ウクライナ銅メダリスト"戦争はライバルとの関係も破壊した"【Women@war】

NHK
2022年6月30日 午前9:40 公開

新体操・元ウクライナ代表のアンナ・ベッソノワさんは、オリンピックで2度銅メダルを獲得し、ロシアのカバエワ選手のライバルとしても知られた伝説的な選手です。指導者として渡ったアメリカで祖国が侵攻されたことを耳にし「こんなに泣くことはできないのではないかと思うほど泣いた」といいます。将来を有望視されていた仲間も空爆で命を落としました。それでも強くあろうと前を向くベッソノワさん。支えているのは、新体操の恩師から学んだ「つらさを見せずに戦い抜くこと」という教えでした。

(国際報道2022キャスター 酒井美帆)

両親から送られてくる防空壕の映像に"涙が止まらない"

実は私は中学生のころに新体操をやっていて、キュートな笑顔と躍動感あふれるしなやかな演技を見せるベッソノワさんはあこがれの選手でした。

「ウクライナといえばベッソノワさん」という印象があり、ロシアによる侵攻が始まったと聞いたとき"彼女は今どうしているのだろう"と真っ先に頭に浮かびました。

ベッソノワさんは今ウクライナを離れ、アメリカのフロリダ州で子どもたちのための新体操教室を開いています。

連日ニュースで祖国が破壊されていく様子を見て、涙が止まらなかったといいます。

酒井:ウクライナへの軍事侵攻のニュース見たときに、最初にベッソノワさんのことが思い浮かびました。どのように侵攻のニュースを知り、どんな心境で受け止めたのですか?

ベッソノワさん: ほかの人たちと同じようにニュースで知り、すぐに両親に電話をかけました。何が起きているのか、どこにいるのか、そもそも本当に生きているのかどうか。こんなに泣くことはできないんじゃないかと思ったくらい泣きました。どうしてこんなに残虐なことを民間人にできるのか理解できませんでした。両親はまだ目が覚めたばかりで、2022年に本物の戦争が起こるなんて全く信じられないという気持ちでした。

両親は何度も地下の防空壕に逃げたりしていて、とても恐ろしい映像を送ってきます。祖国はすでに100日以上こんな状態にさらされています。私は物理的には遠くにいますけれども“常に両親と一緒にいる”という気持ちです。自分の国で戦争が起こっていて、そこには家族やとても親しい人たちがいるのです。心の中はいつもざわざわしています。

私のスクールには8年前に始まったドネツクでの戦争によって逃げてきた選手がいます。ウクライナ人のコーチも2人います。私たちも何もしないで手をこまぬいてわけではなくて、ウクライナを支援している慈善団体を通じてできる限り支援をしようとしています。

空爆で失われた命…将来を期待された11歳の少女も

ベッソノワさんが学んだ新体操の名門クラブ「デルギナ・スクール」は首都キーウにあります。

コーチの指導のもと、今も生徒たちが熱心に練習に取り組んでいます。

生徒たちにとってベッソノワさんは、今も"お手本"のような人。

いつか自分たちも一流の選手になりたいと努力を続けていました。

しかしスクールに通ってくる生徒のその数は、侵攻前の3分の1に減ってしまったといいます。

ベッソノワさんは、ミサイルが飛んでくる恐怖の中で練習を続ける生徒たちのことを「戦士」だと表現しました。

ベッソノワさん:空襲警報が鳴ったら防空壕に逃げなければならない状況の中で練習をしているわけです。ですから今練習を続けている選手はとても強いし、尊敬に値すると感じます。実際にいま練習を続けて大会に出ている選手というのは戦士たちであって、兵士たちと違うフィールドで同じようにウクライナのために戦っているのだと思います。選手たちは最近ワールドカップにも出場しました。たとえ成績がふるわなかったとしてもウクライナを広く知らしめてくれる、そしてウクライナの旗を掲げることによってウクライナは「ある」のだと、まだ存在している強い国なんだということを世界に知らしめてくれると思います。

しかし、恐れていた悲劇もおきてしまいました。

激戦地のマリウポリで、将来を期待された11歳の新体操の選手が空爆で命を落としてしまったのです。

ベッソノワさんにそのことをたずねると怒りと悔しさをにじませて答えました。

<マリウポリで亡くなった新体操の選手>

ベッソノワさん: とても悲しく、恐ろしいことです。彼女が死ななければならない理由はないのです。彼女も大きな"新体操の家族”の一員で、子供の死というのはとても痛ましく感じます。彼女のことは直接知らなかったけれども、彼女が通っていたスクールのことは知っています。ですから彼女を直接教えていたコーチの気持ちを考えるのもつらいです。彼女が新体操をすごく愛していたというのもとてもよく分かります。子どもの人生が、自分の意志とは関係なく突然つぶされてしまったのです。抱いていた夢を奪われ、壊されてしまった、それは本当に恐ろしいことだと思います。

今回の軍事侵攻で、これまで犠牲になったアスリートは51人(5月現在)。

ベッソノワさんは「なぜアスリートが死ななければならないのか」と悲嘆にくれています。

プーチン大統領の"恋人"かつてのライバル カバエワさんとの決別

もう1つ私が気になっていたのは、かつてしのぎを削ったロシアのライバルへの思いでした。

ベッソノワさんが銅メダルを獲得したアテネオリンピックで、金メダルに輝いたのがあのカバエワさんでした。

いまやプーチン大統領の“恋人”とされ、制裁の対象にもなったカバエワさんに対し、厳しい言葉を口にしました。

酒井:カバエワさんのこともニュースで目にすると思うんですけれど、彼女の発言に関してはどう思いますか。

ベッソノワさん:特に思うことはありません。悲しいことに彼女は民間人が死ぬこと、子どもが死ぬことを、そして自由なウクライナに侵攻することを正しいと思っています。ずっと彼女のことをよいライバルだと思っていましたが、今はそう思いません。今の時代に戦争が正しいと思って支持できる人のことは全く理解できないし、人の死を「正しい」と支持できることは理解できません。

ベッソノワさんはさらに、ロシアの他の選手からも「戦争反対」の声がまったくあがらないことにいらだちを感じるといいます。

ベッソノワさん:今起きていることについて、選手個人の立場なのか、上からそう言われているのか分からないけれど、少なくともロシアの新体操選手たちは今起こっていることを「正しい」と言っています。選手たちはたとえ未熟であっても、自分の意見というものを表明すべきだと思います。それなのに選手の中で今「私はウクライナの方が正しいと思う」「軍事侵攻は間違っていると思う」と言う人は一人もいない。「戦争に反対だ」と言う人は、私が知る限り一人もいないのです。

"つらさは見せず最後まで強く 本当に笑える日まで"

ベッソノワさんは、軍事侵攻がなければ3月にウクライナに戻る大事な予定があったとあかしました。

オリンピックも共に戦ったコーチ、恩師のアルビナ・デルギナさんの90歳の誕生日だったのです。

<ベッソノワさんと恩師デルギナさん(右)>

ベッソノワさん:デルギナ先生の教え子が全員キーウに集まって大きなショーを予定していて、私も出ることになっていました。演技をプレゼントして、とても大きくて美しい誕生祝いになるはずでした。2月24日に侵攻が始まった時も、誕生日は3月16日なのでそれまでにはおさまってお祝いができるのではと期待をしていましたが、残念ながらそれもかないませんでした。

デルギナさんの誕生日、ベッソノワさんはSNSにお祝いのメッセージを投稿しました。

つづられていたのは、選手のころからデルギナさんに繰り返し教えられていた「つらいことを表に出さず、最後まで戦い抜きなさい」という言葉でした。

酒井:デルギナさんの誕生日を祝う投稿を見ました。デルギナさんから教わったことで、今も一番大切にしていることはなんなのでしょうか。

ベッソノワさん:「強くあること」を教わったと思います。私が選手として出ていたころも戦わなくてはならないことがたくさんありました。今と違う形ではあるけれど、ウクライナは不公平と戦わなければならなかったんです。デルギナ先生からは、自分がつらいとか、怖いとかというのを他の人に見せてはならないといわれましたし、それはつまり「最後まで強くあれ」ということだったと思います。

ロシアがどうして自由な独立国であるウクライナに侵攻するのか全く分かりません。とても悲しくて腹が立ちますし、すごく涙が流れます。けれども私たちは強くなければならないと思いますし、お互いに支えあっていかなければならないと思っています。今は心から笑うのは難しいですが、できるだけ笑って、力の限り生きていこうとしています。今戦って、必ず勝って、そのあとは笑い続けていられるように信じています。

取材後記:ベッソノワさんが笑顔で舞える日を願って

新体操に明け暮れていた中学生のころ、私は世界の舞台で戦うベッソノワさんの演技を録画して何度も観ていました。

<中学時代の酒井キャスター>

ベッソノワさんの長い手足を活かしたダイナミックな技と豊かな表現力、なにより演技の前後に見せる可愛らしい笑顔が大好きだっただけに、今回の憔悴(しょうすい)した様子から彼女の怒りや悲しみが痛いほど伝わってきて、私も胸が張り裂けそうになりました。

そして、新体操やスポーツを心から楽しめる世界が軍事侵攻によって失われてしまったのだと感じました。

ロシアの選手について聞いたとき、私は「戦争とスポーツは別」「ライバルには敬意を抱いている」という答えが返ってくるのではないかと思っていました。

しかし、私が考えていたことはきれいごとに過ぎませんでした。

カバエワさんに対する本音を聞き、この軍事侵攻はアスリートたちの関係をも壊してしまったのだと痛感します。

北京オリンピックのリボンの演技で、ベッソノワさんが披露したのはウクライナの民族舞踊をモチーフにした作品でした。

恩師のデルギナさんも特に思い入れのある作品で、誕生パーティーに行けたらこの演技をしようと考えていたそうです。

「きっとすべてよくなる、そうしたらまた一緒に踊りましょう」とデルギナさんに伝えたいと話していました。

今も恩師の言葉を胸に"強くありたい"と願いながら、子どもたちに新体操を教え続ける日々。

ベッソノワさんが本来の笑顔を取り戻し、恩師の前で美しい演技を再び披露する日が一日でも早く来てほしいと願うばかりです。