沖縄本島中部の町コザ。現在の沖縄市の中心部です。街のすぐ近くには“極東最大のアメリカ空軍基地”、嘉手納基地があります。
沖縄が本土に復帰した50年前はベトナム戦争の最中で、いま以上に街には多くのアメリカ兵が繰り出していました。
当時のコザの様子をバーチャル空間に再現するとともに、街の様子をご紹介します。
目次
・“基地の町”コザ
・“コザ暴動”とは?
・2022年のコザ
“基地の街” コザ
(復帰当時のコザ)
今回、VR空間に再現したのは、当時「B.C Street (ビジネス・センター通り)」と名付けられ、栄えていたセンター通り。現在は中央パークアベニューと呼ばれています。
(VRで再現した復帰当時のコザ・B.C Street)
当時、アメリカ兵相手のバーなどおよそ150店が立ち並んでいました。
「一夜の稼ぎで家が一軒建つ」と言われるほど売り上げがある店もあったということで、アメリカ兵を呼び込むため、それぞれの店がきらびやかなネオンを競うように掲げていました。
「コザ」という名前の由来は、沖縄市史によりますと、沖縄を占領したアメリカ軍が、地名の「胡屋(Koya・こや)」をコザ(koza)と読み間違えた可能性などがあるそうです。
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街にお金が落ちている!?
当時のコザでは、道のそこかしこに、お金が落ちていたと言われています。
「戦地に行ったらいつ死ぬかわからない」という死と背中合わせの状況で、アメリカ兵は沖縄で湯水のようにお金を使いました。
たくさんのアメリカ兵が街に繰り出した翌日には、子供たちは朝早く起きてお金を拾いに行ったそうです。
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給料日前にアメリカ兵が駆け込んだ“質屋”
(復帰前、質屋だった店でいまも持ち主の帰りを待つアメリカ兵の指輪)
B.C Streetには10軒以上の質屋があり、月2回あるアメリカ軍の給料日の直前には多くの兵士たちが立ち寄りました。
預けていた物の中には、部隊番号が刻印された指輪などもありました。大切な身の回り品を預けそのお金で飲みに行ったそうです。
店ではいまも、兵士が預けた品物の一部が主の帰りを待ち続けています。
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ステーキ文化の発祥地 “ニューヨークレストラン”
(VR空間に再現したニューヨークレストラン)
沖縄の食文化の一つとして親しまれてきた「ステーキ」。発祥の一つがコザにあります。
それが“ニューヨークレストラン”です。
アメリカ兵に人気の店で、店主によれば一番注文が多かったのは300gのステーキです。
月に2回ある兵士の給料日などには1日2000ドルと、当時の沖縄の人の年収の2倍を1日で稼ぐこともありました。(※1970年度の沖縄県民1人あたりの年間所得は約960ドル)
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アメリカ兵と沖縄の女性をつないだ“翻訳屋”
コザで人気のお店がもう1つ。それが「翻訳屋」です。
基地関係の提出書類など“堅い”翻訳も多かったそうですが、意外にも若い女性が駆け込むことも多かったそうです。
彼女たちが持ち込んでいたのが「ラブレター」でした。
今回の取材で恋愛関係の手紙27通が見つかり、文面からは少しでも早く思いを伝えたい様子が浮かび上がりました。
(取材で見つかったラブレター27通)
一方でトラブルもありました。
交際していたと思っていたのに突然消息がわからなくなったり、本国に妻子がいることがわかったりしたことも。
沖縄県には、いまも国際結婚の相談窓口があります。
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“コザ暴動”とは?
1970年12月20日。コザで、人々が80台以上のアメリカ軍関係者の車に火をつける事件が起きました。きっかけは、アメリカ兵の運転する車が沖縄の住民をはねた交通事故でした。
(“コザ暴動”翌日の燃えた車両)
当時沖縄では、アメリカ兵などによる刑事事件が年間1,000件以上も起きていましたが、沖縄の警察には捜査をする権限がほとんどありませんでした。
“コザ暴動”の3か月前、酒に酔ったアメリカ兵に女性がひき殺されましたが、容疑者が無罪になるなど、住民の不満は限界に達していたのです。
「参加したいけど、できなかった・・・」
(宮永英一さん 左:復帰当時 中:アバター 右:現在)
当時、コザで音楽活動をしていた宮永英一さんは、ライブの帰りに“コザ暴動”を目撃したといいます。宮永さんは、日頃のアメリカ兵が起こす犯罪などにやりきれない思いを抱えていましたが、“コザ暴動”に参加することはありませんでした。
もしも暴動に参加して騒ぎが大きくなると、アメリカ兵に外出禁止令が出て、暮らしに大きな影響が出るかもしれない。自分だけならまだしも、自分の身の回りの人たちの仕事はどうなるのか。
そうしたことが頭の中をぐるぐると回り、結局は参加できなかったそうです。
基地に依存しているために、声をあげづらくなっていた環境そのものも、アメリカ統治を終わらせたいと思う理由の一つになっていったといいます。
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2022年のコザ
本土復帰後、1975年にベトナム戦争が終わり、アメリカ兵は減りました。沖縄市センター商店街振興組合によると閉店する店も相次いだといいます。
しかしいまも嘉手納基地は残り、夜になると街に繰り出すアメリカ兵の姿を見ることができます。
沖縄市にはおよそ40の国の出身者が住んでいるといわれ、ネオン看板やアメリカ兵相手の飲食店があるだけでなく、タコスなど外国由来の料理を出す店も多く見られます。
さらに近年は異国情緒あふれる風景を写真に残そうという人もいて、ウェディングフォトのスポットにもなるなど、人気を集めています。
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