ハワイ日系人女性が受け継ぐ「おかげさまで」 真珠湾攻撃の陰にあったガンバリと感謝

NHK
2021年12月24日 午後3:38 公開

ハワイの伝統ある映画祭に、日本語のタイトルがついたドキュメンタリーが2021年11月に出品されました。題して「おかげさまで(Okagesama de~ Hawaii Nikkei Women’s Trajectory)」。登場するのは明治から大正にかけてハワイに移民した日本人の子供にあたる日系2世の女性たちで、多くが100歳近くです。彼女たちが語ったのは新天地で暮らす困難や、太平洋戦争の開戦後日本とアメリカとの間で板挟みになった苦悩。真珠湾攻撃から80年、ようやく語られた等身大の女性たちの知られざる歴史です。そこには、“同じ根っこ”を持つ日本人にこそ伝えたいという思いが込められていました。

(国際放送局・坂本眞理)  

かつてハワイの人口の40%を日系人が占めていた

常夏の島ハワイは、新型コロナ拡大前、日本から年間150万人ほどが訪れる人気の観光地でした。

でも実は、海を渡って日本からハワイへ向かう人々の波は今から150年以上前に始まっていたのです。

農作業をする移民初期の日系女性たち

<農作業をする移民初期の日系女性たち>

日本にルーツを持つ日系人は、海外日系人協会のデータ(2017年現在)によると世界に380万人ほどいるとみられます。

その中で最も早い時期に移民が始まったのがハワイでした。今から153年前、明治元年(1868年)のことです。

1886年に当時の日本政府とハワイ王国との間で移民に関する条約が結ばれてからは、政府の後押しもあり移民数が増加。

先に移民した男性の元に写真一枚の「お見合い」で嫁ぐ、いわゆる“写真花嫁”と呼ばれる女性たちも次々とハワイに渡りました。

ハワイへ渡った当初、移民たちは主に白人の経営者が運営するプランテーションで労働者として働きました。

その過酷さは、日系1世の人たちが作った労働歌「ホレホレ節」などに残されています。

ハワイ ハワイと 夢見てきたが 流す涙は キビの中 ハワイ ハワイと 来てみりゃ地獄 ボーシ(畑の経営者)が閻魔で ルナ(現場監督)は鬼

その後、移民たちはコミュニティの中で少しずつさまざまな職種に就くようになり、大正時代にはハワイ州全体の人口の40%を占めるほどになりました。

過酷な労働 女性たちは困窮を耐えぬいた

過酷な畑仕事をしていた親の姿を鮮明に記憶しているのが、映画に登場するトモエ・オケタニさん、97歳です。広島出身の両親のもと、ハワイ島に生まれ育ちました。

父親はプランテーションでサトウキビの栽培や収穫を行い、母親は家で育児や家事に忙しく働いていたといいます。

幼いころ、学校からの帰り道にサトウキビの茎やグアバをかじりながら帰ったこと、母親が小豆まんじゅうをふかして帰りを待ってくれていた思い出。

トモエさんは日本から遠く離れたハワイでの日常生活を、生き生きとカメラの前で語っています。

トモエさん自身も、16歳でプランテーションのマネージャーの家にメイドとして働き始めました。当時、メイド用のベッドは与えられず、床にマットを直接敷いて寝たこと、勤め先の家の子供から不快な言葉を投げかけられた苦い記憶なども告白しています。

トモエ・オケタニさん 「勤め先の奥さまが、『うちの娘に仕事を手伝わせるように』というので手伝いを頼んだところ、『You the maid!(あなた、メイドでしょ)』と言って一向に手伝ってくれなかった。10歳にも満たないその家の娘の、その言葉がとても嫌でした」

100歳になるバーバラ・カワカミさんも、苦しい幼少時代を送りました。

バーバラさんは父が熊本出身、母が福島出身で、家の中で全く違う方言をそれぞれ話していた様子をコミカルに話しています。

しかし、家族みんなで暮らす日々は長くは続きませんでした。家族のために懸命に働いた父親は、バーバラさんが7歳になる直前、63歳で亡くなりました。

最後の言葉は「いくら貧乏でも、子供だけは離さないで、みな仲良く育ててくれ」だったといいます。

父親が亡くなってから、一家の暮らしはより厳しいものになりました。

親戚からは「500ドルと引き換えに子供を養子として譲ってほしい」という誘いもありましたが、母は「辛くても、石にかじりついてでも、子供だけは離さない」と断り、父の遺言を最後まで守って必死で育てあげたといいます。

真珠湾攻撃 日米のはざまで板挟みに

バーバラさんやトモエさんが成人を迎えようとしていたころ、ハワイの日系人コミュニティを揺るがす事件がおきました。真珠湾攻撃です。

「敵国」となった日本にルーツを持つ日系2世ですが、彼らはアメリカの市民権を持つアメリカ人です。

国への忠誠を示すためにも、アメリカ兵として従軍する人が多くいました。彼らが所属した部隊は激戦地に送り込まれ、多くの死傷者を出しながら戦い抜きました。

日系人の女性たちにとっても、苦しい日々が続きました。

映画には、兄がアメリカ軍の「第100歩兵大隊」に従軍してヨーロッパ戦線に向かい、命を落としたという女性が登場します。「兄が死んだという知らせを聞いた両親は、部屋にこもり号泣していた」と、悲痛な記憶を克明に語っています。

「敵国・日本」にルーツを持つという理由で、周囲からの偏見も厳しさを増していきました。

父親が収容所に入れられたという女性が、当時の様子を証言しています。太平洋戦争中ずっと、日本とアメリカのはざまで大きな苦悩を強いられていたのです。

戦後 ハワイと日本2つのルーツをつないできた

1945年に戦争が終わり、ハワイで暮らす日系人の女性たちにも少しずつ穏やかな暮らしが訪れました。

貧しい生活の中、中学までしか通えなかったトモエさん。戦後、日系2世の男性と結婚し、3人の子供には十分な教育を受けさせたいと懸命に働きました。

そのかたわらで力を入れたのが、ハワイの伝統文化である「ハワイアンキルト」でした。

得意だった裁縫の技術を生かして、ハワイアンキルトを広める団体の創設メンバーにもなり、伝承に力を入れてきたのです。

トモエさんの作品の中には、日本の「家紋」をモチーフにしたものもあります。

ハワイと日本、どちらの伝統も尊重し、後世に伝えていきたい。そんな思いが感じられます。

幼くして父を亡くしたバーバラさんは、戦後、50歳を過ぎてから作家・研究者として活躍しました。

主なテーマに選んだのは、自分と同じように日本にルーツを持つ女性たちでした。

かつて写真一枚でお見合いをし、ハワイに渡った“写真花嫁”の足跡をまとめた「Picture Bride Stories(写真花嫁の物語)」。

日系人がどんな服を作り、愛用していたかを写真とともに記録した「ハワイ日系移民の服飾史」など。日本とハワイ、2つのルーツを持つバーバラさんならではの温かい作品です。

日本人にこそ知ってほしい 日系女性の“ガンバリ”

映画「おかげさまで」にはその他にもコーヒー農家になった人や教育に携わった人など、職業も経歴もさまざまな人が登場します。

多くが親世代の苦労や戦争の苦悩を経験し、戦後のハワイと日本をつなぐ礎となってきました。

映画を作ったのは、鎌倉市在住の松元裕之さん。

15年ほど前に知り合った多くの日系人から、彼らの歴史や経験を聞いたことがきっかけでした。

歴史の教科書に取り上げられることの少ない女性たちの「ガンバリ」を記録するのが、日本人としての責任だと感じたといいます。

映画製作者 松元裕之さん 「本や記録の中では男性の話が多く、女性についてはほとんど言及がないと気づいたのです。でも、サトウキビ畑やパイナップル畑で低賃金での重労働を強いられながら子供を産み育て、教育にもしっかり取り組んだ日系1世、2世の女性たちの努力や苦労が裏にあってこそ、今の日系社会や良好な日米関係があるのだろうと思いました」

タイトルを「おかげさまで」にした理由。それは、女性たちへの感謝の思いだといいます。

映画製作者 松元裕之さん 「“おかげさまで”というのは、日系人に関する展示や機関誌などでも広く使われている言葉です。日系の3世・4世、それ以降の世代の人たちも、いま自分たちがあるのは移民してきた1世の苦労と戦争を経験した2世の苦労のおかげだと、日系の人たちが大切に守り使っている言葉なのです」

新型コロナの影響で制作資金の調達に時間がかかりましたが、映画は撮影から4年をかけて完成。

伝統のある「ハワイ国際映画祭」に応募したところ、「ドキュメンタリーパノラマ」部門の作品として選ばれ、4週間にわたってホノルルで公開されました。

映画を見た現地の人からは「証言を聞ける方々は年々いなくなっておりとても貴重な記録映画だ」「プランテーションで懸命に働いた1世や、日系移民の家族がたどった軌跡などがとても興味深かった」といった感想が寄せられたといいます。

松元さんは、知られざる女性たちの歴史を日本の人たちにこそ知ってもらいたいと、2022年の春に日本での公開を目指して準備を進めています。

取材を経て感じた「証言の貴重さ」

私は15年ほど前にカリフォルニアの日系人の方々に戦時中のお話を伺い、現地の放送局で紹介したことがあります。

しかし当時すでに日系2世の方々はご高齢で、応じてくださったのは数名、そしてすべて男性でした。

それだけに、松元さんが日系2世の女性を中心に19人の証言を集めたと聞いた時は衝撃的でした。

真珠湾攻撃からも80年がたった今、日系2世の女性たちが自分の言葉でみずからの経験や思いを語る証言集は、非常に貴重だと思うのです。

松元さんは言います。

「日系人と同じ“根っこ”を持つ日本人に、彼女たちが生きてきた証を伝えたい。映画を通じて彼女たちの足跡を知り、未来につないでいってほしい」

ハワイの美しい海やきらめく太陽の陰には苦悩と感謝の歴史があったことを、私自身、胸に刻んでいきたいと思います。