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「ママは親以上の存在」泉ピン子さんが語る 脚本家・橋田壽賀子
NHK
2021年4月21日 午後6:08 公開

「おしん」や「渡る世間は鬼ばかり」など、数多くのテレビドラマを手がけた脚本家の橋田壽賀子さんが、4月4日、95歳で亡くなりました。橋田さんのことを「親以上の存在」と語り、その最期をみとった俳優の泉ピン子さんに橋田壽賀子さんへの思いを伺いました。

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(4月4日、自宅で息を引き取った橋田さん。その最期を泉ピン子さんがみとった)

最期は眠るように

―泉さんは、橋田さんを一番近くで見てこられたと思います。

泉 ピン子さん: ええ。本当は取材も受けず、マスコミには極秘ということが遺言だったんですけど。やっぱり橋田寿賀子っていう人はすごいんだなって、改めて、みんな放っておかないんだなと思いました。お葬式もしないということばを聞いたときは、意外でしたね。人と会うことがとても好きでしたから。「面倒くさい、面倒くさい」とかって言いながら、取材を受けたりとか、やっぱり人が好き。テレビに出ることも、好きだったんですよね。知らない人と会うこととか、そういうことも好きですね。

最期は眠るように亡くなりました。本当に、ああいう亡くなり方がママ(橋田先生)の希望だったから。私は、よかったんじゃないかなって思います。全く苦しまず、眠るように逝きましたし、「ママ」って大きい声で叫んだときに、目をぱって開いて、こっち見て、それで目をつぶってましたから。あれが最期なんでしょうね。

よく、最期にそういうことがあるって聞いていましたけど、ああ、そうなんだって。

それで先生の親友の方がいるんだけど、その方と私に、医師が「管をどうしますか」と。このままずっと何時間も点滴をしていますか、と。息が浅くなってきていて、点滴の入りも、もう悪い。だから、点滴を取るか、どうするかみたいな選択肢を出されたとき、その友達と「頑張ったし、もういいよね」って。

病院もいつも一緒に

泉さん: ママが手術するたび、私がついて行って、手術台に入ってるときに、私はママのベッドで寝るんです。すると、看護師さんに「そろそろ患者さんが手術室から戻るから起きてください」って言われて。それから、ママがよくなると「あんた、人のベッドで寝てたんだね」って言われて。そりゃそうでしょう。朝が早いと眠くなっちゃうから、あの人のベッドで寝ますよ。

それで、胆のう取ったときも「見ますか?」って言うから、手術が失敗してたらいけないと思うから見たら、あの人の胆のうから湯気が出てたって言ったら、大笑いしてましたけど。だから、本当にね、長い、本当に、長い付き合いですね。何もかも。

(3月上旬に)東京の病院から熱海の病院に行って、それから東京の病院の検査入院をして。そして、また熱海に戻って。病院を退院したのが4月3日で、翌日の4日に亡くなったんです。

「うちに帰りたい、帰りたい」って、東京の病院に行ったときに「手当てしてくれないで、そのまま私は逝きたかった」とか「亡くなりたかったんだ」とかって言ってましたね。「おうち帰りたい」って。うちが一番なんですよね。

(病院では)私が一方的にしゃべっていました。「舞台うまくいってよかったよ」「あなたの書いたせりふは、毎日同じ舞台で演じても出てこない」とかさ。私が「本当に(せりふが)長い」とか「橋田長子」って言うと笑ってたりとか。

以前は、返事がぽんぽんと返ってきて漫才みたいな会話だったんですけど、今回はそれが途切れ途切れになり、私が一方的にしゃべってたっていう状態でしたね。だから、そのとき正直、そんな長くないかなって。もちろん、長く生きてほしいと思ったけど、でも、駄目だったら、最終的には、私は大好きなおうちで思っていました。

(大河ドラマ「おんな太閤記」昭和56年放送)

原体験は「戦争の恐怖」

私がすごいなと思ったのは『おんな太閤記』です。今まで大河ドラマって、戦があって合戦の場があるのに、合戦の場をワンシーンもつくらないで、要するに女側から見た男の戦を描いた。「なぜ戦をしなきゃいけないんだ」っていう。

「残されるのは女だろう」って、戦で男が亡くなっていく女の悲しみとかっていうのを書いたのは、橋田寿賀子じゃないですか。それはすごいと思いますよ。

『おんな太閤記』のディレクターとけんかしていました。男だから、合戦の場所が欲しいから、自然とワンシーン入れちゃったんですよ、台本にないのに。そしたら、「合戦なんかして」って、めちゃ怒っていました。

先生が伝えたかったのは、平和だと思います。先生は、戦争は絶対駄目だって言っていました。戦争ほど怖いものはないって。平和でなければいけないって。

「合戦なんかくだらない。そんな戦なんか書かなくたって、どうにだってドラマ書けるだろう」っていうのが、あの人の心情じゃないですかね。

戦争の経験が自分にある。自宅まで焼野原になったという思いが。「胸に青酸カリを入れていた」って言っていました。「戦争負けたときに、この青酸カリで死ななきゃいけないんだ」と思っていたと。

(NHK連続テレビ小説「おしん」昭和58~59年放送)

おしんで描いた理想の人間像

泉さん: いつも辛抱しているのは、おしんじゃないですか。口減らしの為に、女の子は野麦峠に行っちゃったり、例えば、おしんみたいに子守に出されたりとか。貧しい中で、へなへなっとならないで、その逆境をバネにして生きていくっていうのがすごいんじゃないかなあと思いますね。そういう貧しさの中の強さ。

「こうでありたい」という人間を書いているんじゃないかな。

「こうやったら強くなるぞ」って。あの人の中に持っていたものなのかなあ。

男社会の中で、松竹という脚本部の中で「自分はいつも犬の散歩ばっかりさせられて、後はお手伝いさんみたいになんか洗い物したよ〜」って、お使いに行かされたり、とても脚本家の先生たちの弟子仲間に入れてもらえなかったそうなんですよ。

女だから、そういう理不尽があったんじゃないんですかね「女だって対等にやっていけるんだ」っていう思いがあったんじゃないかなって思います。

(食卓で執筆する橋田壽賀子さん)

“二流”だから描けた 橋田壽賀子の世界

泉さん:私に書斎は似合わないよって。あの人、食堂のダイニングテーブルで書いていた人ですから。デスクなんかないですからね。

「書斎みたいなところで庶民のドラマは生まれない」って言ってましたよ。

そして、「二流でいいの」って言ってましたね。一流じゃないっていうことは、自分で言い続けてましたから。

「あんたね、二流だから、私はいいと思ってんの。二流だから書けるんだ」って。

食事のときは、原稿をちょっと上のほうに片付けて食事して、それで、また書いたりとか。だから、夜はいつもそうね、遅かったですね。

橋田先生は、作家として1人で書いてきた。私達は、何人かで手分けして、その先生の作品を作り上げるんですけど、たった1人で孤独に書いてらっしゃった。

だからそれを思うと、すごい人だなって。

(橋田さんと泉さん)

泉さん:あんまり近すぎて、そういう目で見たことなかったけど、今回、亡くなってみて、やっぱり、すごい人だったんだなって思いますね。いろんなこと教えてもらったなって思うし、やっぱり感謝ですね。私がもう70だからもうそろそろ仕事も辞めるかって言うと、「90の私が書いているのに70のあんたが辞めるって生意気だから仕事しろ」って言われていましたよ。

今思うと、私がばかなこと言ってても、ふと冷めた目のときがあるんですよね。ふっと素になって人を観察して見てるというか。人と話してても、ふんふんって言ってるけど、全然違うことを考えてるなとか、違うところを見てるなとか。そういうとき、一つの種があって、その種をどう実にしていくのか、そういうふうに思ってるんじゃないかと。ああいう人は、もう出てこないでしょうね。

親以上の存在だった

泉さん:私の主人が「本当に寂しくなっちゃったね」って言って、先生がいてくれて私達夫婦の間に、入ってくれたり、助言してくれたり、公私ともに大きい存在だったんなって思いますねえ。

亡くなって、すごく悲しかったのは、ママ(橋田先生)のリビングのところに黒板みたいなものがあって、そこに「ピン子」って書いてあって、携帯番号と自宅の電話番号が書いてあったんです。いつでも電話をかけられるように。「忘れないように書いていたんだな」と。だから、そういう意味で「もう、ママから電話ないんだな」とか思ったり。愚痴を言ったり、「悔しい!あんちくしょう」って思った時に、必ず私ママに電話しますから。「あんた聞いてよ。これどう思う?」とか言うと、「生意気だね」とかって、一緒になって怒ってくれたり、泣いてくれたりしてましたから、だからそういう本当に味方がいなくなっちゃったなって。親以上の存在かな。

母親であり、友達であり、理解者であり・・・。「うるさいババアだ」とかってよく言っていたけど、本当に、もういないんですものね。喋りたくてもねえ。本当に、これからじゃないかな。寂しくなるのは。まだ・・・まだいますから。自分の中に。