FIFA世界ランキング21位のセルビア代表。劇的な勝利で、過酷なヨーロッパ予選を勝ち抜き、ワールドカップ出場を手にしました。そのセルビア代表のコーチとしてチームを支えるのが、喜熨斗勝史さん(58)(きのし・かつひと)です。日本でも活躍したセルビア代表のストイコビッチ監督にその才能を認められ、去年からアシスタントコーチを務めてきました。率いるのはヨーロッパ各地のトップチームで活躍する一流の選手たち、喜熨斗さんはその選手たちをどうマネージメントし、そのポテンシャルを引き出そうとしてきたのか。コーチとしてワールドカップの夢の舞台に挑んだ喜熨斗さんの“仕事の流儀”に迫りました。
(国際報道2022キャスター 角谷直也)
私が喜熨斗さんにインタビューしたのは、サッカーワールドカップカタール大会が始まる直前の11月上旬。日本に一時帰国していた喜熨斗さんに大会への意気込みを聞きました。
角谷直也「国際報道2022」キャスター:ワールドカップ直前ですが、セルビアの代表チームのコーチとして今どんな心境でしょうか?
喜熨斗さん:ヨーロッパの代表のコーチとしてワールドカップに出るという実感と同時に、ワクワクというか楽しみでしょうがない感じです。ワールドカップというとサッカーをしている人たちにとっては、本当に頂点中の頂点なのです。ワールドカップのピッチに立てる、ベンチに座れるというのは、宇宙に行くかのような感じです。本当に苦労して子どもの時から積み重ねてきたものが実って、選手は特にそうだと思いますけれど、コーチとしてもそうなのだなっていうのを実感しています。多分あそこからしか見えない景色があると思います。写真などで地球を見ることはできますが、宇宙の無重力の中から地球を見るっていうのは、行った人しか分からない世界ではないかと思っています。ですから僕もそこに行けるっていうのは非常に嬉しく思っています。
<12月2日スイス戦時のセルビア代表>
日本でもお馴染みの“ピクシー”ことドラガン・ストイコビッチ監督が率いるセルビア代表。
今大会は1次リーグにグループGで出場、2敗1引き分けで予選落ちとなりましたが、FIFA=国際サッカー連盟が発表する世界ランキングでは日本が24位に対し、セルビアは21位と格上のチームです。(2022年10月発表)
選手たちはイタリアの名門ユベントスなど、ヨーロッパ各国のビッグクラブでプレーする“一流”ぞろい。
喜熨斗さんはストイコビッチ監督の“右腕”として、その選手たちのトレーニング内容を考えるだけではなく、セットプレーのパターンなど戦術面に関わる仕事も任されてきたのです。
憧れのJリーグコーチ…しかし「世界」を相手にする壁…1年で解雇 挫折の日々
喜熨斗さんがサッカーに出会ったのは5歳の頃。
ゴールを決める楽しさに夢中になり「サッカーに育てられた」と公言するほど、サッカーにはまっていったと言います。
<子どものころの喜熨斗さん>
喜熨斗さんは高校と大学でサッカーを続けますが、その頃はまだプロリーグ発足前の時代でした。
大学卒業後は都内の工業高校に就職しサッカー部の顧問を務める一方で、関東1部リーグで選手としてプレーを続けるなど、できるだけサッカーに関わりたいと努力を続けていました。
しかし29歳のときにJリーグが発足したことで、喜熨斗さんの心は揺れ動きます。
“プロの世界に挑みたい”と思いは募り、喜熨斗さんは指導者の道を志すことを決意。
仕事を続けながら東京大学の大学院に入学し、コーチングを研究することにしたのです。
大学院で学ぶだけではなく、自費でヨーロッパに研修に向かうなど喜熨斗さんは研鑽を積んできました。
その後、1999年にはセレッソ大阪のフィジカルコーチに就任し、コーチとしてのキャリアに手ごたえを感じたと言います。
<セレッソ大阪 レネ・デザイェレ監督(1999年当時)>
喜熨斗さん:監督にこういうトレーニングをやってみたいなどの意見を伝えました。監督の意見は違ったようですが、しっかりと議論をして、落としどころを見つけることができました。監督は「君はちゃんと自分の意見を持っているし、君がそう思うのだったらやってみろ」とやらせてくれたのです。そして結果もある程度出たことで、成功体験となりました。ですから意見をしっかり言ってしっかりコミュニケーションを取れば認めてもらえるし、チームに結果を残せるのだろうなと自分では思っていたのです。
<ハンス・オフト監督(2013年当時)>
しかし、その後まもなく喜熨斗さんは大きな挫折を味わいます。
2002年に浦和レッズのフィジカルコーチに就任しますが、日本代表の監督も務めたハンス・オフト氏と対立し、満足のいく仕事もできないまま1年でチームを去ることになったのです。
喜熨斗さん:浦和レッズに行ってオフト監督と対面して、僕も浅はかだったのですけども、これまでのやりかたで大丈夫だと自分で決めこんでいたのです。でも実際は「お前何言っているの」っていうことになって、もうはなから信頼を失ってしまった。そのときは本当にどん底ですよね。トレーニングもあまり任されてもらえなかったですし、1年間苦労しましたね。結局1年でもうアウト(解雇)です。今まで1年で解雇になったことなんかなかったです。
それからは喜熨斗さんにとって、“試練”の日々となりました。
翌年にはJ2のチームでフィジカルコーチに就任しますが、そこでも監督とそりが合わず結果を残すことはできなかったと言います。
妥協を許さない喜熨斗さんに対して、“大した選手じゃないのに”という陰口が聞こえてきたこともありました。
その後は大学のサッカー部で監督を務めるなどしてきましたが、それでも安定した道を選ぶことはありませんでした。
角谷:大学に残れば、生活は安定したと思います。それでも不安定な道を選んだのはなぜですか?
喜熨斗さん:分からないです、今でも。ただ自分を信じてもっと高いレベルでやりたいっていう気持ちの方が、安定したいっていうことよりも先にありました。実は同じようなことは他にもあって、何回か自分で安定を選ぼうかなって思ったことはあります。でも、自分の気持ちに負けて安定を選ぼうとすると、例えば大学の先生になろうかなと思ってアプライ(応募)をしてみたりとかすると、今度は蹴られてしまって実現しなかったですね。
角谷:リスクを冒して本当に追い込まれて、もうダメだ、もう家族も養えないということもあったのではないでしょうか?
喜熨斗さん:実際中国にいたときに(※2015年~中国のトップチームに所属)、初戦も負けて次の試合も勝てなくて。もういよいよダメだっていうときに、宿舎の37階にいたので、ここから飛び降りて保険金が入ればそれで家族は何とかなるかなと思ったことがあります。一瞬よぎりましたが…そのずっと先のことを考えたら、自分の子どもたちもどんどん成長していくのに、それを見られなくなる。もう結局とにかくやるしかないわけですよね。そこにリスクはあるかもしれないけれど、でもその先に何かいいことがあるかもしれない。だからそのリスクも必要なリスクだって捉えるしかないかなって思ってやっています。リスクを恐れるよりも、リスクが来たから次にいいことがある準備だって思うしかないですね。
“リスクをとった”先に…勝ち取ったストイコビッチ監督からの信頼
大きな転機となったのは2008年に名古屋グランパスエイトのフィジカルコーチに就任し、ストイコビッチ監督の下で働くこととなったことでした。
喜熨斗さんの側で仕事ぶりを見ていた矢野玲コーチは、日々、最先端のトレーニングを貪欲に取り入れるそのバイタリティに圧倒されたといいます。
わずか15分のトレーニングでも喜熨斗さんは徹底的に準備。緻密なデータ分析を元に組み立てられるトレーニングは「選手たちが一番楽しそうだった」と矢野さんは語ります。
最新の情報をアップデートし、常にチームに変化をもたらしていく喜熨斗さんに、ストイコビッチ監督も信頼を寄せるようになっていきました。そのときストイコビッチ監督にかけられた言葉を喜熨斗さんは今も大切にしています。
喜熨斗さん:僕自身は一流の選手ではなかったのですが、ストイコビッチ監督が僕に与えてくれた「お前は一流の指導者だから一流の選手を扱っていいんだ」っていうことばが、僕にとっては自信になっています。ですから自分が一流のコーチになれば一流の選手を扱えるっていうふうに思って、今まで努力してきました。その結果、セルビア代表にいて、でもまだ最初の段階なのです。僕は、世界の一流の選手たちのコーチとしてあの場にいて、選手たちが「このコーチの言うことを聞いていれば大丈夫だ」っていうふうに思わせないとなりません。
コーチとしての挫折を乗り越え、セルビア代表のアシスタントコーチにまで上り詰めた喜熨斗さん。
インタビュー後編は「一流選手」たちをどうまとめていくのか、その仕事術に迫ります。