“世紀の一戦”とも呼ばれたボクシング、モアメド・アリとの対戦などで活躍したアントニオ猪木さんが10月亡くなりました。猪木さんの活躍はリングの上にとどまらず、会うことさえ無理だと思われていたキューバのカストロ議長の心をつかみ、関係が厳しかった当時のソビエトでスポーツイベントを開くなど、世界とつながりました。そうしたなか10年前、パキスタンを訪れた猪木さんと現地の少年が出会い、少年はいま“猪木の弟子”として日本にいます。知られざる少年と猪木さんの物語を紹介します。
(「国際報道2022」キャスター 油井秀樹)
パキスタンで猪木さんが“最も有名な日本人”となったわけ
10年前の2012年、パキスタン駐在の特派員だった私(油井)は猪木さんのパキスタン訪問を取材しました。
パキスタンではテロが時折発生し、日本政府が危険情報を出して渡航の注意を呼びかけていました。
それでも猪木さんは、スポーツ外交の一環としてプロレスを主催したのです。
会場には日本のプロレスを一目見ようと大勢の若者たちが集まり、熱気が立ちこめていました。
猪木さんが姿を現すと、パキスタンの若者たちからは「猪木コール」の大歓声が。
そして猪木さんおなじみの「行くぞ!1、2、3、ダーーー!!」というかけ声に、応える大勢の若者たち。
パキスタンで“最も有名な日本人は猪木さん”と言われるほどの人気ぶりでした。
<アクラム・ペールワンの敗北を報じる当時の地元新聞>
なぜパキスタンでアントニオ猪木さんがこれほどまでに有名だったのか。
実は1976年、パキスタン国民の間で“世界最強の男”と呼ばれたアクラム・ペールワンと対戦していました。
そのとき猪木さんはアクラムの腕を脱臼させ、“地元の英雄”はまさかの敗北を喫し、パキスタン中に大きな衝撃が走ることになったのです。
その地元の英雄、アクラム・ペールワンの名には意味がありました。
ペールワンとは、伝統の格闘技を家業とするレスラー一族に与えられた称号だったのです。
そうしたことから、ペールワン一族は“打倒猪木”に立ち上がりました。
3年後、猪木さんへのリベンジに挑んだのは、当時16歳のホープ、ジャラ・ペールワンです。
試合は、し烈を極め、激闘になりました。
猪木さんは両足を固められるなどピンチの場面もありましたが、両者一歩も譲らずポイントを争う展開に…。
結局、試合はもつれて勝敗はつきませんでした。
すると猪木さんは、ジャラ・ペールワンに近寄って彼の手を挙げたのです。
現地のテレビ局は「レフリーに代わってジャラの勝利を認めた」と実況し、映像にはリングを飛び跳ね喜ぶペールワン一族たちの姿がありました。
その時のことを、私は、パキスタンを訪れた猪木さんに直接聞きました。
アントニオ猪木さん
「彼の手を挙げたのです。よくやったよっていうね。いろんな解釈があるのですけれど、花を持たせてやってもいいかなと」
こうした猪木さんのスポーツマンシップが共感を呼び、パキスタン中にその名をとどろかせたのです。
盟友の墓前で…13歳の少年を“弟子”に 猪木さんに託された一族の夢
2012年に猪木さんがパキスタンを訪問した理由は、かつてリングで闘った盟友の墓参りでした。
猪木さんは大勢の人たちに囲まれながら、ペールワン一族の墓前でしばらくたたずんでいました。
そこで出会ったのが、当時13歳だった一族の末えい、アビッド・ハルーンさんでした。
このときハルーンさんの父親は、息子を猪木さんの弟子にして、日本でレスリングを学ばせたいと申し出ました。
ハルーンさんは一族から、かつての英雄が世を去り、すっかり下火となっていた伝統の格闘技を再びもり立ててほしいと夢を託されていたのです。
その夢を託されたアビッド・ハルーンさん(当時13)は「祖父たちと戦ったあの猪木さんから指導を受けられれば私にとっての誇りになります」と意気込みを語ったのです。
<ハルーンさんの父親アスラムさんと猪木さん>
アントニオ猪木さん
「『ひとつこの子を男にしてください』みたいな話でね。ひとつの絆というか、これは大きなものだし。それを大事に育てていけば、外交の面でもプラスになると思います」
「父親のようだった」少年を支え続けた猪木さんとの絆 秘話
それから10年がたち、今回私は一族の夢を託されたあの少年の元を訪ねました。
13歳だった少年は23歳、大人になり日本語も流ちょうになっていました。
アビッド・ハルーンさんは、あの後2014年に来日を果たしていました。
猪木さんを最初に見たときの感想をいま改めてハルーンさんに聞くと、父親より身長が大きく少し怖かったけれども、話してみるととても親切で優しく、とても驚いたといいます。
猪木さんはその後も変わらず優しく、来日してすぐに迎えた高校の入学式に、駆けつけてくれたほどでした。
しかしそこで初めてハルーンさんは、あの、猪木さんおなじみの洗礼を受けたのです。
「そのとき初めてビンタを食らいました。悪いことをしたのかと思いましたが、頑張りなさいのビンタと説明されて安心しました」
日本語は全く話せないまま、異なる文化に身を投じたためホームシックになったハルーンさんに、猪木さんはいつも寄り添ってくれていました。
「スポーツはつらいこともあるが、中途半端にして欲しくない。自分の人生なのでプロレスやるなり、レスリングやるなり、やるなら本気でやりなさい」とよく語っていたといいます。
ハルーンさんによると、生活費や練習着、教育費なども、猪木さんはサポートしていたそうです。
まさしく「お父さんみたいな存在だった」と。
いま、ハルーンさんは日本体育大学のレスリング部に所属しています。
階級は97キロ級。
2021年には全日本大学選手権で、ひとつ上の125キロ級に果敢に挑み、2位となったのです。
一緒に汗を流す部員たちはハルーンさんの強さの秘密を、身長が大きく力が強いのだと私に説明してくれました。
また8年間、一緒に練習しているという部員は、パキスタンに帰ったときにすごいと言われる人になってほしい、そんなふうに話すほど部になじんでいました。
ハルーンさんはいま、2年後のパリオリンピックを見据え、パキスタン代表としての出場を目指しています。
日本体育大学レスリング部 松本慎吾監督
「日本に来て不安なことだらけだったと思いますが、いろいろな仲間に支えられて自分の目標目的のために、取り組んでいるという姿勢は、結果にもつながるでしょうし、将来的に自分ために返ってくることだと思います」
練習はきつくても楽しいと語るハルーンさんは今、亡くなった猪木さんに、今後必ず活躍できる選手になる、と伝えたいといいます。
「『元気があれば何でもできる』その言葉はやっぱり忘れられないです。自分がいま日本にいるのは、猪木さんのおかげです。自分の成長をもう少し見せたかったです。少しでも恩返ししたかったです」
取材後記
私は10年前の取材でハルーンさんの父親から息子を猪木さんの弟子入りさせる話を聞いた時、口には出さなかったのですが、ハルーンさんを日本に連れてきて大丈夫かな、やめた方がいいのではないかと思っていたのです。
日本語は全くできず環境や文化も異なるので、そう思ったのですが、でも今回、成長ぶりを見て、そんな風に見てしまった自分が恥ずかしく、ハルーンさんに申し訳ないと思ったほどでした。
ハルーンさんは、来日直後、かなりのホームシックにかかったそうなのですが、その苦境を乗り越えられたのは猪木さんや日本の友達や先生の優しさだったと強調していたのが印象的で、とてもうれしく思いました。
また今回、ハルーンさんの口から猪木さんは本当に父親のような存在だったということを聞き、ハルーンさんを支えた猪木さんの度量の大きさに心を打たれました。
<猪木さん死去を報じるパキスタンの新聞>
その猪木さんの死去についてパキスタンでは、新聞各紙が「レジェンド伝説的なレスラー亡くなる」と伝えました。
さらにパキスタンの首相が哀悼の意を表明したことや両国の友好に尽くした「偉大な親善大使だった」という現地の人たちの発言なども報じるほどでした。
猪木外交として猪木さんが各国にまいた種が、今後、成長し花を咲かせるのではないか、ハルーンさんの姿からそんな期待を感じました。