【ウクライナからの声㉓】"おうちへかえろう、ここはぼくのうちじゃない”

NHK
2022年5月16日 午後6:04 公開

アリーナ・ホルラチさんは11歳の娘と2歳の息子を連れて、ロシア軍の攻撃から逃れました。「人道回廊を通っていける」と言われたものの、どこに向かえばいいかもわかりませんでした。娘は恐怖を訴え、息子は家に帰りたいと夜中に泣き出しました。子どもたちを不安にさせないようにと明るく振る舞っていたアリーナさん自身、重圧で涙が止まらなくなったといいます。ウクライナの子どもたちが日常を奪われているのになぜロシアの人は沈黙しているのか、静かな怒りを口にしました。

「命を守るため」と子どもに言い聞かせ自宅を離れた

アリーナさんが生まれ育ったのは、ロシアとの国境にほど近い北東部のスムイです。

周りにはロシア語を母語とする人も多く暮らし、普段からロシア語をよく使っていたといいます。

娘のナターシャさん、息子のコーリャくんの子育てに忙しい毎日を送っていました。

娘ナターシャさんと息子コーリャくん

<娘ナターシャさんと息子コーリャくん>

子どもたちとの平和な日常は、ロシア軍の侵攻によって突然奪われました。

2月24日の早朝スムイへの爆撃が始まり、アリーナさんたちはすぐに街の中心部から脱出することを決意。

過酷な逃避行の始まりでした。

「母親が私に『戦争が始まった』と電話をしてきて、1時間も経たないうちに荷物をまとめて子どもたちを車に乗せました。ナターシャは11歳、コーリャは3歳にもなっていません。ナターシャは学校で『戦争が始まるかもしれない、もしかしたら死ぬかもしれない』と聞いていました。子どもたちの間でもそんな話題が出ていたのです。ナターシャを起こしたとき『いつ家に戻れるかはわからないけど正しいことをしている、きっとすべてうまく行く』とできる限り落ち着いた声で言い聞かせました。命を守るため、最大限の努力をするのだと」

地下室で暮らすナターシャさんとコーリャくん

<地下室で暮らすナターシャさんとコーリャくん>

まず向かったのは、スムイ郊外にある母親の自宅でした。

爆撃から身を守るため、ほとんどの時間地下室にこもる生活でした。

戦闘はいつ終わるとも分からず、アリーナさんはいざというときのための食料としてパンを乾燥させていたといいます。

保存食としてアリーナさんが乾燥させていたパン

<保存食としてアリーナさんが乾燥させていたパン>

過酷な逃避行 「帰りたい」と訴える子どもたち

2週間近くが過ぎた3月8日、スムイから避難するための「人道回廊」が開設されるという情報が入りました。

アリーナさんは子どもたちの命を最優先に考え、住み慣れた地域からも離れることを決意しました。

しかし、安全な地域に頼れる親戚や知り合いはおらず、行き先を決めることもままなりません。

道中ロシア軍から攻撃されることはなかったものの、破壊された家々を数多く目にしました。

アリーナさんは車の運転にも慣れておらず、極度の緊張を常に強いられていたといいます。

「どこに向かえばよいかさえ分かりませんでした。どこに腰を落ち着ければいいのか。今後どう生きていけばいいのか分からず、1日中運転をして寝る場所をなんとか見つけ、食事をして子どもを寝かしつけるという日々が続きました」

避難のための安全なルートを見つけながら、避難民を受け入れてくれる団体なども探す毎日。

各地を転々とするうちに、子どもたちの様子に異変が現れました。

「ナターシャは最初の頃はふだんと変わらず落ち着いた状態でした。しかし時間がたつにつれパニックを起こすようになっていきました。お腹が急に激しく痛くなり『怖い』と訴えるようになったのです。私はできるだけナターシャのそばにいて、一緒に深呼吸をするようにしました。幼いコーリャは自分のベッドでないとよく寝られず、具合が悪くなっていきました。最後にはホテルに入ることさえ嫌がり、家に帰ろうと私にせがむのです。『おうちへ帰ろう、ここは僕の家じゃない』と。夜は悪い夢を見るようになり、夜中に泣き出して『隠れなきゃ、隠れなきゃ』と言うようになりました」

行き先の見えない逃避行は、アリーナさん自身にとっても大きな負担になっていきました。

それでも、自分が苦しい姿を見せると子どもたちがもっと不安になってしまうと思い、つとめて明るく振る舞っていたといいます。

「私はもちろん闘う準備はできています。私たちの家、私たちの土地のために闘うのです。ただ真っ先に考えなければならないのは子どもたちのことです。不安でたまりませんでしたが、表に出さないようにしてきました。子どもたちを怖がらせないよう、トラウマにならないように自分の気持ちを抑え、泣かないようにしてきたのです。ある日の晩、ようやく安全な場所にたどり着いてホテルで子どもたちを寝かせたとき、感情が一気に噴き出して涙が止まりませんでした」

奪われた子どもの日常 なぜロシア人は沈黙しているのか

3月中旬になって、アリーナさんはようやくウクライナ西部の街に落ち着くことができました。

11歳のナターシャさんは学校の授業をオンラインで受け始めるなど、少しずつ当たり前の生活を取り戻そうとしています。

しかし今でも大きな音がすると子どもたちがおびえた表情をすることもあり、心に受けた傷が気がかりだといいます。

国境近くで生まれ育ち、親しみを感じていたというロシアへの思いは、いまや大きく裏切られました。

「私の中にあるのは失望だけです。最初はロシア政府やプーチン大統領が悪いのだと考えていました。しかし、ロシアの人々は口をつぐみ、私たちの国にプーチン大統領がしていることを認めているのだと感じるようになりました。SNSを見れば、ロシアの人々が子どもたちと一緒に公園で遊んだりコンサートを楽しんだり、これまでと変わらぬ人生を送っている様子が目に入ります。私たちの子どもはそんな可能性を奪われているというのに。もうロシアの人と話したくありません。私は小学校の時からロシア語を学んできましたが、今やロシア語を話すだけでも苦痛を覚えます。できる限りウクライナ語を話すようつとめています」