「避難ですって?私たちは避難したのではありません、ただ逃げてきただけです。家の地下室で飢えて死ぬか、撃たれて死ぬか、それしかなかったのです」
戦闘から逃れてキエフにたどり着いたナターリャ・プセービナさんが、涙をこらえながら語った言葉です。「避難」ではなく「逃げただけだ」と何度も私たちに強調しました。ナターリャさんがいたのは首都キエフから北西に20キロ、郊外の街ブチャでした。ベラルーシ国境から南下を始めたロシア軍と、侵攻を阻もうとするウクライナ軍との間で激しい戦闘が繰り広げられました。ナターリャさんが目の当たりにした現実は「避難」という言葉では到底あらわせないものだったのです。
激戦の街から逃げのびてきた ナターリャ・プセービナさん
ロシアの軍事侵攻が始まった2月24日、ナターリャさんは故郷に残した両親の身を案じて、キエフからブチャに向かいました。その直後にロシア軍の戦車がブチャまで侵攻し、図らずも激戦の真っただ中に身を置くことになったのです。
「まさか、これほどまで早く戦闘が始まるとは考えてもいなかった」とナターリャさんはいいます。
<ブチャの街並み(ナターリャさん撮影)>
それから脱出するまで、ナターリャさんは砲弾が飛び交うブチャの街で『地獄』を見てきました。
ナターリャさんが撮影した動画には、無残にも破壊された街の姿が映し出されています。インフラはことごとく破壊され、街は周囲から隔絶、誰にも助けを求めることができませんでした。
厳しい寒さの中で、人々の生活は苦難を極めていきました。
「電気も水も暖房も途絶え、食料も届きません。人々はわずかに残された備蓄を食べて生き延びていました。マイナス10度の厳しい寒さの中でお湯を沸かすこともできず、温かい飲み物も、食べ物も用意できないのです。薬も足りず、わずかに残るものを分け合って生きていました。暖を取るためには互いの体温で温まるしかなく、身を寄せ合っていました。中には小さい子どもを抱えた母親の姿もありました」
鳴りやまない砲撃の音。自動小銃を打ち放つ音は自宅のすぐ側まで迫っていました。
両親とともに薄暗い地下室にこもり、音がやむまでじっと耐え忍んでいたナターリャさん。
精神状態は次第に限界を迎えていったといいます
「砲撃の中では救急車も消防車も通れません。けがをした人はそのまま亡くなるしかありませんでした。誰かがなくなると遺体をそっと家の外に持ち出すのです。何が起こっているのか、希望があるのかどうかも分かりませんでした。心が壊れそうでした・・・。人間らしい感情がなくなって、追い込まれた動物のようになっていきました」
8日後の3月4日、ナターリャさんはブチャからの脱出を決意しました。
しかし隣町のイルピンにようやくたどり着き列車に乗ろうとした矢先、駅は航空機の爆撃を受けました。
ナターリャさんは列車での脱出を諦め、車で通りがかった見知らぬ女性に同乗を頼み込み、命からがらキエフにたどり着いたのです。
<ブチャを脱出したナターリャさん>
ただ、年老いた両親はブチャに残してきました。「両親はなぜ残ると決断したのですか?」と聞くと、涙ながらに答えました。
「私たちは何の決断もしていません。両親も残ろうと決めて残ったわけではありません。70代の高齢で足も悪いので、残らざるをえなかったのです。障害のある私の友人も街に残ったままです。家で息をひそめながら、電気、水もないままに暮らしています。逃げることもできず、ただ助けを待つしかないのです」
今もブチャに残された人たちのために何かできることはないか。
ナターリャさんは脱出の際に撮影した動画をインターネット上で公開し、国際社会に向けて救助を呼び掛けています。
「国際社会には、停戦してブチャと近隣の地区から住民が避難できるようにしてほしいです。赤十字やボランティアに支援してもらい、住民がキエフに移動して避難できるようにしてほしいです。一刻も早く。ブチャでは、1日どころか、1時間でも早く救わなければならない人たちがいます。私たちはただひたすら住民が避難できるようになることを祈り、願っています。国際社会には、救わなければならない住民がいることを知って欲しいのです」