1972年5月15日の沖縄の本土復帰から、今年で50年がたちます。日本本土が主権を回復したあとも、沖縄は戦後27年間アメリカの統治下に置かれました。
「沖縄に行くのにパスポートが必要ってどういうこと?」「どうして働いている人が女性ばかりだったの?」。半世紀をへて、復帰を知らない世代が増えました。
沖縄の人々は復帰についてどう思っていたのか、そして50年がたった今何を感じているのか、復帰当時の若者が、現代の若者に語りかけました。
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▼5月11日・夜7時半~クローズアップ現代「50年前の沖縄にタイムトラベル」
ガレッジセール・ゴリさん、SixTONEs・森本慎太郎さん、玉城ティナさんなど出演
沖縄に行くのにパスポートが必要だった 驚く若者
(バーチャル空間で50年前の沖縄を旅する若者たち)
NHKでは、当時の資料や証言を元に50年前の沖縄をバーチャル空間に再現しました。
そこに、全国各地から16〜26歳の若者7人がリモートで集まり、街の様子を体感しながら当時を知る人たちに話を聞きました。
若者たちのアバターは、首からパスポートを下げています。
「なんで沖縄に行くのにパスポートが必要だったんですか?」
東京のアパレル店で働く“ナナぎゃる”さん(22)が、素朴な疑問を口にしました。
日本は敗戦から7年後の1952年に「サンフランシスコ平和条約」の発効によって主権を回復しましたが、沖縄はその後もアメリカの統治下に置かれました。そのため、沖縄から本土へ渡るのも、本土から沖縄へ渡るのも、パスポートが必要だったのです。
今回参加した7人中6人はそのことを知りませんでした。
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沖縄戦で男手を失い 女性が担った戦後復興
(復帰直前の農連市場周辺)
戦後、いち早く市民に開放され、復興の始まりのひとつとなったのが、県民の台所・農連市場です。
市場内には、ゴーヤーや島にんじんなど、現代の沖縄でも料理に使われる食べ物、さらに、“Cレーション”と呼ばれるアメリカ軍の携帯食など基地からの“放出品”も並んでいました。
市場では、助け合いながら、たくましく生きる女性のパワーがあふれていたと、市場の近くで生まれ育った那覇市文化協会会長の崎山律子さん(72)は語ります。
崎山律子さん:
「市場で働いていたのは、圧倒的に女の人たちなんです。なぜかというと戦争で男の人たちがたくさん亡くなって、戦後の復興は女性たちの肩に乗っかっていたんですね。朝早く畑に行って野菜を収穫して、それを市場に持っていって売ります。帰ったら家事も待っている。そうした中で、地域の子どもは一緒に見ていました」
太平洋戦争の末期、沖縄は本土防衛の最前線とされ、激しい地上戦が行われました。沖縄戦では20万人を超える人が亡くなり、県民の4人に1人が命を落としました。
崎山律子さん:
「みんな戦争をくぐり抜けて生きてきた人たちなので、お互いに助け合って生きていこうという気持ちが、とても強かったんです。生き残った人たちは、沖縄戦の遺族なわけですよね。“命どぅ宝”という、昔から沖縄の中でとても大切にしていた言葉、“命より大切なものはない”という思い。それが、自分たちの心の芯になったと思います」
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品物が水浸しになる市場 本土復帰を望んだ沖縄県民
(崎山律子さん)
市場周辺は、たびたび水害に襲われました。台風のあとはバーゲンセールをして、一度水浸しになった商品を売ることもあったといいます。
「なんで水害が起きる場所に市場をつくったんですか?」
若者の疑問は、沖縄の人たちが本土復帰を望んだ理由にもつながるといいます。
戦後、焼け野原になった那覇は、アメリカ軍に占領されました。最初に解放されたのが、戦前には人があまり立ち入らなかった湿地帯だったのです。
崎山律子さん:
「沖縄の人々の生活のインフラは後回しだったんですよね。台風になると浸水が起きて、総動員で店の品物を高いところに上げていました。そういった状況が本土復帰によって変わるのではないかと期待していたんです。復帰に向けて気分が高揚したのを覚えています」
(『本土復帰に対する沖縄住民の意向』 1970年NHK世論調査)
本土復帰の2年前、1970年にNHKが沖縄で行った世論調査では、実に85%の人が本土復帰を「歓迎する」と答えています。
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「どこが祖国なの?」復帰を喜べない人も
本土復帰に向けて、沖縄が一枚岩だったわけではありません。
極東最大のアメリカ空軍基地・嘉手納基地がすぐそばにあるコザ(現在の沖縄市)は、ベトナム戦争に向かうアメリカ兵たちでにぎわい、彼らが使うお金で生活する人が数多くいました。
ネオン輝くコザの繁華街では、一晩で当時の沖縄の人たちの年収の2倍も売り上げてしまうステーキ屋や、国籍を超えた恋模様を伝える翻訳屋などがありました。
(復帰当時の宮永英一さん。伝説のハードロックバンド「紫」のドラマー)
基地の街・コザで生まれた宮永英一さん(70)は、コザのクラブでアメリカ兵相手に連日ライブを行っていました。
宮永英一さん:
「アメリカ兵は本国では本物を見ているし、ライブハウスに来る人たちっていうのは、みんな音楽をかじっているんですよ。だから、中途半端な演奏はすぐバレちゃう。すぐ瓶や灰皿が飛んできましたね」
毎晩のように“命がけ”でライブを行っていた宮永さん。当時、本土復帰についてどう考えていたか聞くと、意外な答えが返ってきました。
宮永英一さん:
「コザや基地の周りで商売している人たちは、賛成の人は、ほとんどいなかったですね。基地が縮小して客が来なくなればみんな仕事を失うっていうことですから」
さらに宮永さんは、「祖国」とされる日本そのものに対しても、複雑な思いを抱えていました。
宮永英一さん:
「うちの親父はアメリカ空軍の兵士で、すぐ朝鮮戦争に行って、そのまま本国に帰ってしまったので、僕は、あちこちに転々と預けられて育ちました。
最後に僕を預かってくれたのが、沖縄のおばあちゃん。日本語ができず琉球語を使う彼女は戦時中、日本兵からスパイ扱いをされたわけです。
太平洋戦争は沖縄が起こした戦争じゃないはず。それなのに沖縄に多くの犠牲が出た。それで『どこが祖国なの?』という疑問がやっぱり湧いてくるんですよ。だから素直に喜べないような気持ちはありましたね」
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アメリカ兵による事件や事故 怒りが噴出した“コザ暴動”
しかし“基地の街・コザ”でも、アメリカ統治に対する不満が溜まり続けていました。
復帰前の沖縄では、アメリカ軍関係者による刑事事件が年間1,000件以上起きていました。
酒を飲んだアメリカ兵の車に女性がひかれて亡くなったり、アメリカ軍のトラックに子どもがはねられて亡くなったりする事故も起きていました。それでもアメリカ統治下の沖縄では、事故や犯罪を犯したアメリカ兵を自ら裁く権利さえ認められていなかったのです。
そして1970年12月、アメリカ兵の運転する車が沖縄の住民をはねた交通事故が発生。抗議する市民に対して、アメリカ軍の憲兵が威嚇発砲しました。
これをきっかけに沖縄の人たちがアメリカ軍関係者の車などを襲い、80台以上を炎上させた、いわゆる“コザ暴動”が起きたのです。
(“コザ暴動”翌日の燃えた車両)
宮永さんは、ライブハウスからの帰り道に“コザ暴動”を目撃しました。
宮永英一さん:
「先輩の親父が、アメリカ兵同士のけんかの仲裁に入って殺されたということも周りであったんですよ。レイプされた人たちもたくさん知っています。
そういったことがどんどん積もり積もってくると、やっぱり『このぉ』って思いますよ。
沖縄に土足で上がりこんできて、やりたい放題は絶対許さないぞって。
でも、この暴動では、死者は出なかったし、略奪などもなかった。兵隊個人にではなくて、体制に対する怒りだったんです」
沖縄出身のはるなさん(18・沖縄)も、詳しい話を聞いたことはなかったといいます。
はるなさん:
「沖縄に住んでて、こういう話ってなかなか聞く機会がなかったんですけど、やっぱり沖縄が基地返還を求める理由をあらためて感じることができました」
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不本意な形での“本土復帰” 怒りと苦悩
そして迎えた1972年5月15日、本土復帰の日。沖縄代表として日米両政府に復帰を訴え続けてきた屋良朝苗知事が、復帰記念式典の壇上に立ちました。このときのスピーチは、沖縄の人の思いを代弁したと、いまも語り継がれています。
(復帰記念式典 屋良朝苗知事のスピーチ)
ㅤ屋良朝苗知事:
「沖縄復帰の日は、疑いもなくここに到来いたしました。しかし、沖縄県民のこれまでの要望と心情に照らして、復帰の内容を見ますと、必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとは言えないことも事実であります」
沖縄県民の多くは、本土復帰によって基地負担が軽くなることを望んでいました。
しかし、多くのアメリカ軍基地が残されたまま復帰を迎えました。
復帰式典が行われていた那覇市民会館の外では、土砂降りの雨の中、約1万人が抗議の声を上げていました。
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「日本にとって復帰とは?」 “きれいな沖縄”だけじゃない
本土復帰から50年。沖縄は大きく変わりました。一部の基地の返還と跡地利用が進み、インフラも整備されました。沖縄を訪れる観光客は急増し、年間1000万人を超えるほどになっています。
(辺野古沖 2022年4月撮影)
一方で、基地と隣り合わせの生活は続いています。アメリカ軍基地に起因する事件・事故はやまず、基地のあり方は今も問われ続けています。
住宅街のただ中にある普天間基地については、26年前、日米両政府が返還に合意しましたが、その移設先とされたのは同じ県内の名護市・辺野古沖。沖縄県が反対する中で、埋め立て工事が行われています。
復帰から50年たった今も、全国のアメリカ軍専用施設のおよそ70%が沖縄に集中しています。
現代の若者たちに、復帰当時22歳だった崎山さんが語りかけました。
崎山律子さん:
「生活のインフラが充実してきたとか、復帰してよかったことはたくさんあります。ただ、沖縄の復帰が、ある意味で、沖縄の人たちの思いにそぐわなかったことはぜひ分かってほしいなと思います」
復帰当時20歳だった宮永さんも、歴史を学び、あるべき姿を考えて欲しいと訴えました。
宮永英一さん:
「みなさんには、歴史をしっかり学んでいただきたいなと思います。歴史は真実の基本だと思うんです。報道やいろんなものがあるだろうけど、自分がその真実をしっかり探し出す。歴史からものを学ぶということが、未来を切り開く、きっかけになるんじゃないかなと思います」
沖縄の複雑な歴史に触れた若者たちは、何を思ったのか。沖縄が大好きだというあさとさん(17・北海道)は、当事者から話を聞いて深く考えさせられたと話しました。
あさとさん:
「沖縄には何回も行ったことがあるけれど、知らない歴史がたくさんあり見てこなかった事実があるということを実感しました」
ゆうさん(17・広島)は、ある決意を伝えました。
ゆうさん:
「沖縄はきれいな観光地という印象だけでしたが、それよりももっと深い歴史があり、またその歴史にかかわる問題は日本全体で考えるべき問題だと気づくことができました。まだまだ基地問題などが解決されていない今、私たちの世代が改善していきたいと思いました」
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(新城和博さん)
小学生の時に復帰を体験した編集者の新城和博さん(59)は、著作を重ねながら復帰とは何かを問い続けてきました。
復帰50年の節目となる今年は、沖縄と本土の関係性を見つめ直す機会にしてほしいと訴えます。
新城和博さん:
「沖縄では、毎年5月15日になると、復帰とは何だったのかと問いかけられます。
でも、沖縄にとって復帰とは何だったのですかという質問じゃなくて、日本にとって沖縄の復帰とは何だったのかと問いたいです。
復帰というのは、僕は鏡だと思っています。毎年、沖縄の人は復帰という鏡でもって、自分自身の姿を見るわけです。今、自分が望んだ形をしているかな、笑っているかな、やっぱり苦悩しているなとか。
じゃあ、沖縄以外の日本の場所で、そういう鏡を持っているかというのを問いたいです。そのときにはじめて、お互いに自分事として、つながることができる気がします」
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