沖縄が本土に復帰した50年前の街並みを『バーチャル空間』に再現。5月11日放送の「クローズアップ現代」では、そこを全国から参加した若者たちが“タイムトラベル”しました。
当時の沖縄はどんな様子だったのか?この記事では、戦後復興の先駆けとなった市場(まちぐゎー)について紹介します。
目次
・戦後復興の先駆けとなった那覇市のまちぐゎー
・県民の台所 農連市場
・市場から見えるアメリカ統治の影響
・復帰に対する混乱も
・沖縄戦の影と女性の力
・生活環境の改善を願って復帰に期待
戦後復興の先駆けとなった那覇市のまちぐゎー
(復帰直前の農連市場)
復帰当時、那覇市は大型デパートや高級品が建ち並ぶ沖縄の中心都市でした。しかし戦後まもなくは米軍の占領下にあり、中心地に住民は立ち入ることができませんでした。
市民にいち早く開放されたのがまちぐゎーと呼ばれるエリアです。
生活の糧を求めて、狭い範囲に沖縄中から人が集まり、闇市から復興がスタート。時代を追うごとに活気は増し、その様子から「戦後復興の象徴」とも言われるようになりました。
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県民の台所 農連市場
まちぐゎーのひとつ「農連市場」は、昭和28年につくられた野菜の卸売り市場です。
取れたての野菜を農家が直接持ち込み、客とやりとりしながら値段交渉する昔ながらの沖縄の市場で「県民の台所」と呼ばれていました。野菜以外にもさまざまな品が売られていて、ここでそろわない物はないと評判でした。
多い時には1日およそ2万人が訪れていたと言われています。
何度も取り替えを行ったトタン屋根。年季の入った木製の支柱。踏みならされた地面。
農連市場には、人の手で一から作り上げた跡が残っていました。
2017年、老朽化に伴う防災上の問題や利用者の減少などから、建て替えられました。新しくなった農連市場(のうれんプラザ)はかつての市場の隣に建てられ、青果店や総菜店などおよそ80店舗が営業しています。
復帰の前から農連市場で働いていて、今も現役の備瀬守さん(農連中央市場事業協同組合 代表理事)は、当時の雰囲気を詳しく教えてくれました。
備瀬守さん:
「農連市場はとにかくすごい人で、肩が当たらずには歩けないほど。活気にあふれ、雑踏が懐かしいね。いまはすっかり見られなくなったけど野菜も頭に乗せて運んでいました」
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市場から見えるアメリカ統治の影響
市場では基地から放出された物が売られることもありました。
Cレーション(正式名称:MCI meal, combat, individual)と呼ばれる缶詰は、アメリカ軍が戦場に持って行った携帯食です。
(Cレーション)
中には肉、チーズ、デザートなど10種類以上の物が入っています。外側には英語で商品名が書かれていますが、英語が読めなかった子どもたちにとって、開けるまで中身が分からず、ガチャに近いワクワク感が楽しみになっていたそうです。
チーズが出ることを楽しみにしていた人や、学校の先生に英語を訳してもらう人など、それぞれの思い出があるようでした。
復帰当時、沖縄では紙パックでの牛乳発売が少しずつ始まっていました。
注目したいのは紙パックに書かれた946mlという中途半端な数字。
アメリカ統治下の沖縄では、アメリカ式のクォートという単位が採用されていて、この1クォートをミリリットルに直すと946mlになります。
沖縄の牛乳パックは、いまでもこの946mlが主流です。
戦後、アメリカから市民に配給されたことで普及したポーク缶。ポーク玉子やチャンプルー、味噌汁などに使い、いまも沖縄では親しまれていますが、当時の市場でも売られていました。
基地から流れてきた簡易ベッドを使って商売する人もいました。
(米軍払い下げの簡易ベッド)
小学6年生で復帰を迎えた仲尾次武さんは、父親の手伝いをしながら農連市場で雑貨を売っていました。物不足だった当時は、使える物は何でも利用していて、米軍の払い下げのベッドの上に商品を広げて売っていたと言います。
仲尾次武さん:
「復帰前の農連市場は場所の取り合い。休日は夜2時から場所を確保するために並んでいた」
復帰を控え「本土との価格競争に勝てるのか」「安い関税で入っていた輸入品の価格が上がるのではないか」など、不安もあったといいます。まちぐゎーでは「復帰すれば、米の値段が2倍半になる」というポスターも貼られていました。
また、復帰とともにこれまで使ってきた斤(きん)という単位から、日本式のグラムへと単位が変わりました。市場で働く人たちは、品物の重さを量るのに棒はかりと呼ばれる計量器を使っていましたが、競うようにグラム用の計量器を購入したといいます。
復帰で慌てていた大人たちを見ながら、子どもたちも想像を膨らませていました。
復帰を控えたまちぐゎーでは、子どもたちを中心にたくさんのうわさ話が飛び交っていました。
「日本に復帰したら沖縄に雪が降る?」「名字が変わる?」「九州とくっつく?」などなど。
取材すると、うわさの発信源は子どもではなく、まちぐゎーで働いていた「おばあ」だと話す人にたくさん出会いました。
まちぐゎーの歴史に詳しい那覇市文化協会の野原巴さんに詳細を尋ねました。
野原巴さん:
「復帰前は毎日を生きていくので精一杯で、まちぐゎーで働く女性たちも早朝から夜遅くまで働く毎日。仕事の合間にする『ゆんたく』(沖縄の言葉で『おしゃべり』のこと)が日々の楽しみでした。うわさ話が生まれる背景には、大変な中でも明るく前を向く、沖縄のおばあたちの姿があったと思います」
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沖縄戦の影と女性の力
取材の中では復帰前の写真もたくさん見ました。そこで気になったのは、売り手も買い手も女性ばかりだということ。これは一体どうしてなのか?
まちぐゎーで生まれ育った崎山律子さん(復帰当時22歳)に理由を聞きました。
(崎山律子さん 左:復帰当時 中:アバター 右:現在)
崎山律子さん:
「沖縄の市場では琉球王国時代から女性が働く風習がありましたが、それだけではなく、沖縄戦でたくさんの成人男性が亡くなったことも理由です。
市場は未亡人となった女性たちにとって大切な働き場でした。戦後の復興も女性たちの肩にかかっていました」
本土防衛の最前線とされ、激しい地上戦が行われた沖縄。沖縄戦では県民の4人に1人が亡くなりました。
(沖縄戦)
戦後すぐの男女比を調べると女性7に対して男性は3の割合でした(16歳~65歳。1946年1月沖縄諮詢会調査)。
農連市場を含めたまちぐゎーでは、たくさんの女性が互いに助け合いながら働いていて「未亡人市場」とも呼ばれていました。
崎山さんのお母さんも戦争で独り身になり、まちぐゎーで商売をしながら子どもたちを育てました。
崎山律子さん:
「周りには戦争で傷ついた人が大勢いて、口に出さないけどみんな苦悩を抱えていました。誰も戦争については語らないけど、時代や国のせいにするのではなく、黙々と毎日を精一杯生きていましたね。
この農連市場で働いているひとりひとりが、あの戦の中を生き延びてきた人たち。『命どぅ宝=命より大切なものはない』という言葉が、体の中に、しっかりと落とし込まれていました」
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生活環境の改善を願って復帰に期待
(復帰当時の平和通り商店街)
農連市場のすぐ近くにある「平和通り商店街」。
流行品を売る店や書店などが通りの左右にズラリと並び、大勢の人で賑わいを見せていました。「平和通り商店街」という名称は1951年に一般公募によって決まったものです。近くにあった映画館の名前を由来にしつつ、平和な世界を願ってつけられたと言います。
復帰前、平和通りを悩ませていたのが「浸水」です。
雨や台風の度に近くの川が氾濫を繰り返していました。浸水が起こると、商売人たちは急いで品物を高いところに逃がしますが、間に合わずに濡れてしまう品も多く、翌日には大幅に値下げして、たたき売りをするのが名物になっていました。
たたき売りを狙って買い物に来る人も多く、商売人の中には、あえて水に濡らして大売り出しをする店もあったと言います。
インフラ整備についての不満も復帰への思いを後押ししたといいます。
「本土復帰に対する沖縄住民の意向」(1970年NHK世論調査)
本土復帰の2年前、1970年にNHKが沖縄で行った世論調査では、実に85%の人が本土復帰を「歓迎する」と答えていました。
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