詩人・茨木のり子 亡き夫に向けた39編の“恋文” 詩集「歳月」に込められた思い

NHK
2022年1月12日 午後1:46 公開

その詩集には、亡き夫への“恋文”が39編も収められています。

 

みんなには見えないらしいのです

わたくしのかたわらに あなたがいて

前よりも 烈しく

占領されてしまっているのが

(「占領」)

 

日本を代表する詩人の1人で、今も幅広い世代の共感を呼んでいる茨木のり子(1926-2006)。先立たれた夫への思いをしたためた詩は、生前、編集者にも見せることなく書きためられ、亡くなった翌年に詩集「歳月」として刊行されました。

親交のあった人々へのインタビューと残された日記からは、“恋文”にまつわる茨木のり子の新たな魅力が浮かびあがってきました。

(クローズアップ現代+取材班)

 

 

「Yの箱」にしたためられた夫への恋文

「Y」と記されたクラフトボックス 中には詩が残されていた

 

詩集「歳月」の初版が刊行されたのは2007年2月17日。茨木が亡くなった翌年の命日でした。収録された39編の詩は、すべて最愛の夫に向けてつづられています。

 

歳月

 

真実を見きわめるのに

二十五年という歳月は短かったでしょうか

九十歳のあなたを想定してみる

八十歳のわたしを想定してみる

どちらかがぼけて

どちらかが疲れはて

あるいは二人ともそうなって

わけもわからず憎みあっている姿が

ちらっとよぎる

あるいはまた

ふんわりとした翁と媼になって

もう行きましょう と

互いに首を締めようとして

その力さえなく尻餅なんかついている姿

けれど

歳月だけではないでしょう

たった一日っきりの

稲妻のような真実を

抱きしめて生き抜いている人もいますもの

 

“二十五年の歳月”は、茨木が夫・三浦安信さんと暮らした結婚生活です。

安信さんが肝臓ガンで他界したのは茨木が49歳のとき。亡き夫への思いをしたためた詩は、書斎の棚の「Y」と記されたクラフトボックスに遺されていました。「Y」は夫・安信さんのイニシャルです。

 

 

互いを認め合う夫婦

 

茨木が本格的に詩を書きはじめたのは24歳、結婚した翌年の1950年(昭和25年)のこと。医師として忙しい日々を送る夫を支える傍らで詩作を続けていました。安信さんは詩壇で身を立てようとする妻を認め、その才能を伸びやかに育てようとしてくれる存在でした。

 

宏平さんは、大学浪人時代に故郷の山形から上京し、伯父・安信さんを頼って東伏見の茨木宅に下宿していました。2年にわたり夫婦と共に暮らすなかで、宏平さんは折に触れ、仲睦まじい夫婦を間近に見てきました。

茨木の甥 三浦宏平さん:

「日曜日は安信さんもお休みで家にいますから、リビングにのぞきにいこうとして、ドアを開けて入ると、安信さんはクラシックが好きなんですよね。ソファでゆっくり聴いているんです。少し離れたところに食卓があるんですけど、そこにのり子さんは座って、じっと安信さんを見ているんです。

なんとも言えない雰囲気で、とても入り込めるような状態じゃない。のり子さんは安信さんを本当に一番に思っていたんじゃないかな」

 

大切にしていた生活者としての日常

(茨木のり子が残した日記)

 

生前メディアに露出することを避け、その素顔をほとんど晒すことのなかった茨木。書斎に遺されていた日記には生活者としての何気ない風景が綴られ、日々の暮らしを大切にしていた様子がうかがわれます。

庭の草取り、夕飯の献立、吉祥寺や新宿に買い物に出かけたことや、夫の給料日を待ちわびる焦燥感。たびたび出てくるのが「Y」の表記です。

 

“朝日さしこむ居間で、Yとこたつに入りつつ、ゆっくり朝食” (茨木の日記)

 

夕飯の手料理を喜ぶY。午後から土砂降りになり、傘を持たないYのために迎えに行ったこと。庭先にこつ然と咲いたキンモクセイに上機嫌になるY。みずから創刊にも関わっていた同人誌の集まりで深夜に帰宅するとYがにこやかに出迎えてくれたこと。日記からは茨木が夫との生活を慈しむ気持ちが伝わってきます。

 

 

暮らしぶりにも集まる注目

 

茨木のり子が亡くなって16年。

没後は、詩人としてだけではなく、その暮らしぶりにも注目が集まっています。

2010年に長年暮らした自宅の写真集が出版され、2014年には東京の世田谷文学館で企画された「茨木のり子展」に1.5万人が来場。自宅で愛用した椅子や器なども展示されました。2017年には、書斎に残されていた直筆のレシピを再現した献立帖も刊行されています。関連書籍の発行部数は5万部を超えています。

 

『茨木のり子の献立帖』を担当した編集者  織田桂さん:

「茨木さんの日々の献立には忙しい夫においしいご飯をつくって食べさせてあげたいという茨木さんの思いが込められていたと思います。二人の暮らしを本当に大切にされていたのだと感じます。茨木さんが日々を丁寧に生きたように、一日一日を大切に生きることがこんなに素敵なことなんだっていうことを読者の皆さんにも感じてもらえているのではないかなと思います」

 

 

突如断たれた夫婦の日々

 

愛着のある自宅で、多忙な夫を支えながら表現者として充実した日々を送っていた茨木。しかし1975年、最愛の伴侶は肝臓がんで他界します。茨木が48歳のときのことでした。

詩集「歳月」には、当時の心境をつづった詩が収められています。

 

最後の晩餐

 

明日は入院という前の夜

あわただしく整えた献立を

なぜいつまでも覚えているのかしら

箸をとりながら

「退院してこうしてまた

いっしょにごはんを食べたいな」

子供のような台詞にぐっときて

泣き伏したいのをこらえ

「そうならないで どうしますか」

モレシャン口調で励ましながら

まじまじと眺めた食卓

 

昨夜の残りのけんちん汁

鶏の唐揚げ

ほーれん草のおひたし

 

我が家での

それが最後の晩餐になろうとは

つゆしらず

入院準備に気をとられての

あまりにもささやかだった三月のあの日の夕食

 

 

「歳月」が語る、夫亡き日々

 

詩集「歳月」につづられていた夫への思い。それらはすべて、茨木が寡婦となってから書かれたものです。

 

 

朝な朝な

渋谷駅を通って

田町行きのバスに乗る

北里研究所附属病院

それがあなたの仕事場だった

ほぼ 六千五百日ほど

日に二度づつ

ほぼ 一万三千回ほど

渋谷駅の通路を踏みしめて

 

多くのひとに

踏みしめられて

踏みしめられて

どの階段もどの通路も

ほんの少し たわんでいるようで

このなかに

あなたの足跡もあるのだ

目には見えないその足跡を

感じながら

なつかしみながら

この駅を通るとき

 

峯々のはざまから

滲み出てくる霧のように

わが胸の肋骨(あばら)のあたりから

吐息のように湧いて出る

哀しみの雲烟(うんえん)

 

喪失感に打ちひしがれる、うつろな日々。この詩からは最愛の伴侶を失った痛みが伝わってきます。詩集「歳月」には、夫不在の時間が過ぎゆく中で、茨木の心境の変化がうかがわれる詩も残されています。

  

二人のコック

 

憎しみが

愛の貴重なスパイスなら

それが少々足りなかった 二人のコックの調理には

 

こくのあるポタージュにはならず

二十五年かかって澄んだコンソメスープになりました

 

でも 嘯(うそぶ)きましょう

おいしいコンソメのほうが はるかに難しい

そのつくりかたに関してはと

 

 

占領

 

姿がかき消えたら

それで終り ピリオド!

とひとびとは思っているらしい

ああおかしい なんという鈍さ

 

みんなには見えないらしいのです

わたくしのかたわらに あなたがいて

前よりも 烈しく

占領されてしまっているのが

 

 

長年の友人 谷川俊太郎さんが読んだ「歳月」

詩人 谷川俊太郎さん

 

同人誌「櫂」の草創期から晩年まで茨木と親交があった詩人の谷川俊太郎さんは、「歳月」に生前発表された作品からは感じることのなかった、茨木の素顔を見たと言います。

 

詩人 谷川俊太郎さん:

「茨木さんはまじめな人で、詩というものを公のものだって最初から考えていた人なんですね。茨木さんは最初から他者、自分ではない人間のことを考えて書いていたってことがありますよね。なんか自分が全然出てない、きれいごとばっかり言ってるみたいな。

美人なんですけど、女性っていう感じがしなかったね。最初に会ったときから、ジェンダーを超えていたっていう感じがありましたね。印象が変わったのは「歳月」が出てからです」

 

 

詩集「歳月」のなかで、谷川さんの“茨木像”を変えた詩の1つが、「部分」です。

 

部分

 

日に日に重ねてゆけば

薄れてゆくのではないかしら

それを恐れた

あなたのからだの記憶

好きだった頸すじの匂い

やわらかだった髪の毛

皮脂なめらかな頬

水泳で鍛えた厚い胸廓

兀字型のおへそ

ひんぴんとこぶらがえりを起したふくらはぎ

爪のびれば肉に喰いこむ癖あった足の親指

ああ それから

もっともっとひそやかな細部

どうしたことでしょう

それら日に夜に新たに

いつでも取りだせるほど鮮やかに

形を成してくる

あなたの部分

 

 

谷川俊太郎さん:

「少なくとも茨木さんがそれまでの詩の書き方とは全然違う、非常にプライベートな部分をわりとあからさまに出そうとしたっていう、その態度の違いみたいなものがすごく際立っていたんですよね。

『歳月』という詩集で、茨木さんは自分の中の女性性とかそういうものを、てらうことなく出してきたっていうのがすごく僕にとっては一種救いだったような気もしますね。『歳月』があったことで、茨木さんの詩の厚みは増したように思います」

 

 

死別が詩作にもたらした“豊かさ”

ノンフィクション作家 後藤 正治さん

 

Yとの日々を追想した「歳月」によって、残されていた空白の部分が埋められたと考えているのは、茨木の死後、評伝を書いたノンフィクション作家の後藤正治さんです。執筆中、夫の死が茨木に与えた影響について考え続けていました。

後藤さんが、茨木の本格的な読者となったのは、晩年刊行された「倚りかからず」でした。作品に立ち現れる品格は、せきりょう感に裏打ちされていることを、取材を通じて感じています。

 

 

ノンフィクション作家 後藤正治さん:

「寡婦として長く暮らしたことも含めて、困難を背負ってなおかつ姿勢よく歩んでいく、そういう意味では強い人だって言って間違いないと思うんです。

ただ、茨木さん本人の持っている感受性というのは、非常にやわらかくて、脆いような部分もあって、詩を丁寧に読んでいくと、せきりょう感とか、ある種の寂しさみたいなことを書いておられるのがあるんです。

茨木さんの強さというのは、弱さを乗り越えるための『克己心』というか、強さと弱さがまだら模様っていうんでしょうか、だからああいう詩が書けたという気がします」

 

 

亡き夫の存在を心に秘めて

編集者 田中和雄さん

 

最愛の夫を失い、詩人として成熟の階段をのぼっていった茨木。

親交のあった人は、茨木が亡き夫への思いを綴った詩を書きためていることを存命中から知っていました。編集者の田中和雄さんです。

晩年、親交を深めていた田中さんは、茨木の自宅からほど近い、吉祥寺の西洋料理店で定期的に食事を共にしていました。会食中に茨木が口ずさんでいた歌とつぶやいた一言が今も忘れられません。

 

 

編集者 田中 和雄さん:

「安信さんのことを考えては、詩を書くということはなさっていたということはおっしゃっていたので、一編でもいいから見せてほしいと頼んだんですけど、絶対に見せないんです。『それは私が死んでからどうぞご覧ください』と言われましたね。

茨木さんはお酒を少しだけ召し上がるんですが、ワインを飲んで酔いがまわると静かな低い声で歌いだすわけなんです。シャンソンの歌い手で、越路吹雪の『愛の讃歌』。『あなたの燃える手で あたしを抱きしめて ただ二人だけで 生きていたいの』という歌詞なんですが、少女に帰ったみたない顔で歌って、それが終わってしばらく黙っていると、『もう十分に生きたから、死にたい』とおっしゃるんです」

 

「死にたい」と口走ることが理解できず、ずっと心に留めていた田中さん。茨木が他界した後、「歳月」に収録された詩を読んで、当時の茨木の心境をようやく理解できたと言います。

 

急がなくては

 

急がなくてはなりません

静かに

急がなくてはなりません

感情を整えて

あなたのもとへ

急がなくてはなりません

あなたのかたわらで眠ること

ふたたび目覚めない眠りを眠ること

それがわたくしたちの成就です

辿る目的地のある ありがたさ

ゆっくりと

急いでいます

 

 

たどった目的地にあった“小さな奇跡”

甥の三浦宏平さん

 

2006年2月、茨木はくも膜下出血で、自宅で命を引き取りました。なきがらは夫の眠る山形県鶴岡市のお墓に納骨されました。

 

甥 三浦宏平さん:

「お骨を戻したんですよね。のり子さんのお骨と、東伏見の自宅に安信さんのお骨も少し残っていたものですから戻したんです。その時にですね、空がぱっと明るくなったんです。びっくりしました。二人が一緒になれたんだな、会えたんだなというのをすごく感じましたね。これからはずっと一緒にいられるってそんな感じがしましたよね」

 

編集者 田中和雄さん

 

納骨のエピソードを、編集者の田中和雄さんも甥の宏平さんから聞いていました。

 

編集者 田中和雄さん:

「それだけ世界を光らせるくらいの喜びが茨木さんにあって、どういう自然現象なのかわからないけれども、そういうことが起きたんだなということで、嬉しかったですね。死にたいって言っていたのは、本当だったんだと思いました。死ねば、茨木さんが大好きだった安信さんに会えるわけでしょう。まさに彼女にとって死ぬというのは、安信さんとの恋を成就するための通過点だったんですね」

 

 

茨木のり子という生き方について

ノンフィクション作家 後藤 正治さん 

  

深い喪失感をくぐり抜けて詩人として成熟し、亡き夫ととの成就を最後の到達地として79年の生涯を閉じた茨木のり子。

ノンフィクション作家の後藤正治さんは、最晩年に書かれた「行方不明の時間」という詩に、茨木の精神性を見いだしています。

 

 

行方不明の時間

 

人間には

行方不明の時間が必要です

なぜかはわからないけれど

そんなふうに囁(ささや)くものがあるのです

 

三十分であれ 一時間であれ

ポワンと一人

なにものからも離れて

うたたねにしろ

瞑想にしろ

不埒(ふらち)なことをいたすにしろ

 

遠野物語の寒戸(さむと)の婆のような

ながい不明は困るけれど

ふっと自分の存在を掻き消す時間は必要です

 

所在 所業 時間帯

日々アリバイを作るいわれもないのに

着信音が鳴れば

ただちに携帯を取る

道を歩いているときも

バスや電車の中でさえ

〈すぐに戻れ〉や〈今 どこ?〉に

答えるために

 

遭難のとき助かる率は高いだろうが

電池が切れていたり圏外であったりすれば

絶望は更に深まるだろう

シャツ一枚 打ち振るよりも

 

私は家に居てさえ

ときどき行方不明になる

ベルが鳴っても出ない

電話が鳴っても出ない

今は居ないのです

 

目には見えないけれど

この世のいたる所に

透明な回転ドアが設置されている

無気味でもあり 素敵でもある 回転ドア

うっかり押したり

あるいは

不意に吸いこまれたり

一回転すれば あっという間に

あの世へとさまよい出る仕掛け

さすれば

もはや完全なる行方不明

残された一つの愉しみでもあって

その折は

あらゆる約束ごとも

すべては

チャラよ                 

 

くも膜下出血で倒れたとき、茨木は自分を襲った異変が、あの世へとさまよい出る回転ドアの一回転だと感じていたのでしょうか。それは今となっては誰にもわかりません。

せきりょう感を道連れにしながら決して崩れることなく生き抜いたことに、後藤さんは茨木の品格を感じています。

  

ノンフィクション作家 後藤正治さん:

「茨木さんの詩は、そのとおりだなと思う言葉がちりばめられていて、人生のいろんな局面を鮮やかに切り取っていく。それが詩の特徴かなと思うんですけれども、茨木さんのメッセージというのは、『あなた自身であれ』というものだと思うんです。これはどんな時代でも強固に残っていく言葉だと思いますね。

茨木さんの終始一貫しているメッセージも、その中身も、深まりが年々あるんですけれども、そういう意味でも、いったん好きになると繰り返し読みたくなりますね」

 

 

 

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「茨木のり子 ”個”として美しく ~発見された肉声~」(2022年1月19日放送予定)

放送1週間後まで見逃し配信でもご覧になれます。

 

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