている。
ただ戦後の日朝関係を振り返ると、2002年9月の首脳会談は、両国関係が最も正常化に近づいた瞬間だった。そしてこの首脳会談に至るまでには、極めて少数の当局者のみが知る1年間の秘密交渉の存在があった。今なお謎が多い交渉の舞台裏を、当時の日本の交渉担当者、田中均元外務審議官が、私たちの取材に赤裸々に語った。
(国際放送局記者 増田剛)
2002年9月17日、ピョンヤン。日本と北朝鮮は国交正常化交渉の再開で合意し、両首脳が共同宣言に署名した。
キーマンだった田中と番記者だった私
この首脳会談の実現に向けて、小泉の指示のもと、北朝鮮との交渉を行ったのが、当時、外務省アジア大洋州局長だった田中均だ。
田中は、日朝首脳会談から20年になる今年の6月13日、NHKの単独インタビューに応じた。インタビュアーは筆者である。筆者は日朝首脳会談当時、政治部の記者で、外務省クラブに所属し、アジア大洋州局を担当していた。そう、田中の番記者だったのだ。
(番記者時代の筆者(左)と田中。2002年8月31日、成田空港にて)
当時の筆者は、田中のような百戦錬磨の外交官と渡り合うだけの知識と経験には全く欠けていて、表面的な事象を追いかけることだけで精一杯だった。日朝交渉の背景や意義について、自分は十分に掘り下げた取材ができただろうか。記者としての使命を果たすことができただろうか。そんな悔恨を抱えていたからこそ、20年が経とうというこの機会に日朝交渉の「真実」に迫りたいと思い、田中にインタビューをオファーしたのだ。
一方、田中も今年75歳となり、自分の経験を次の世代に「残したい」という気持ちになっていた。熟慮を重ねた上で、筆者のオファーを受けることにしたという。
ただ、インタビューを前に、田中は筆者にこう念を押した。
「自分は官僚であり、死ぬまで守秘義務がついて回る。あまり期待しすぎないでほしい」
田中は、1987年に北東アジア課長に就任して以来、北朝鮮との懸案を解決し、朝鮮半島に平和を作ることこそが日本の国益につながると考えていた。
北朝鮮問題は、拉致や核、ミサイルなど、日本の安全保障に直結する、深刻で重要な問題を数多くはらんでいたからだ。
こうした難題に風穴をあけたいと考えていた田中は、2001年9月、アジア外交のトップになると、小泉に北朝鮮との交渉開始を「直訴」した。
“田中さんやってくれ だけど絶対に秘密だ” 総理からの密命
「私がやりたいのは、朝鮮半島における問題解決なんだと。何としてでも活路を開きたいと。交渉してもいいですかという話をしたら、小泉さんが何を言ったかっていうと『田中さん。それ、やってくれ』って。『だけど、絶対に秘密だ』と」
これにより、徹底した秘密保持が交渉の大原則となった。
ことは、拉致という人の命が関わる問題である。それについて交渉していることが外に漏れた場合、不測の事態が生じる恐れすらあった。さらに、国交がない国、北朝鮮との交渉は、中途半端な形で明らかになると、交渉自体がつぶれかねない。また、秘密保持の原則と、多くの関係者が協議することとは、往々にして相容れない。
政府内で当初、交渉の存在を知らされていたのは、小泉と田中のほかは、片手の指で数えられるほどだった。
「(小泉から交渉の許可が下りたのが)2001年9月。それで実際に1年間交渉した後、小泉訪朝となるわけですが。そんなに簡単じゃないんですよ、秘密にするってことは。私は局長でしたから、在任中にいろんなことが起こるわけですよね。瀋陽の脱北者の駆け込み事件とか、当時は国会で答弁しなければいけなかったし、非常に目につくわけですよ。どこに行くにも、メディアの人たちがいるからね。だから秘密を守るっていうのは、ものすごく難しいことですよ」
田中は、2001年秋から2002年9月までの1年間、北朝鮮と30回近く交渉を行った。
交渉は秘密を守るため、ほとんどの場合、週末を利用して行われた。交渉前の木曜か金曜に必ず官邸に、小泉総理か福田官房長官を訪ねて事前の打合せを行い、帰国した後の月曜か火曜に再び官邸を訪れて報告をするということを、1年間、繰り返したのである。この間、新聞の「首相動静」欄には、田中の名前が頻繁に載っている。それにも関わらず、1年間、交渉の秘密が守り通されていたのは、筆者が政治記者であっただけに、驚きを禁じ得ない。
(2002年6月4日の朝日新聞「首相動静」4時1分に田中の名前がある)
交渉は、主に中国の大連や北京にあるホテルのスイートルームで行われたが、上海やシンガポールで行われることもあった。ただ、同じホテルを続けて使うと、ホテルの従業員や常連客に顔を覚えられる可能性もある。交渉の秘密が漏れるきっかけにもなりかねない。このため、例えば大連では、5つ程度のホテルを順繰りに回すなどの工夫をしていたという。
交渉はだいたい、土曜の昼から夜にかけて10時間、日曜の午前中に3時間行われた。そして午後には、帰国の途に就く。田中が東京の自宅に戻るのは、日曜の夜遅く。妻にも娘にも「出張だ」と告げるだけで、どこに行っていたのか、何をしていたのか、一切、明かさなかった。
日朝秘密交渉の開始 「ミスターX」と相対する
2001年晩秋のある週末。最初の交渉が行われた。
場所は、大連の中心部にあるシャングリラホテルのスイートルームだった。
ここで田中は、北朝鮮側のカウンターパートと初めて出会う。のちに日本で「ミスターX」と呼ばれることになる男である。田中は前任者から引き継いだ北朝鮮との交渉ルートで、「拉致問題を話せる人物を出してほしい」と要望した。そこで現れたのが、Xだったのだ。
この時の日本側の交渉参加者は4人。田中と平松・北東アジア課長、ノートテイカー(記録係)の事務官と通訳だった。その後の交渉も、基本的にこの4人が参加した。
北朝鮮側も4人だった。Xと副官、事務官と通訳である。
といっても、北朝鮮側の4人がそろって部屋に姿を現すことはない。いつもばらばらにやって来た。また、彼らは交渉のテーブルでは、必ず窓に背を向けて座り、窓のカーテンやブラインドを下ろすことを提案した。それが北朝鮮交渉団の流儀だった。
初めて会った時、Xは名前をこう名乗った。
「キム・チョル(金哲)と申します」
「私は国防委員会に所属しています」
国防委員会は、当時の北朝鮮の最高指導機関である。しかし田中は、Xが名乗った名前については、偽名だろうと考えていた。また、漂わせる雰囲気から、軍か諜報機関の幹部に違いないと感じたという。
「私よりは、たぶん15歳ぐらい若かったんでしょうね。軍人であることは明らかだったですね。どういう本を読んでいるんだって聞くと『戦前の日本陸軍の教本とか、諜報の本、日本の中野学校とかの本を読んでいる』って言っていました。彼が諜報機関のトップであったことは間違いない。『日本から送られてくる雑誌のたぐいの翻訳されたものが、自分のところに上がってくるんだ』という話をしていました。あとは、日本のテレビ。NHKなんて毎日見てるって言いましたよ。情報については、非常に詳しいという印象を受けましたね」
実際、Xは自分が軍人であることを田中に見せつけ、威嚇したこともあったという。
「コートをパーンと脱いだらね、真っ黒な軍服を着ているんですよ。そこに勲章がバーッと付いていてね。『自分は命をかけているんだ』という意思表示だったのかもしれない。この交渉がうまくいかなかったら、責任をとらなきゃいけない。往々にして北朝鮮の場合には、それは死なんだと。『田中さんは、せいぜい更迭されるぐらいなんでしょうね』というようなことを言っていました。」
Xは信用できるのか 田中が仕掛けた“クレディビリティ・チェック”
交渉の最初のころ、田中はXにある要求をした。
「北朝鮮にスパイ容疑で拘束されている日本人を無条件で解放してほしい」
Xが交渉するに値する人物か、つまり、北朝鮮で物事を動かし、政策を実行できる実力がある人物かを見極めようとしたのだ。田中がXに仕掛けた、「クレディビリティ(信頼性)・チェック」だった。
この要求をしてからまもない2002年2月、2年以上拘束されていた日本人は、無条件で釈放された。Xはチェックをクリアしてみせたのだ。
「名前がどうであれ、どこの所属であれ、交渉をするに値する。交渉するにあたって信頼できる人物であるということは、私には確信ができたということです」
(2002年2月13日 朝日新聞)
一方のXも、田中が小泉の信頼を得ているのかどうかにこだわった。これに対して、田中はXにこう言ったという。
「日本の新聞をよく見てください。『首相動静』欄を見れば、私が常に総理と相談してきていることがわかるでしょう。あなたと会う前後、つまり、金曜日と月曜日の欄を見れば、必ず私の名前が入っています」
当時の新聞の「首相動静」欄での、過剰なまでの田中の露出は、北朝鮮向けのパフォーマンスでもあったのである。
“ミスターX”は何者なのか
では、このミスターXとは、いったい何者なのか。
私たちは、日朝首脳会談に至る1年間の秘密交渉について、当時の北朝鮮側の思惑や事情について探るべく、ある脱北者にインタビューを行った。北朝鮮の元外交官で、現在、韓国の国会議員を務めるテ・ヨンホ(太永浩)である。彼は2002年当時、北朝鮮外務省の欧州局でEU・ヨーロッパ連合担当課長を務めていた。テ・ヨンホは、Xは外務省の人間ではなく、秘密警察にあたる「国家安全保衛部」の人間だろうという。
「北朝鮮の外交官は、日本人拉致被害者の安否やどこにいるかについて、全く知りません。国家安全保衛部は、絶対に(拉致被害者の)資料をほかの部署の人間と共有しません。保衛部出身者だけが知っています」
「(北朝鮮側の交渉担当者は、キム・ジョンイルと)とても関係が深かったと思います。キム・ジョンイルに随時、単独で会えるような位置にいる人間でした」
北朝鮮研究を専門とする慶應義塾大学の礒﨑敦仁(いそざき・あつひと)教授は、次のように言う。
「日本にとっては、拉致問題を解決する、これが最重要課題として掲げられているわけですけれども、北朝鮮にとっては、これは極めて不愉快な問題なわけですよ。北朝鮮としては、要求を突きつけられている感覚なんですね。敵国である日本に。こういう不愉快な要求を、トップのキム・ジョンイル国防委員長に上げることができる人物というのは、相当、覚悟も必要ですし、信頼されている人物じゃなきゃいけない」
Xは、当時の北朝鮮の最高指導者、キム・ジョンイル総書記に非常に近い人物だった。
このXの正体について、日韓の研究者や報道関係者の間では、リュ・ギョン(柳敬)という名前がささやかれている。何者なのか。情報はほとんどないが、朝鮮労働党の機関紙「労働新聞」の2010年9月28日付の紙面に、朝鮮人民軍の最高司令官命令が掲載されており、リュ・ギョンという人物が「上将」に昇格したことが書かれている。
これについて、礒﨑教授はこう語る。
「ミスターXが誰だったかは、わからないです。処刑されたリュ・ギョンという秘密警察の幹部であったといわれていますけれども、その証拠はなかなか出てこない。当時の国家安全保衛部の幹部で、その後、失脚した、処刑されたといわれていて、日本側とも縁が切れているという情報と一致しているので、彼ではないかということなんでしょうかね」
筆者は今回、田中に直接、このことを確かめようとした。
「田中さんのカウンターパートはリュ・ギョンだったんじゃないですか」
「僕は知りません。そういうことが韓国の新聞にも書かれているけど、私が確信を持って言える話ではないのでね」
田中は、Xイコール「リュ・ギョン」説を、肯定も否定もしなかった。
また、田中とXは、厳しい交渉で対峙しながらも、一方で互いに人間的な信頼感を持つような、不思議な関係になっていったという。田中は、次のように明かしている。
「(Xが)『田中さん、自分の娘に会ってくださいよ』とかね、『家族で交流できればいいね』とかね。最後の方は、ものすごく人間的な交流になっていたんですよね。彼が相当、苦しい立場に立ったことも、事実だと思いますよ。彼が処刑されたっていう話を聞いた時は、やっぱり非常に思うところはありましたね」
2002年 交渉は佳境へ
2002年の年明けから、交渉は本格化する。
当時、国際社会から孤立し、経済的に苦しい状況にあった北朝鮮。交渉の当初から、過去の清算として日本から資金を得ることにこだわり続けた。
これに対し田中は、拉致問題や核・ミサイル問題、国交正常化、その後の経済協力などをパッケージにして包括的に解決し、朝鮮半島に「大きな平和」を作ろうと呼びかけ続けたという。
「だけど拉致の問題をクリアしないと、先には行けない。日本からの資金の提供というのも、拉致とか核の問題を解決しないで、進むことはできませんと。だから、その“大きな道筋”を作りたいんだと。これはもう全部パッケージなんだという話を交渉の間ずっとしていました」
田中は、こうした多様な問題を解決する大きな枠組みを作るため、小泉総理の訪朝を、ありうるひとつのシナリオとしてXに示したという。交渉は佳境に入っていく。
交渉破綻の危機 田中がみた“政治家の覚悟”
しかし2002年の初夏、交渉は厳しい局面を迎える。
田中がXに、拉致被害者の安否情報を知らないまま小泉総理が訪朝することはありえない、総理訪朝より前に北朝鮮が拉致を認めて安否情報を明らかにすべきだと要求したときのことだった。
「北朝鮮が完全に交渉を切ると言いだした。『日本の目的は単に拉致の情報を得ることだけだろう。拉致の問題を世の中に明らかにして、それで総理は来ないということになるんじゃないか』と。『それなら私たちは、拉致情報を公表するつもりはないです』と言ってきたんです。私は、これはもうダメかなと思いましたね」
決裂寸前になっていた交渉。破綻の危機を乗り越えたのは、小泉のひと言だったという。
「総理の部屋に入って申し上げたんですね。北朝鮮は、事前に拉致の情報を明らかにすることはやらないと言っています。“総理が平壌に来るかもしれないとちらつかせて、拉致の情報だけを引き出そうというのが日本の魂胆だと判断せざるをえない”と言っていますと。総理はどうされますかという話をしたの。そしたら小泉さんはね、『田中さん、それでいつ行くんだ』っていうんですよね。いつ行くんだって。もう行くのは当然だと」
「総理は思ったんでしょうね。『もし自分が行かなければ、この拉致の話は全部、闇に葬られてしまう』と。だから『ああ、そうなんだ、これが政治家なんだ』と思った。もし小泉さんが『そうか。それはちょっと考えよう』ということになっていたら、違った結論になったでしょうね」
インタビューのこのくだりを話した時、田中は目に見えて興奮していた。自分の問いかけに対して「行く」と答えた小泉の声の中に、田中は総理大臣の決意を感じたのだ。
“アメリカの支持を得られるか” 対米極秘ブリーフィング
交渉が最終盤を迎えていた2002年8月下旬。
田中は、来日していた当時のアメリカ・ブッシュ政権の幹部に対し、東京のホテルオークラで、北朝鮮との交渉について、極秘のブリーフィングを行った。出席者は、アーミテージ国務副長官、ケリー国務次官補、国家安全保障会議のマイケル・グリーン日本担当部長、ベーカー駐日大使という面々だった。
(ホテルオークラの一室。2019年に建て替えられ当時の部屋とは異なる)
「日朝平壌宣言のドラフト(草案)も含めて全て話をした。彼らはじっと聞いていました。物音ひとつせず、じーっと聞いていた。日本がアメリカから驚くような内容のブリーフを受けることはあることなんですが、その逆はあんまりないんです 」
「話し終わると、アーミテージがすくっと立ち上がって、『俺に任せろ』と。『自分は今からアメリカ大使館に戻って暗号電話でパウエル(国務長官)に直接話をする』と。『ついては、その次の日、小泉総理からブッシュ大統領に電話をしろ』と言ってくれた」
当時、アメリカ政府内では、北朝鮮政策をめぐって、意見の食い違いが存在していた。
アーミテージやケリーは、北朝鮮問題は外交で解決するしかないという姿勢だった。北朝鮮がどんなに不愉快な相手であったとしても、ブッシュ大統領が一般教書演説で、北朝鮮をイラン、イラクとともに「悪の枢軸」と名指しをしていたとしても、交渉をしないわけにはいかないではないか。これは、パウエル国務長官もそうであったし、コンドリーザ・ライス国家安全保障担当大統領補佐官もそういう姿勢だった。
そうした勢力と対峙する形で、チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官といった、いわゆるネオコン勢力があった。彼らは「北朝鮮のような『ならず者国家』と交渉をしても、だまされるだけだ。そんな国は締め付けるしかない」という意識だった。
このブリーフィングに出席していたアーミテージとマイケル・グリーンが、今回NHKのインタビューに応じた。まずアーミテージ。
「田中さんが北朝鮮側と会っていたことは、私は諜報機関から聞いていましたので、特に驚きはありませんでした。北朝鮮の誰に会ったかまでは知りませんでしたが。私は大賛成で、北朝鮮と日本の雰囲気が改善されれば、北東アジアの平和と安定のためにも望ましいと思いました。ただ、私はチェイニーやラムズフェルドといったネオコン勢に、この情報を伝える必要は無いと感じていました。言っても状況が混乱するだけだからです」
一方、マイケル・グリーン。
「情報は非常に機密性の高いものでしたので、国務長官のパウエル、国家安全保障担当補佐官のライス、およびブッシュ大統領とのみ共有されました。田中さんの外交上の駆け引きや日本の機密を尊重するためです。ペンタゴン(国防総省)にさえ伝えませんでした。彼らは、北朝鮮に対してタカ派的な対応をしており、彼らがこの情報を漏洩して小泉総理の訪問を妨害するのではないかと、私たちは心配していました」
翌日、アーミテージと田中のお膳立て通り、日米電話首脳会談が行われた。田中は、総理大臣官邸の執務室で電話をかける小泉の隣にいた。
「ブッシュがね、『小泉、お前が言うことについて、俺が反対するわけがない』って言ったんですよ。総理には『自分はアメリカの利益を絶対に害さない』ということを言ってもらった。同盟国といっても、それぞれ違う利益があるわけですよ。拉致っていうのは、日本のアジェンダなんですよね。日本がこのプロセスを通じて、アメリカの利益を害することはしないということも重要なんです」
史上初の日朝首脳会談へ
2002年9月17日。ついに史上初の日朝首脳会談が行われた。キム・ジョンイル総書記は、これまで否定し続けてきた北朝鮮による拉致を認め、謝罪。これを受けて、両首脳は日朝平壌宣言に署名した。
しかし、拉致被害者の安否情報として告げられたのは、拉致された人のうち、5人は生きているものの、8人はすでに亡くなっているということだった。
あまりにも衝撃的で残酷な報告は、日本国民の心を激しく揺さぶった。
硬化する対北朝鮮世論と“田中バッシング”
拉致被害者家族の怒りと悲しみが連日大きく報道され、日本の対北朝鮮世論は硬化した。
こうしたなか、10月15日、5人の拉致被害者が一時帰国を果たす。
その際、「一時帰国」という約束どおり、再び5人を北朝鮮に戻すか、それとも日本に永住させるかが、政府内で大きな議論になった。
田中は、このときの自らの言動を次のように説明する。
「私は、拉致被害者を日本に永住帰国させるか、あるいは北朝鮮との約束どおり、いったんは向こうに返すかという判断は、政治判断だと思っていました。ただ私が言ったのは『帰さないとどういうことになるか、政治的な判断をされる前に考えてください』と。ひとつは、私がこれまでやってきた交渉のルートはきっと潰れるでしょうということと、もうひとつは、場合によっては、拉致被害者の 子どもたちを帰すまでに、相当長い時間がかかるかもしれませんということでした」
結局、政府の判断として、5人の拉致被害者は日本に永住させることが決まった。
田中はこうした経緯から「北朝鮮寄りではないか」と一部の政治家やメディアから激しいバッシングを受けるようになった。
「最初から最後まで『秘密でやれ』と言われて。もし秘密がわかると、成ることが成らないし、場合によっては、人が死んじゃうかもしれない。そういう思いを持って交渉したわけだから、ある意味しょうがなかったんですが、だけどやっぱり、家族会の人に対して“説明をする余地はなかったか”と思うときはありますよ、やっぱり。秘密でやったことに対するツケがね、来たのかもしれないですよね」
一方で、慶應義塾大学の礒﨑教授は、20年たった今、田中が主導した交渉は高く評価されるべきだと言う。
「秘密交渉を進めるということ自体は、成果を得る意味で必要であれば、それ自体は批判の対象にはなり得ないと思うんですけれどね。少なくとも北朝鮮問題、拉致問題で、この20年間で唯一の成果ですよね。それ以降、拉致被害者は帰ってきてないんですから」
官僚としてできることに限界を感じた田中は、やがて外務省を去ることになる。
ただ、今でも20年前の交渉の影響や、今後の日本外交のために何が必要かを考え続けているという。
「官僚もそうですし、政治もそうなんですけど、プロフェッショナルな役割は何なんだっていうことを、常に自問しながらやっていく必要があると思うんです。官僚は、世論に流されて世論が好むようなことをまず考えるということは、たぶん、やってはいけないんだろうと思います」
取材後記
拉致問題は、20年前に被害者5人が帰国して以降、その家族が帰国したほかは、目立った進展はなく、日朝関係全体も停滞といっていい状況にある。こうした中で、田中の証言を聞くと、プロフェッショナルの意識に徹した外交交渉の進め方が、一定の成果につながった部分がある一方で、そうした手法が必ずしも世論の理解を得られず、外交と世論の間に深刻なかい離が生じていたことがわかる。
複雑な国際情勢の中で、いかにして世論の理解を得ながら、外交上の適切な「解」を導き出していけるか。世論の望む方向と中長期的な国益とのギャップをいかに埋めていくか。そこに政治はどのような役割を見いだせるか。難しい課題だと感じた。
(文中敬称略)
国際放送局記者 増田剛
1992年入局。政治部、ワシントン支局、解説委員室などを経て、2019年から現職
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初回放送:2022年9月14日(水)
クローズアップ現代「明かされる“交渉の舞台裏”日朝首脳会談20年 あのとき何が」
※放送から1週間、見逃し配信をご覧頂けます
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