「絶え間ない爆撃音のせいで、耳がまだ痛いです」
マリウポリを脱出した65歳になるエレーナ・トモザワさんの言葉です。教師を務め、自らを「楽天的な性格だ」というエレーナさんにとっても、人道危機が続くマリウポリでの日々は地獄のようだったと語ります。過酷な日々を支えたのは、”街を離れた息子にもう一度会いたい“というただ1つの希望でした。
“家にロケット弾があたり屋根が吹き飛んだ“
エレーナさんは3月22日にマリウポリを脱出し、200キロ離れたザポリージャの街に避難しました。
身を寄せたのは、以前私たちが話を聞いた、ザポリージャで支援活動をしているマクシムさんのところでした。
実はマクシムさんはエレーナさんの甥にあたり、ずっと安否を心配していたのです。
ウクライナからの声②マクシムさんザポリージャ原発 “核爆発を覚悟した”
<エレーナさんと甥のマクシムさん(右)>
避難してから2日後。
エレーナさんは「惨状を知ってほしい」とマクシムさんを通じて取材に応じてくれました。
ロシア軍による攻撃が始まった当初、被害が大きくなるとは想像していなかったといいます。
「最初は街から逃げようなんて考えていませんでした。住民には被害は及ばないと言われていて、私はそれを信じていたのです。3月4日に私たちの家にロケットが当たりました。幸いなことに屋根だけが吹き飛び、みな無事でしたが、それからずっと地下室で暮らすことになったのです。ろうそくの光を頼りに隣近所の人と助け合っていました。気温はマイナス10度近くにもなり、私は凍えていました。地下室では横になることもできませんでした」
その後も連日激しさを増すロシア軍の攻撃。
エレーナさんが身を潜めている地下室のすぐ側でも、爆撃が相次いだといいます。
「隣の通りや隣の家も絶え間なく爆撃を受けました。その音のせいで私の耳はまだ痛みます。地獄のような痛みです。あの爆発音をどう表せばいいか、伝える言葉がありません。口を開けると鼓膜が引っ張られるように痛いのです。もう終わりだと感じていました。どうすることもできない、どこに逃げることもできないのです。私はこれまで何のために生き、何のために学び、働いてきたのかと考えました。戦争は本当に愚かです」
“もう1度、息子に会いたい”
地下にこもり、光の見えない状況。
エレーナさんの心を支えたのは何だったのか尋ねると、涙を浮かべて答えました。
「こんなことが永遠に続くはずはないと信じていました。私は毎日、小さなカレンダーに1日目、2日目、3日目と印をつけ数えていました。私を支えた唯一の希望は、もう一度息子に会いたいということでした。息子は戦争が始まる前に出張に出ていて、マリウポリに戻れなくなっていたのです。私はいつも息子があるときふっとやってきて、私を連れて出てくれるのではないか、そう想像していました。それ以外に希望はありませんでした」
電話やインターネットも通じなくなり、エレーナさんは街で避難が始まっていることも知らなかったといいます。
周囲の人から情報を聞き、ようやく避難のためのバスに乗り込みましたが、脱出する道中も過酷なものでした。
「火曜日に避難用のバスが来ていましたが、本当にたくさんの人が集まっていました。子どもや高齢者が優先されたので、私も運よくバスに乗ることができたのです。9時にバスは出発しましたが、人でぎっしりでした。座っているのは、子どもと女性だけです。私は12時間立ち続けました。そしてほぼ30分おきにロシア側の検問所で止められたのです。水もありません。子どもたちは泣き出し、お年寄りは体調が悪くなりました。つらく、地獄のようでした」
マリウポリを出たエレーナさんは、ようやく息子と連絡をとることができました。
軍事侵攻が始まる前、仕事で国外に出張していた息子はウクライナに戻れずにいました。
エレーナさんは故郷の街が壊滅的な被害を受ける中、いったん息子のもとに身を寄せようと考えています。
インタビューの最後に私たちメディアに向けて訴えました。
「書いてください。情報をたくさんの人に届けてください。どんな悲劇が起こっているか語ってください。それが何らかの力になるはずです。誰にもこんな思いをしてほしくはありません。たとえそれが敵であってもです。このような悲劇が2度と起こらないように、できること全てをやらなければなりません」