親の死に気づかない…”同居孤独死” いま何が? 作家・重松清さんインタビュー

クローズアップ現代+「同居孤独死」取材班
2021年4月13日 午前10:52 公開

子が親の死に気づかず、気づいたあとも放置し続け逮捕される事件が相次いでいます。家族などと同居していても気づかれないまま亡くなることは“同居孤独死”とも呼ばれ、4月13日の「クロ現プラス」では、当事者の告白を元に詳細を伝えました。また、番組では『ビタミンF』や『とんび』『流星ワゴン』などの作品で知られ、家族をテーマにした小説を数多く手がける作家・重松清さんと、日本社会や家族に何が起きているのか考えました。そのロング・インタビューです。(2021年4月1日 対談)

子が同居する親の死に気づかず、その後も放置し続けた、衝撃の事件

井上裕貴キャスター:去年、70代の父親が病死したことに、同居する40代の息子が気づかなかったケースがありました。この息子は2か月ものあいだ父の死に気づかず、気づいたあとも4か月間放置し続け逮捕。この親子に起きた出来事をどう受け止めましたか。

重松 清さん(以下、敬称略非常にやりきれないものを感じ、色んな不運が一点で重なり合って生まれてしまった悲劇だと思うのですが、2つの段階があったと思います。

重松:ひとつは、なぜお父さんが亡くなっているのに気づかなかったか。もうひとつは、それがわかったあと、なんで放っておいたんだろうということ。この2つの問題が含まれていると思います。

重松清さん

重松:最初になぜ気づかなかったか、これは“生活時間帯がずれていたこと”がすごく大きいなと思うんです(※父親は警備員のアルバイトを、息子はドラッグストアの店長として働いていた)。例えば僕が母親と一緒に生活するとなったら、自分には自分の生活のリズムがあるし、おふくろにはおふくろの生活のリズムもある。そうなると、「自分の生活のリズムに合わせてくれ」とは、なかなか言いづらいんじゃないかと思うんです。1つ屋根の下だけど2つの生活があって、なかなか交じり合わない。すごくいいときは、おじいちゃんおばあちゃんの生活も大事にして、あえて介入しない、お互いに自由に過ごす。ところがこういう不幸が起きると、「なんで子どもが一緒に住んでいながら気づかないんだ」と言われてしまう。意識して「元気なのかな」と気にかける、“生存証明”のようなことを意識しなければ、同じように親の死に気づいてあげられなかったという不幸は増えてしまうのではと思います。まだ元気で、自分の身の回りのことができる親御さんに対して、“自由にやらせてあげるのが親孝行”というのが、裏目に出てしまうこともあるんじゃないかと思う。

井上裕貴キャスター

井上:私は今回の事件について、父親の死に気づかなかったこともさることながら、4か月放置していた事実に衝撃を受けました。どうして、という思いが湧いてしまいました。

重松:具体的な事件の経緯をそのまま見ていけば非常に特殊に思えますが、僕は息子さんが取材に対して、お父さんの死を「割り切った」「シャットダウンした」という言い方をしていたのが耳から離れなかった。シャットダウンして仕事を続けて(※息子はコロナ禍、ドラッグストアの店長を務めていた)、仕事の合間も現実逃避のようにキャンプして、ずっと見ないふりをしてきてというのが、お父さんが亡くなったという極端な例だからびっくりするけど、似たような思いは僕にも、どこかあると思うんです。忙しさのなかで「この話はもう考えずにおきたい」というような。息子さんは新型コロナの一番パニックになっているときにドラッグストアの店長さんとして働いていて、激務だと思うし、しかもお客さんの問い合わせやクレーム含めて、消耗しきって、シャットダウンがたくさんあって、そのなかで一番大事なものまでシャットダウンしてしまった感じがするんです。いろんなもののタイミングが、最悪のだぶり方をしてしまった事件なんだけど、1つ1つは僕たちにも単発で起こりうるだろうし、僕たちも持っているものかもしれない。

息子と同居していた70代の男性が病死していたマンションの一室

家族の死を弔う。その“底力”が弱くなっている

井上:もし自分の家庭で“同居孤独死”が起きたら、身内や世間から批判される恐怖を感じるだろうと想像しました。

重松:僕たちのなかには、家族の死を看取る・弔うのは最低限の責任、成すべきことだという大前提があります。だからこそ、それができなかったとき、周囲から責められてしまうと感じるんでしょうが、一方で僕たちは家族が亡くなったとき、こうすればいいという知識や体験が、本当に少ないと思うんです。事件の息子さんもインタビューの中で、「火葬や葬式のお金がなく困った」と話していています。しかも「火葬費用は自治体が出してくれると知っていれば、お願いした」とも話しています。知らなかったことで、父の死に気づいても放置するという不幸の連鎖を生んでしまった。

重松:もし病院で亡くなったら、病院のシステムのなかで、いわば流れ作業として対応してもらえるけれども、もし自宅で亡くなり、かつ、相談する家族もそばにいなくて、近所に相談できる人もいないとき、どうすればよいか……。人が死ぬ、親が亡くなることに対して僕たちは本当に弱いんだと思う。事件の息子さんも、きょうだいはいたけど遠くに住んでいて、結婚して子どももいるからなかなか相談もできなかったと話していた。残された家族、弔いをしなければいけない側のもっている底力みたいなものが減ってきている。減ったなかで、僕たちは生きているんだと思う。

井上:確かに、相談できる人が近くにいない、地域の人とのつながりが薄いというのは、私自身も感じています。

重松:弔う側の底力が弱まっている、相談する人が周りにいない人が増えているという前提で、自治体も含めて考えてほしいなと思うんですね。1人暮らしのお年寄りに対するケアは、昔よりは、ずっと進んだと思います。1人暮らしは本当にわかりやすく1人ですからね。しかし2人暮らしでも、もしかしたら1人暮らしが2つ、たまたま1つ屋根の下にいるだけかもしれない。社会のなかにある「家族が一緒にいるんだから大丈夫だろう」という“丸投げ感”というか、“安心感”は、今そこにすがりすぎてしまうと、同じような同居孤独死は今後も起こりうるんじゃないかと。

井上:子どもの目線からみれば、仕事をこなしながら高齢の親の面倒をみる、というのはかなりの負担を感じますし、助けを得にくい環境だったらどれほど孤独だろうと想像します。

重松:今いろんな週刊誌などでもやっている「終活」、その特集を見ても、“子どもの世話にならない”とか、子どもに迷惑をかけない意識がベースになりつつありますよね。それでも、死ぬまでは自分の責任でやっても、最後、骨は残るわけで、自分で自分の骨を拾えないわけで、誰かが拾わないといけない。そのときに限って子どもの世話になるなど、なるべく迷惑をかけないようにという流れは今後も強くなっていくと思います。僕もそう思いますから。

同居孤独死は、何を社会に問いかけているのか

重松:“家族が一緒に住んでいるお年寄り”という、外から見たときのかたちに、無根拠な安心感をもっちゃいけないと思う。1人暮らしでも、すごく周囲とつながっている1人暮らしもあれば、いいわね、息子さんと2人でと言われながら、実は家の中でもつながっていない人もいるわけだし、実は密かに、孤独を感じているかもしれない。一緒に暮らしたから孤立が解決されるのではなく、そこから始まるものもいっぱいあるだろうなと。

重松:僕たちはいろんなものを見て見ぬふりとか、先送りしながら生きているけど、それでも最後の最後に先送りできないものがあるわけで、それがたぶん、人が亡くなることだと思います。そして、人が亡くなって、いなくなるのではなくて、そこに亡骸(なきがら)が残るわけです。それは見て見ぬふりはできない。見て見ぬふりはできないから、“一緒に見ていてあげます”というものが、社会でつくれればいいなと思う。

重松:一方で家族はもう力を持っていないから、頼りにならないとは絶対に思わない。ベースにある家族というものは大事だと思うから、そこにサポートがあればいいと思うんです。日本では昔から「ひとさまの家の話には首を突っ込まない」みたいなものがあったけど、それが結果として子どもの虐待などを生んだりした。同じように、老いと死をどう見守るかというのも、サポーターというか、足が弱ってきたらステッキを突くように、力が弱くなったら階段に手すりをつけるように、何か“手すり”に当たる存在があったらなと思う。力があるうちは、手すりを持たなくてもいいわけです。それでも、そこに手すりがあるんだというのが見えるだけでも、安心感がありますよね。例えば家で家族が亡くなった場合、お葬式の費用がないときに、自治体がこういう助成をやっているんですよと知識として持っておくのも手すりになると思う。家族は大切だけれども、万能じゃない。それを前提に考えていきたい。