10月29日の夜、ハロウィーンを目前に控えた韓国ソウルの繁華街、イテウォン(梨泰院)で起きた事故。大勢の若者らが幅3メートルから4メートルの細い坂道に密集し、折り重なるようにして倒れ、156人が命を落としました。私は事故翌日の夜から現場で取材を始めましたが、そこで出会ったのが犠牲になった若者たちへのメッセージを付箋に書き残していく人々でした。多様な言語で記されたのは、亡き友への思いや救えなかった後悔、そして安らかに眠ってほしいという強い願いです。私は悲しくも優しい祈りの気持ちを伝えたいと取材の合間、付箋を手に取る人たちに声をかけ続けました。
(国際番組ディレクター 福井 早希)
付箋から感じる1人1人の命の重み 亡くなった人たちに向けた多言語のメッセージ
転倒事故の4週間前、私は偶然、この町を訪れていました。
その日はあいにくの雨でしたが通称「世界グルメ通り」は大勢の人でにぎわい、街角に掲げられた有名なドラマの看板は人気の撮影スポットになっていました。
<「世界グルメ通り」に掲げられたドラマ「梨泰院クラス」の看板(2022年10月撮影)>
かつてアメリカ軍基地と隣接していたことから外国人が多く暮らし、海外の文化を楽しめる街、そしてLGBTQフレンドリーで多様性が魅力の眠らない街、イテウォン。
しかし事故翌日の夜に現場入りした私の目に飛び込んできたのは、ほとんどすべての店が営業を停止し、人通りもなく、音と光が消えたイテウォンの姿でした。
この場所には今、人々の悲しみと憤り、そして追悼の祈りがあふれています。
現場となった坂からわずか数十メートル。
地下鉄イテウォン駅の1番出口のすぐ横にある献花場。
花だけでなく、お菓子や韓国焼酎、そして亡くなった方の写真などが道路を埋め尽くしています。
中でも目を引くのが、メッセージがしたためられた無数の付箋。
そばのベンチや手すりに付箋とペンが置かれていて、誰でも自由に書くことができるのです。
<日本語で書かれたメッセージ>
ベトナム語:『(名前)よ。永遠に美しい花でいてね。私と友達になってくれてありがとう』
ノルウェー語:『韓国にはそれほど多くのノルウェー人がいないことを思うと、あなたと話すときは気持ちが楽になり、ちょっとした家のように感じていました』
中国語:『発生したすべてのことがあまりにも突然すぎました。こんな形であなたを知ったことを許して下さい』
スペイン語:『イテウォンに残された全ての魂のことを私たちは決して忘れません。みんな、大好きです』
“自由に踊りたい” イランから留学の夢かなえた55日後の悲劇
ある女性の写真を持参したのはイラン人留学生のマフルさん(26)です。
今回の事故で、同じ故郷から来た5人の友人を失いました。
イランは、韓国以外で最も多くの犠牲者を出した国です。
<メッセージを書くマフルさん>
写真に映っていたのは親友のリヤンさん(24)。
事故に巻き込まれたのは、韓国に来てわずか55日目の出来事でした。
<24歳で亡くなったイラン人留学生 リヤンさん>
2人はイランにいた時から一緒に韓国語を勉強していた間柄で、リヤンさんの家族が韓国にいないため、警察からマフルさんの元に身元確認の要請が来たといいます。
マフルさん
「リヤンは韓国への情熱にあふれた友達でした。幼い頃から韓国ドラマを見ていて、独学で勉強していた韓国語がすごく上手でした。趣味はK-POPのダンスを踊ることで、ずっと一緒に踊ろうねと話していました。本当に才能豊かで、ポジティブな雰囲気を持った子でした」
リヤンさんはダンスが大好きだったにも関わらず、厳格なイスラム体制のイランでは、女性が公の場で踊ることは許されませんでした。
自由に表現できる環境に憧れていたリヤンさんにとって、韓国に来ることは夢だったといいます。
<流暢な韓国語で書かれたリヤンさんへのメッセージ>
『愛するリヤンは自分の人生を愛する子でした。天国では誰からも抑圧されずに、自由にダンスを踊ってほしい』
「申し訳ありません」気づいたときに行動さえしていたら…後悔にさいなまれる韓国人男性
夜9時過ぎにやってきた20代の韓国人男性が付箋に書いたのは「申し訳ありません」ということば。
実は彼自身もあの日、イテウォンに来ていた1人でした。
事故が起きる20分前に異変を感じ、友人とともに現場となった坂近くの飲食店に逃げ込み、間一髪で難を逃れたといいます。
<事故当時現場にいた韓国人男性>
「僕は普段も梨泰院に頻繁に来ているので、いつもと違うと感じました。ですから友達にも『今日は本当に危険だよ』と言ったんです。そして店を出たところで事故を知り、とっさに駆けつけようとしたのですが、目の前で『近づくな!』と言われたので近寄ってはいけないんだなと思いました。でも今思うと、それは間違った判断でした」
あの時、ここで目の当たりにした悲惨な光景。
一瞬の出来事だったにも関わらず、今も目に焼き付いて離れないといいます。
事故後、1度は会社に出勤して日常生活に集中しようと思ったもののうまくいかず、心理カウンセラーの予約を入れたと明かしてくれました。
<男性が書いた付箋>
『私がためらうことなく駆けつけて心臓マッサージをしていたら、1人の命だとしても生かすことができたのに。勇気を出せず申し訳ありません。危機を認識した時、みんなに切実に叫んでいたら、このような事態は起きなかったはずなのに。自分自身がとても恥ずかしいです』
現場にライターを持参し、メッセージと共に供えた男性もいました。
この事故で命を落とした友人が大好きだったのが、タバコだったのだといいます。
<今回の事故で友人を失った男性>
「普段は静かな性格の子でしたが、僕といる時は明るい友達でした。事故にあったことは、彼の両親から連絡をもらって知りました。僕の誕生日が今月なので、数日前に電話もしたんですけど…。次に会う約束もしていたのに、すごく会いたいです」
その友人は、ふだんからイテウォンによく来るわけではなかったといいます。
ですがここ数年、ハロウィーンが盛り上がりを見せる中、当日をイテウォンで過ごすことを楽しみにする若者が増えていきました。
友人もまた、その1人でした。
<亡き友人に贈ったメッセージとライター>
『僕の誕生日の1か月前に、プレゼントは何が欲しいかと聞いてきたお前がすごく恋しいよ。来世でも俺の友達になってね。時々夢で会いに来てくれよ。すごく愛している』
悲しみや苦しみを分かち合う…韓国で追悼に付箋が使われるわけ
付箋を用いて死者を悼むのは、これまでも韓国でたびたび見られてきた光景です。
2014年にセウォル号沈没事故が起きた際も、多くの人々が思い思いに言葉をしたためました。
付箋は一定期間が経過した後に回収され捨てられることなく、今もソウル記録院という施設で保管されています。
<行方不明になったセウォル号の乗客の無事を願うメッセージが書かれた付箋(2014年4月23日)>
イテウォンでも日を追うごとに増え続ける、色とりどりの追悼メッセージ。
誰でも自由に使えるようにと置かれた白紙の付箋はいつもあっという間になくなってしまうのですが、気がつくと補充されています。
現場で取材を続けていると、毎日来ている男性がいることに気付きました。
ボランティアのカン・ウォンギュさん(姜元圭・66)です。
カンさんは事故が起きたことを知るといても立ってもいられなくなり、翌日から現場で毎日、付箋を補充したり、付箋や花を整理したりするボランティアを続けています。
取材したこの日は、午後1時の時点ですでに1000枚の付箋を補充したところだと教えてくれました。
付箋は寄付されたものだといいます。
韓国の人々が追悼の思いを付箋に託すのはなぜなのか。
カンさんは、事故を受けて多くの人々が胸に抱えている悲しみや苦しみを分かち合うことが重要なのではないかといいます。
「悲しい気持ちは分け合わないといけません。慰めの文章を書くだけでも結果として、多少なりとも自分自身にとって慰めになるのだと思います。あとは友達が亡くなったりしていたら、友達に言い残した気持ちを書いて、もう会えないけどあの世でまた会おうね、と伝えたりとか。そして今後遺族が来られた時には、大勢の市民たちが気持ちを一つにして追悼したというこの雰囲気が、少しでも心の慰めになれば良いなと思います」
私は事故発生翌日から毎日現場に通いましたが、朝早くから深夜遅くまで、追悼に訪れる人が途切れることは一度もありませんでした。
1人1人が安全に楽しめる社会を…ある大人の叫び
長い間目をつぶって祈る人、静かに涙を流す人、そして大きな声で号泣する人。
あの日現場にいた人もいなかった人も、大切な誰かを失った人もそうでない人も、今回の痛ましい事故を“わがごと”として捉えていることが伝わってきます。
<花と手紙を手向けながら泣いていた女性>
本格的な事故の原因究明はこれからで、今はまだ、多くのことが分からないままです。
それでも取材に応じてくれた韓国の人々は、2度とこのような事故を繰り返さないために「安全不感症を克服しなければならない」と口々に話しました。『安全不感症』とは、安全に対する危機意識が低いこと、もしくは危険だと察知しても何の対策も講じないことなどを指す韓国の言葉です。
2人の子を持つ30代の母親は「セウォル号事件をきっかけに安全に対して韓国は少し敏感になったと思っていたけど、まだ足りなかったのだと思う。『私は大丈夫』『僕に危険なことは起きない』と考えてしまったのだろう」と語り、必ず政府が対策を講じてほしいと子どもの手を握りながら強調しました。
1人の大人が書き残したメッセージが、まさにここに来る多くの人の気持ちを代弁しているように感じました。
追悼、そして安全な社会を願う祈りが、付箋を通じてイテウォンの町から広がっています。
<事故翌日に貼られていたメッセージ>
『みんな!どんなに怖くて、息が詰まり辛かっただろう。胸が痛い。君たちが思う存分遊んで心を解放できる社会を作ってあげられず、むしろこのような悲劇を与えてしまい申し訳ない限りだ。申し訳ない、ただ申し訳ない。君たちの悲しみを決して忘れないよ』
【生存者の証言も】