6月で制度導入から3年となる「司法取引」。犯罪に関わった人物が、共犯者などの捜査に協力すれば、その見返りに自らの起訴が見送られるなどする制度です。世界に衝撃を与えた日産自動車、カルロス・ゴーン元会長の摘発にも司法取引が使われました。この制度が私たちに突きつけるものは何なのか、そして、私たちはどう向き合っていけばいいのか。作家・真山仁さんに保里アナウンサーがインタビューしました。働く人や社会での生きづらさに悩む方々、新しい発見があるかもしれません。
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保里 小百合キャスター(以下 保里):共犯者の罪を告発すれば自分は罪を免れられる。この日本版司法取引の有り様をどのようにご覧になっていますか?
真山 仁さん(以下 真山):日本の法律の感覚は道徳的な要素が強いですが、本来、法律はドライなものです。司法取引によって、大きな悪をちゃんと糾弾できるのであれば、法律としてそういう仕組みがあることに関しては、それは善です。ただこういう法律的発想は元々、非常に日本になじみにくかった。3年で3件という数が少ない印象だと思いますけど、やはり簡単にはなじみにくいものがあるだろうと思います。
(司法取引概念図)
保里:これから日本で定着していくのでしょうか。
真山:同じ司法取引という仕組みを使いながら、(番組では)3つの違うドラマがありました。そこには個人や組織の葛藤があって、その葛藤のなかに冷酷な法律が出てきて、ある意味いい人と悪い人がわかれるみたいな状況になっている。3年で3件ですから、司法取引とは何かということを端的に、明確に言える人はたぶんまだ誰もいないと思います。
保里:使い方がかなり問われるということですか。
真山:やっぱり日本と欧米とでは違う。法律に対してのウェットな感覚が根本的にあるので、これが世界で共通だからというのは、全然説得力がないですよね。これは致し方ないなというところまで深く広く捜査をして、いろんな証拠を集めて、それでも決め手がないときに用いる「伝家の宝刀的な存在」でないと、日本では根付かないと思います。
保里:3件の事例の中に人間関係のドラマがそこにあるとご覧になっている?
真山:そうですね、3本の小説が書けそうですね。組織の論理だったり、個人の良心の葛藤だったり、あるいは、もしかしたら人間関係があったり…。
片一方が思っていなくても恨みを買うこともある。では、恨みを晴らすために法律があるのかというと、それは違いますよね。そういう感情的なドロドロした部分も、一度冷静にさせて、何なら冷たい水をかけて、あなたは腹が立つかもしれないけど、ちゃんと何があったかフェアに判断しましょうっていうものが法律なんです。だから(番組の)VTRを見ていてずいぶん人間臭いなと感じました。
(真山仁さん 1962年大阪生まれ。2004年に『ハゲタカ』などでデビュー。企業やその組織で生きる人間ドラマや司法をテーマに数多くの作品を手がける。)
保里:そこを小説家の真山さんとしては、興味深いと感じられますか?
真山:そうですね。いつかわかりませんが、いずれ司法取引を自分の小説に使うだろうなと思います。そのときに、小説だと人間の内面を書けるので、いわゆる売る側、売られる側として対立する葛藤や、そこに至る経緯も見せられる。小説のテーマとしても興味深いテーマだと思います。
司法取引の日本の中でのなじみにくさ・・・その背景にあるのは?
保里:真山さんがおっしゃったように、日本人の気質としてどうしても制度に対して違和感を覚える。感情の面でこれいいのかなと思ってしまう。日本になじみにくい部分はあるのでしょうか?
真山:極端なことを言うと日本では、道徳とか普段の価値観とか、あるいは恥ずかしいということに比べると、法律で何かを決めることに対して冷たい印象があるんですね。つまりほかのことは全部、人間のやることだから体温があるんですよ。だから、もしこれを世論に図ると、法律で決めた冷たい結論より、人間くさいその結論の方が賛成しやすい。
日本はどちらかというと、誰かが「これはこういうことだよね」と言った瞬間に、「そうだよね」「そうだよね」と流れやすい文化を持っている。そこに割って入って、「いや、そうではないんです」って言うことは、日本でそもそもなじまない。そういう背景がある以上、欧米で成功した法律制度が全てうまくいくとは限らないという前提は絶対にあります。
ただその一方で、価値観が広がってグローバル化しているので、いろんな外国的な発想、例えば「グローバルスタンダード」という言葉が定着したり、内部留保やコンプライアンス、ハラスメントなどが一般的になり、今までだったら笑って済ましたことが、笑って済まされなくなってしまっているときに、冷静な冷たい法律の判断が必要になっている。今は、過渡期なんだと思います。
われわれが、昔ながらの日本のルールで生きるべきなのか、外国がやっているようなある意味冷たい、でもフェアな法律の下によって生きていくのか、きっとこの令和の間に判断を迫られることがたくさん出てくると思います。
保里:私もそうですが、組織とそこに属する個人の関係というのは今、変わりつつあるかなと……。
真山:そうですね。日本は戦後の焼け野原から復興して、信じられないほど成長した先進国になりましたよね。その1つの理由というのが、企業は家族であるという、家族主義的な年功序列であったり、終身雇用制度だったり。一度企業に入り尽くすと、その分、企業は見返りとして退職しても困らないだけのことをして、その人の一生を安定させたものにしてきました。
バブル経済が崩壊したときに、企業が生き残るために、多くの人をクビにするしかなかった。そうなった段階で、本来の資本主義的な、冷たい、企業が生き残ることが大前提で、所詮そこにいる従業員はただ契約している1人の人間でしかない、というふうにならなきゃいけなかったんです。ところがそういう自覚が平成の30年間はほとんどなかった。何となく外国のような雰囲気になっているし、新しい法律がいっぱい出てきているけど、まだどちらかというと家族主義的なにおいが残っていた。令和になってようやく、さらに法律制度が充実したことと、日本の中で変わらなきゃいけないっていうような自覚が、特に組織の場合に出てきた。経営者のなかでは外国の投資家に対する意識が高くなってきたので、知らない間に外国が常識だと思っている。本当の資本主義のかたちができちゃったんですよね。
だから30年間熟成された“日本は資本主義国家になりなさい”ということが、ようやく令和になって現実化してしまった。つまりウェットな部分がない資本主義と法律が、それまで守られてきた日本独特のウェットな親近感のあるムードを全部押し流してしまった。
それで今、現実にあるような社員と組織は、契約であって私たち組織はあなたを守る必要はないんですよ、というような社会になってしまったんだと思います。
日本人の気質やメンタルな部分とは異なって、組織や企業や、もしかすると一部の社会はもう既にその新しい服に着替えちゃったんです。欧米と同じような、ドライで、何なら冷酷な資本主義国家と法治国家になりましょうと。そこのなかでうまくいっていれば、社員もそれなりに大切にするけど、社員の一生を責任持たないですよと、ひたひた進めてきたんです。だからそういう目で見ると、今回の3つの案件というのはもう当たり前です。
ただし何度も言いますけれど、日本には長い歴史と気質がありますから「そういうルールになりました」って言われて、おとなしく「わかりました」って言う必要はない。これから必要なのは「This is 資本主義国家」になった日本と、やっぱりウェットな人間関係が大事じゃないかと考える日本の気質が、どこで折り合うかだと思います。
司法取引=伝家の宝刀?!道具をどう使いこなすのか
保里:一方で、司法取引が伝家の宝刀的な存在であることというのは、例えば抑止力にもつながるのでしょうか?
真山:そうですね。伝家の宝刀は存在が重要なんですよね。抜かなくていいんですよ。抜くのはもう最後の手段。ただ、そういうやり方もあるっていうのは、捜査のアプローチ方法が1つ増えたと。それも時と場合によっては、ほかのアプローチより強力な威力を発揮する切り札を持っていると。切り札は最後まで使わないほうがいいし、使うタイミングが重要なので。だから、司法取引が伝家の宝刀であり続けることは、まだなじみが薄いなかで、日本人が宝刀を抜くタイミングを図りながら、その存在の意義を考えていく必要があると思いますね。
保里:そういう意味では、必要な存在に十分なり得る?
真山:私は、法律は道具だと思っているんです。つまり、道具はたくさんあった方が便利ですよね。例えば、太いドライバー1本だと細かいものができないから、細いドライバーも要る。滅多に使わないかもしれないけど、あると安心ですよね。法律も似ています。
特にこれだけIT化や国際化が進むと、今までの日本ではいらなかったものに対応しなきゃいけないときに、法律が追いついてないんですよ。だから、とにかく先回りしていろんな法律を整理しておけば道具をたくさん持つことになるので、それはとても重要だと思います。
司法取引の時代 私たちはどう向き合えばいいのか?
保里:明日、隣にいる同僚が敵になるかもしれない。そういうことを常に思いながら働けるかというと、なかなか厳しい。世知辛いなと思ってしまうところもありますが、どういう心持ちでこれからの時代を生きていったらいいのでしょうか。
真山:日本人の気質は、長い年月の中で先人たちが培ったものですよね。そこに外的要因が入ってきて、どんどん変わっていくわけですけど、その気質が変わる可能性が出てきたわけですよね。そうすると頭の片隅には、時と場合によってフェアなもっと冷たい判断をしなきゃいけないことが増えてきていると。今までみたいに全くそういうリスクを考えないで、無防備に全部自分の思っていることを預けるということが、残念だけどできにくくなってきた。
つまり、片足は企業・組織に、もう一方は自分の生き方に置いておくのがちょうどいい。今の人はほぼ90%以上組織に重心を置いてしまっているんですよね。
大事なことは、日本人にも自分の正義がわからなくなっていると思います。もちろん人を殺してはだめなのはわかりますけど、じゃあこういうときに会社のルールに沿って、組織人としての正義を守るかどうか、さらにそれが自分の生き方として正義なのかという自問自答をあんまりしてこなかったんですよ。
保里:そうですね。
真山:でも本来、組織にいるけれども、自分にとって譲れないものが何で、組織から出て行くことによって多くを失うとしても、やっぱり自分はそれを守るんだっていう生き方をしなきゃいけない時代になっている。これは嫌なように聞こえますけど、曲げない信念って最終的に自分の人生を豊かにすると思います。
もしそのときの信念があいまいで長いものに巻かれてしまった場合、たぶんその人は一生後悔すると思います。たとえ嫌な思いをしても、それから先の人生を考えると、意外に信念を貫くということは大事なんです。小説ではよくあるパターンですが、なんでウケるかっていうと、なかなか実際にはできないからです。司法取引の一例を挙げても、信念を貫くことが認められる社会や世界が、日本でもっと自分の言葉のようになっていくときが来ているんだと思います。
保里:確かに日本の小説作品は、自分の信念を貫いている主人公がものすごく人気になります。
真山:多いでしょう。
保里:それって裏を返せば、おっしゃるとおり「そうできないから」ですか。
真山:そうです。できないからです。
保里:そういう意味で言うと、自分の信念に覚悟を持って貫いていけない時代というのは、誰もが小説の主人公のようにたくましく生きていかないっていうような…。
真山:そうですね。もし、そうなったら、私はたぶん、組織に魂を売る人を小説に書くと思います。
自問自答できているか?小説家・真山仁さんからのメッセージ
真山:時代は変わっていくんだと、いつも自分の心の片隅に留めておかなきゃいけない。
我慢しなきゃいけないことが起こったら、その信念に照らしてでも我慢するべきなのか、長いものに巻かれると楽だから我慢してるのかっていう、その我慢の入り口で判断することも大事なんですよね。
だからそのときに例えば「自分は未経験だし若いから、わからないから飛び込んでみよう」と、でも「やりたくないことだっていうことは心に留めておこう」と思って長いものに巻かれる場合と、「それで偉くなった先輩たちがたくさんいるから飛び込もう」っていうのでは全然違います。時代の流れの中で、無理に信念ばっかり振り回すのも難しいので。経験やいろんなことを考えた上で、いつもいつも片足の少しは絶対自分に置いて大事にしていかなきゃいけないと、今回の司法取引の一例を見ても感じます。せちがらくはありますけれど、ある意味では、もしかすると日本人は小説の主人公になるときが来たのかもしれないですね。
保里:常に自分の行動を、置かれている環境を、ずっと問い続けて歩んでいく・・・
真山:とは言え安易に、前の人に続くと苦しいので。だからやっぱり大切なのは、心の片隅に持っているだけでいいんですよ。何かあったときに、自問自答できるか。これは私が本当にやりたいことなのか、あるいは、こういうことを見過ごしていいのかということを、何かあったときに考えればいいと。そうじゃないときは、いろんなことを学び、みんなと仲良くし、一緒に頑張っていけることに関しては、そこで妙な疑問を持つ必要はないと思います。