新海誠監督、「すずめの戸締まり」で挑んだ“エンタメと震災”。未公開インタビュー

NHK
2022年12月12日 午後5:11 公開

『君の名は。』、『天気の子』に続き、現在、大ヒット中の映画『すずめの戸締まり』を生み出した新海誠さん。この映画に込めた東日本大震災への思い、そして新海さんが考えるエンターテインメント作品の持つ力について話を聞きました。

(聞き手 桑子真帆キャスター)

東日本大震災の“後ろめたさ”と向き合って

桑子真帆キャスター

――『すずめの戸締まり』拝見させていただきました。クスッと笑ってしまうコミカルなところもあれば、恐い、苦しい、そして温かい気持ち。いろいろな感情に包まれました。今回の映画は、災害をモチーフにされています。新海さんは、これまでも『君の名は。』『天気の子』と、ずっと災害を描かれてきたという印象があるんですが、もともと関心を持ってらっしゃったんですか?

新海誠さん(以下、新海):

もともとではないと思います。一つ、自分の中で大きな変化の瞬間がありました。それは、本当にストレートに2011年の3月11日ですね。あの日、日本中の人がある種、心を書き換えられるような瞬間だったと思うんですけれど。僕は全く直接の被災者ではなく、東京で当時もアニメーション映画をつくっていました。仕上げの最中でスタジオが随分揺れて、みんなで避難して外に出て、なんて大きい地震なんだと驚きはしたんですが、ただ本当に何が起きているかが分かったのは、その日の夜以降だったわけですよね。本当に大変なことが起きていると。

誰もがいろんなことを感じたと思うのですが、僕の場合、今でも続いているのは強い“後ろめたさ”のような感情なんです。たぶん、あの時みんな感じたんじゃないかと思うんですが、自分が被災者でなかったことの後ろめたさ。あるいは被害にあったのが自分の住んでいる場所ではなかったことにほっとしてしまうような後ろめたさ。「自分があそこにいてもおかしくなかった」「私があなただとしてもおかしくなかった」といったような紙一重な状況で、それなのに自分はエンタメ映画をつくっているという後ろめたさ。

仕事を辞めてボランティアに行った人もいれば引っ越した人もいるし、本当にいろんな人の人生、そして社会を変えたんだと思うんです。だけど僕は変わらず、結局アニメをつくり続けていて、当事者ではない後ろめたさがずっと続いていたんです。

でも、ずっとそういう気持ちが常に低いところにとどまるような気持ちを抱えたまま仕事を続けるというのは、僕だけじゃなくて誰にとってもなかなかきついことですよね。だから僕は、たぶん割り切ってしまったと思うんです。自分はアニメをつくること以上に上手にできることは、ほかにどうもなさそうだと。だとしたら、この先時間がかかってもいいからエンタメでしかできない、今回起きた出来事に対しての自分なりの関わり方というものがあるんじゃないか。そういうふうに思いました。

災害や被災者に寄り添うというような言葉にすると、きれいごとも混じってしまうなとも思うんですが、少なくとも自分たちのやっている仕事にも、なんらかの意義めいたものがあるんだというふうに信じたいですよね。自分たちの仕事に意味や意義があるということを確信できるような作品づくりをしたいというふうに、あのときに思ってつくるものを変えようと思ったんです。それが、2016年の『君の名は。』という映画につながっていきましたし、そのときの感情の自然な延長線上に『すずめの戸締まり』もあります。

――『君の名は。』『天気の子』では、『すずめの戸締まり』ほどストレートには描いていないと思うんですが、この変化は何なんでしょうか?

新海誠監督

新海:

毎回毎回、やり直してるような気分はあります。

『君の名は。』という映画は、「もしも私があのとき、あの場所にいたら」という映画をつくりたいと思ったんです。千年に一度、日本に訪れている彗星があって、その彗星の災害によって町が消えていくという話で、それはやっぱり千年に一度の地震と言われた東日本大震災を明確にイメージしてそのメタファーとして描いていたんですが、映画の中で描きたかったのは、自分の感じた当事者ではない後ろめたさ。

瀧という少年が出てくるんですが、彼は東京に住んでいて、3年前に起きた彗星災害のことをほとんど忘れている。夢の中で女の子と入れ替わっていて、わくわくするような毎日を送っていくんだけれど、その子が実は3年前にその災害で亡くなっていたということに気付いて、ああ、あの災害だったんだということに、そこで初めて思い至るわけですよね。

新海:

「もしも私があなただったら」という、自分が被害の当事者だったらと考えたことを、アニメーションの中でそのまま描きました。そして、もしも私があなただったら、やっぱり起きた出来事を止めたいと思う。だから、映画の中では千年に一度の彗星災害は止められないから町は消えるわけですけれど、でも死は避けられるわけです。

映画の中で、生きていてほしかったという強い願いをそのままに描いたつもりだったんです。だけど、死者がよみがえることなんか現実には起きないから「災害をなかったことにする映画である」「大変に非倫理的な作品である」という批判ももらいました。腹も立ったんですけれども、ある人にとってはとても不愉快なものにとらえられたというのが自分としてはとてもショックで。自分は映画のつくり方が下手だな、と。もっとうまくつくろうというふうに思いました。

――それが『天気の子』に。

天気の子

新海:

『天気の子』は、全員が当事者である話をしたいと思い『君の名は。』とはまた違う形で描こうと気候危機の映画にしました。気候危機というのは、誰もがその危機のうっすらした原因であり誰もが被災者になりますよね。

とてもよかったとか、感動してくれたというふうに言ってくれる方もいるけれど、やっぱり当然ですが批判もありました。「なんて不愉快な映画だ」「感情移入できない。自分勝手じゃないか」と。

それで、ショックもそれなりに受けるわけです。僕は登場人物をなんとか愛してもらおうと思って映画をつくったのですが伝わらず、やっぱり自分は相変わらず映画を作るのが下手なんだなと。毎回そんなふうに映画をつくり終わると、駄目だった下手だったと思い、次こそはうまくつくろうと思っています。

はじめは震災がテーマではなかった

新海:

『すずめの戸締まり』をつくろうと思ったときに最初に考えたのは『君の名は。』や『天気の子』の語り直しという動機ではありませんでした。最初にやりたいと思ったのは、今の日本を舞台にしたアニメーションならではのわくわくする冒険活劇をつくりたいと思ったんです。ロードムービーにしたいなと。

新海:

じゃあ、どういう旅が今の日本でできるんだろうと考えていったら、わくわくする新しい世界が広がっていくという発想がどうしてもできなくて。日本はこの先はどうしたって人口減少が待っていて、経済も少なくとも中短期的には小さくなっていきますよね。

なので、今のこの日本を移動していく話にしようとしたときには「この場所はかつてはこういうものがあったんだよ」「かつてはもっと人がいたんだよ。かつてはにぎやかだったんだよ」という世界しか描けないなというふうに思ったんです。かつてにぎやかだった場所の、そこにあった声とか生活のことを想像しながら旅をしていくというのが、今つくることのできる冒険ものなのかなというふうに考えました。

じゃあ、どこの声を最後に聞くんだろうと考えたときに、東北以外だと物語にならないと思ったんです。そのときに、結局ずっと同じことを考え続けていたんだなということに気付き、その上で全力のエンタメをつくろうというふうに思いました。

誰も傷つけないような映画づくりでは、誰の心も動かせない

――新海さんなりの、ずっと心にあった後ろめたさみたいなものと向き合いながらできた作品ということですが、今回はつくってみて納得されましたか?

新海誠監督

新海:

いや。どうでしょう。たぶん後ろめたさは、何をつくってもずっと消えないと思うんですよ。そもそも、つくっていくと消えていくようなものではないような気がします。じゃあ埋まらないから黙っていればいいのかとか、誰の心も傷つけないような映画づくりをすればよかったのかというと、やっぱりそれも違うというふうに、どうしても思ってしまうところはあります。

何かをつくって発信すること自体が、どうしたって暴力性を帯びるわけです。誰かの気持ちを強く揺すぶってしまう、たたいてしまうという。それが小説だろうが映画だろうが、何だって暴力性があって、それはものをつくるということから切り離せないと思います。

僕たちは何かを感じたいから映画を見るのであって、感動したい、心を動かしてほしいから見る。だとしたら、誰も傷つけないような映画づくりをするということは、誰の心にも触れないように、注意深く心の一番痛がるかもしれないところには近づかないことだと思うんですよね。だけど、全部回避して距離を取ってつくれば傷つけないかもしれないけれども、きっと心も動かせないと思う。

とても勝手な気持ちではありますけど、僕は自分が何かを見たり人と話したりするときは、自分の心を動かしてほしいと思うし、そういうものを見たいと思うので、自分のつくるものも誰かの心を動かすような、力のあるものをつくりたいと思います。

――その思いが、さまざまな批判も受け止めるというところにつながるんでしょうか?

新海:

そうですね。つくりっぱなしというわけにはいきませんから。だけど、誰かに触れたいと思って、つくったらもう知らないというわけにはいかないので、触れたことで何が起きたのかということを、僕はとても知りたいです。

災害に関して言えば、寄り添うとか励ますとか慰めるということが、作品でできるとは思っていないんです。できることもあるかもしれませんが、でも、もうちょっとそれは個人的な行いというか、1対1の関係性でなければ、きっと難しい行為だと思います。だから、映画をつくることで誰かを励まそうとか癒やそうみたいなことは、僕は実は考えていないんです。だけど、共感させるということはできると思うんですよ。感情移入してもらうということはできると。

例えば、2011年というのはもう随分昔のことですから、今の10代、特に被災していない地域の10代にとっては、教科書の中の出来事だと思います。でも、映画を見ている最中は鈴芽になることができるし、教科書の中の出来事だと思っていたことと自分がつながっているということを知ることができるかもしれない。それはもしかしたら、ほかの分野ではできない、エンタメだからこそできる意味のある仕事のような気がします。

――物語の持つ力なんじゃないかという。

新海:

そうだと思います。起きた出来事を物語で考える。最初は事実の記録や記憶であったものが、だんだん物語のかたちになっていって、残って伝えられていくということを、人は1000年、2000年繰り返してきた。

どの国も建国の神話のようなものを持っているし、あらゆる場所にその成り立ちの神話のようなものがあるわけです。起きた出来事が物語を生んで、そこに事実じゃないヒーロー的な要素も加わったりとか、エンタメ的な要素も加わったりしつつ、それでつなげていくのが、人間の持っている心のかたちだと思います。それが神話ですし昔話ですし童話ですし、人はそういうものを読んで育っていきますよね。

だったら、エンタメにしかできないことがあるだろうと思いたいですし、信じています。何を言われても、それが僕たちの仕事なんだと思います。

新海さんが影響を受けた作家たち

――新海さんが制作する上で、幼少期から影響を受けている本があるということですが・・・

新海:

『ピラミッド帽子よ、さようなら』という本です。僕が小学校4年生か5年生のときに、たまたま図書館にあって手に取った本で、日本の団地に住んでいる男の子が主人公で、不思議な少女と出会ったりして、地下にある世界に旅立つ。わくわくしながらずっと読んでいったんですけれど、途中で終わっちゃうんですよ。作者の乙骨淑子さんという方がご病気で亡くなってしまったので、未完なんです。

これだけ面白い話を書いていて、でも、途中でそれが途切れちゃうなんて、どんなにつらかっただろうと思いましたし、何よりこの先の話は本当はどうするつもりだったんだろう、読みたかったなとずっと思っていて。その感情が、自分に物語をつくらせ始めたんだと思います。

――今回、『すずめの戸締まり』が、村上春樹さんの『かえるくん、東京を救う』と通ずるものがあるという声も届いていると思います。新海さんにとって、村上春樹さんというのはどういう存在ですか?

新海:

僕に限らず、日本の漫画やアニメ・エンターテインメントに与えている村上春樹の影響というのは、本当に巨大だと思います。

今回の映画の中で、災害の元となる現象として、扉から噴き出てくるミミズという存在があります。ミミズのモチーフには、江戸時代まで日本人が地震を起こすと信じていたナマズや、もっと昔の日本の地図で描かれる、龍のような生き物の上に人が住んでいるという世界観における長い生き物というものがあるんですが、ミミズというネーミングは『かえるくん、東京を救う』に出てくる新宿の地下にいる地震を起こす「みみずくん」と「かえるくん」が戦い、かえるくんが東京を大震災から守るという物語なんですが、そこから影響を受けています。

村上春樹がうまいなと思うのは、「みみずくん」とか「かえるくん」というネーミングですね。しかも、新宿区役所の地下にいると。僕たちの生きている世界と地続きの世界でありながらも、どこか寓話として、それこそ神話の想像力で物語を紡いでいるような気がします。人間というのは、起きた出来事を物語にしていく機能がある、そういうことをやっている作家だなと思います。これがみみずくんじゃなくて龍とかだったら、僕たちが受ける印象がだいぶ違うと思うんですよ。

――ちょっと遠いものというか。

新海:

そうですね。ハイファンタジーというか、少し遠い物語になっちゃうような気がします。でも、それがみみずくんとかえるくんだからこそ、何か隣にあるものとして読むことができる。そういう、村上春樹のうまさみたいなものを学びたいと思っているところは、すごくあります。

新海さんが思うエンターテインメントのちからとは?

――最後に、新海さんにとって、エンターテインメントの力とは、どういうものだと思いますか?

新海誠監督

新海:

エンターテインメントの力は、共感させること、感情移入させることだと思います。誰かに共感するとか感情移入するっていうのは、すごく不思議な力だと思うんですよ。なぜ僕たちは誰かに共感できるのか。一番強く生きていくのであれば、誰かに共感したり感情移入したりせずに、自分にとって有利な目標に向かって真っすぐ自分のためだけを考えて歩いていけばいいのに、僕たちはそれができないわけです。だから、共感や感情移入が人間社会をちゃんと社会のかたちとしてキープさせ続けている、ぎりぎりの要石のようなものだと思います。

エンタメっていうのは、その能力を発揮させるし、使うための訓練にもなるし育むこともできると思うんです。荒唐無稽な漫画、アニメ、映画、物語でも、僕たちはそのキャラクターになることができるっていうのは共感の力ですよね。この映画を見て、観客が鈴芽になることができたとしたら、すごく大それた話ですけど、少しだけ社会の空気が吸いやすくなるというか。人が人に共感することが増えると、その分だけ社会は寛容になるわけじゃないですか。

あの人がわがままで許せないとか、あんな行いは厳罰に処すべきだとか、いろんな不寛容がありますが、あいつはなんであんなことをやったんだろうとか、少しだけ想像をめぐらせてその人に自分がなってみたら、もしかしたらその人なりの正義があるかもしれないし、その人なりに大切なものを守るためにやったのかもしれない。共感って、そういうことを想像させる源だと思うんですよね。

エンタメは、面白ければ面白いほど、人が共感する力、感情移入する力というのを引き出すことができると思うんです。だから『すずめの戸締まり』も、まずは大前提として、ものすごく面白い映画にすることを目指しました。引き込めば引き込むほど、観客が鈴芽になることができると思って。大それているかもしれないですけど、面白い物語をつくることが、社会から不寛容を少しだけなくす。息が吸いやすくて隣の人のこともちょっと分かるというような社会にするために、少しだけエンタメができることがあるような気が僕はしています。

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