名著125「中井久夫スペシャル」

NHK
2022年11月22日 午後5:32 公開

治療困難とされてきた統合失調症の解明、阪神淡路大震災被災者のPTSDのケア、精神科看護師の育成等々に取り組み、人々の苦しみに徹底的に寄り添い続けた「こころの医師」がいます。中井久夫(1934-2022)。日本を代表する精神科医です。中井は、私たちが見過ごしがちな「心の問題」「人間の本質」を、単なる学術的なアプローチだけではなく、私たち一般人にも深く響く瑞々しい言葉を使って縦横に論じてきましたが、この8月に惜しまれつつ世を去りました。番組では、彼の代表作「最終講義」「分裂病と人類」「治療文化論」「戦争と平和 ある観察」「『昭和』を送る」等を読み解き、「私たちにとって心の病とは何か?」「私たちが社会の中に生きる意味とは?」「人が再生していくには何が必要か?」といった問題をあらためて見つめなおします。

中井久夫は当初ウィルス学を志すが研究体制に疑問を感じて精神医学へ転身。当時治療法が確立されておらず、治療困難とされていた統合失調症の症例と運命的な出会いをします。「時系列でグラフ化する」というウィルス研究時に培った方法を使うことで、これまで誰も注目しなかった寛解過程の中に、治療に向けてのいくつもの重要なファクターを発見。「風景構成法」など治療効果をもつ検査法を構築し、患者-医師間の関係を大きく改善していきました。そんな経験を踏まえて中井が執筆した著作の数々は、結果的に独創的な「文化論」「人間論」ともなっており、専門家の領域を超えて一般の多くの人たちが「自らの心の問題と向き合うための名著」として読み継がれています。

それだけではありません。中井久夫は、鋭い知性と深い教養を武器に「病の意味」「文化の役割」「戦争と平和」等のテーマについて精神科医としての観点から考察を続け画期的な著作を執筆していきます。中井の著作は、価値観がゆらぐ現代にあって、私たちが「人間とは何か」「時代とは何か」を見つめなおすための大きなヒントを与えてくれるのです。

番組では斎藤環さん(筑波大学教授・精神科医)を指南役として招き、中井久夫が追究し続けた独自の精神医学やその応用研究を分り易く解説。彼の代表作に現代の視点から光を当てなおし、そこにこめられた【人間論】や【文化論】【平和論】など、現代の私達にも通じるメッセージを読み解いていきます。

<各回の放送内容>

第1回「心の生ぶ毛」を守り育てる ~「最終講義」~

【放送時間】

2022年12月5日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ

【再放送】

2022年12月6日(火)午前5時30分~5時55分/Eテレ

2022年12月12日(月)午後1時5分~1時30分/Eテレ

※放送時間は変更される場合があります

【指南役】斎藤環…筑波大学教授。精神科医。著書に『世界が土曜の夜の夢なら』、『オープンダイアローグとは何か』など。

【朗読】寺田農(俳優)

【語り】小口貴子

心はなぜ病むのか? そしてどうやったら再生できるのか? 中井久夫は、統合失調症という治療困難とされてきた病と向き合うことで、「心のうぶ毛」「世に棲む」という新しい言葉を生み出していく。統合失調症回復期に露呈する治癒力、社会との折り合いのつけ方といった問題は、健康な人、病者といった違いに関わらず、誰もがこの世界で生きていく根本にかかわる本質的な問題につながることに気づかせてくれるのだ。第一回は、中井久夫の集大成ともいえる「最終講義」を読み解き、「人間とは何か」「心とは何か」「人間が社会生活を営む意味とは?」といった普遍的なテーマを考えていく。

第2回「病」は能力である ~「分裂病と人類」~

【放送時間】

2022年12月12日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ

【再放送】

2022年12月13日(火)午前5時30分~5時55分/Eテレ

2022年12月19日(月)午後1時5分~1時30分/Eテレ

※放送時間は変更される場合があります

【指南役】斎藤環…筑波大学教授。精神科医。著書に『世界が土曜の夜の夢なら』、『オープンダイアローグとは何か』など。

【朗読】寺田農(俳優)

【語り】小口貴子

「なぜ統合失調症は世界のどこにおいても人類の1%前後に現れるのか」という問いに対し中井は「人類のために必要だから」という大胆な仮説を打ち出す。例えば大航海時代、孤独な決断によって数々の困難を冷徹に乗り越える船長には天候や空気などの微細な変化・徴候を読み取り次に何が起こるかを予測する能力が必要だった。その能力の基盤は統合失調症の症例と酷似する。かつて人類は誰しもその能力をもっていた。激変する人類史の中で不必要になったその能力が抑圧されることでこの病が生まれたのではないか。中井はこの病をむしろ肯定的に評価する。第二回は、「分裂病と人類」を読み解くことで、「私たちにとって病とは何か」「正常や異常とみなされるものの間に境界はあるのか」といった根源的な問題を深掘りしていく。

第3回 多層的な文化が「病」を包む ~「治療文化論」~

【放送時間】

2022年12月19日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ

【再放送】

2022年12月20日(火)午前5時30分~5時55分/Eテレ

2022年12月26日(月)午後1時5分~1時30分/Eテレ

※放送時間は変更される場合があります

【指南役】斎藤環…筑波大学教授。精神科医。著書に『世界が土曜の夜の夢なら』、『オープンダイアローグとは何か』など。

【朗読】寺田農(俳優)

【語り】小口貴子

従来、精神病理は「普遍症候群」「文化依存症候群」という二つのカテゴリーに分類されてきた。だが、中井は、永年の臨床体験の中から「個人症候群」という、あるひとりの個人に一回きりしか現れない症候があることを明らかにしたのだ。そのケースでは個人が土着する文脈にこそ治療につながる鍵がある。祈祷や民間療法がはるかに効果を発揮することすらあるのだ。この視点は普遍的な基準のみに依存する近代精神医学への大きなアンチテーゼとなった。第三回は、心のケアにおいて、個人を支えている文化がいかに重要か、それを活かしていくにはどのような方法があるのかを「治療文化論」に学んでいく。

第4回 精神科医が読み解く「昭和」と「戦争」 ~「『昭和』を送る」「戦争と平和 ある観察」~

【放送時間】

2022年12月26日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ

【再放送】

2022年12月27日(火)午前5時30分~5時55分/Eテレ

2022年1月9日(月)午後1時5分~1時30分/Eテレ

※放送時間は変更される場合があります

【指南役】斎藤環…筑波大学教授。精神科医。著書に『世界が土曜の夜の夢なら』、『オープンダイアローグとは何か』など。

【朗読】寺田農(俳優)

【語り】小口貴子

なぜ人は戦争をするのか? なぜ平和は長続きしないのか? 敗戦のとき小学校6年生だった中井久夫が、「戦争の切れ端を知る者」として書いた文章が「戦争と平和 ある観察」だ。戦争は「過程」であり、平和は「状態」であるという、精神科医としての経験を踏まえた鋭い洞察。それは、語りやすい戦争に対して、平和を維持していくための言説には並々ならぬ努力が必要だということを深く示唆してくれる。第四回は、精神科医としての透徹したまなざしを通して、全く新しい角度から「戦争と平和」の様相を照らし出す。更に、日本にとって激動の時代だった「昭和」という時代がどんなものだったかを克明に浮かび上がらせる。

「中井久夫」……という名前を目にしただけで、高揚感やわくわく感をとめられなくなってしまいます。一度でも中井久夫さんの文章に触れて魅了された経験のある人には、この気持ちをわかっていただけるのではと思います。何を隠そう、私は大学二年生のころからの中井久夫さんの大ファンなのです。なので、今回の「こぼれ話」は極私的なものになってしまうかもしれません。ご容赦ください。

斎藤環さんに「中井久夫スペシャルをやりませんか?」とオファーさせていただいたときには「ぜひお引き受けしたいと考えています」と即座にお返事をいただきました。これが2019年9月のこと。つまり今回の企画は実に3年越しで実現したというわけですね。あらためて考えると感慨深いです。そして、企画化にめどがついたときにも、斎藤さんからのお返事の中に「いよいよですね」との言葉が。シンプルな言葉に見えるかもしれませんが、その中に、「中井久夫に関する仕事ができること」への斎藤さんの高揚感を感じ取りました。私の「微分回路」がやや暴走していたかもしれませんが(笑)。

斎藤さんとは新春スペシャルで何度もお仕事をご一緒させていただいたので、仕事に対する真摯な姿勢、誠実さはよく存じ上げていました。その上で、私が感じる斎藤さんのキャラクターをご紹介すると、メールなどではめったにお気持ちを現わさない方なのです。どちらかというと、いつもクールな文面。ぼくは、そんな「優しいドライ感」がとても好きで、仕事に関しては絶妙な距離感をとってくれるところが心地よかったのでした。

そんな斎藤さんが「いよいよですね」とほんのり感情を交えた文面を返してくださった。今回のシリーズの成功を確信した瞬間でした。難易度の高い名著を解説していただく場合に鍵を握るのは、講師の中にある著者への深い愛情やリスペクト。番組をご覧いただいた方はもうおわかりと思いますが、斎藤環さんによる中井久夫さんの著作の解説には、一貫して中井さんへの愛とリスペクトが貫かれていました。そして、それは、一方的に祭り上げるような解説ではありません。ときに批判的な視座も交え、距離をとりながら客観的な評価をする。おそらく真のリスペクトとはこういうものではないかと思えるような解説でした。

「分裂病と人類」「治療文化論」「『昭和』を送る」「戦争と平和 ある観察」を取り上げることは最初から斎藤さんと私の間で意見は一致していました。残る一冊は迷いました。斎藤さんからご提案があったのは「徴候・記憶・外傷」。これも素晴らしい論文でしたが、やや難易度が高いのと、中井さんの業績をこの5冊で全部俯瞰できるのかという問題が残りました。それほどに膨大な業績のある方なので、何を選んでも取りこぼしてしまいそうです。私の方からは、中井久夫さんのお人柄、人間性をお伝えしたく、「こんなとき私はどうしてきたか」を提案しました。とてもよい本ではあるのだが、中井さんのオリジナリティの高い業績の中で考えると、「ならでは」感が少し弱いのではないかという議論になりました。しばらくやりとりを続ける中で斎藤さんが提案してくださったのが「最終講義」。一読、納得しました。中井さんが生涯をかけて取り組んだ「統合失調症」に関する研究、臨床のエッセンスがほぼ詰まっている。そして言葉の端々から、中井さんのお人柄もにじみ出ている。中井さんの世界観に入門するには最適な本だと直観しました。

打合せの全てが楽しかった。こんなに中井さんのことをいろいろな人たちと議論し合えるのは本当に稀有な体験でした。惜しむらくは、この番組を当の中井久夫さんにご覧いただきたかった。番組テキストの制作がこれからいよいよ始まるというタイミングの8月に、中井さんの訃報を聞いたときには、言い知れぬ喪失感に打ちのめされました。

中井久夫さんの著作との出会いは大学二年生の頃と書きましたが、きっかけは偶然なものでした。当時ニューアカブーム真っ盛り。旗手の一人、浅田彰さんがドゥルーズ=ガタリという哲学者コンビの理論をベースに「スキゾ/パラノ」という新しいタイプ分けを提示して話題を呼んでいました。スキゾフレニー(統合失調症)という言葉を浅田さんの「逃走論」で初めて知りました。その文脈で浅田さんがとても評価している人に、精神科医の中井久夫さんと木村敏さんがいるという。そこで手に取ったのが「分裂病と人類」。ドゥルーズ=ガタリは全くわからなかったのですが、「分裂病と人類」はとんでもなく面白かった! 精神医学というのはこんな風に人類史の分析に応用できるのか、そして精神疾患といわれたもの中に、こんなにもポジティブな要素があるのか、と知的な驚きの連続。世の中にこんな面白い本があるのかと思ったものです。

そして、この本は、社会人になって三年目の頃の私を救ってくれました。当時、ややコミュ障ぎみの私は、テレビ・ディレクターとしてはどちらかというと、圧倒的な劣等生。華々しく大番組を手掛ける同世代のディレクターたちの活躍を横目でみつつ、「ああ、俺はこの仕事にむいていないのでは」と落ちこんでいたものでした。そんなときに、ひょんなことから手にとったのが「分裂病と人類」でした。ところが、学生時代に読んだときとまるで異なる文脈で、この本の内容が心の中に流れ込んできたのです。

結論からいうと、「俺のようなあり方だってありじゃないか。たまたま今、置かれている時代や環境に適合していないだけで、こんな性格だって、時代や環境が変われば、何らかの才能として活躍できる場合もあるはずなんだ」と思ったのです。いささか自分に引き寄せすぎた読み解きだと我ながら思いますが、分裂病になりやすい「S親和者」が、その才能を大いに発揮していた時代や環境があるという、中井さんの分析に、心の底からわくわくし、励まされたのです。……そして、「こつこつと本を読み、すぐには役に立たないような思想や考え方を深めていく」という、当時の自分にはテレビ制作にはあまり向かないと思われた能力が、今の環境では、ものすごく役立っているのですから、まさに中井さんが書いてくれていた通りだったと、今にして思えます。真実、この本に私は救われたのです。

こんな読み方がありなのかはわかりませんが、この経験を期に、人生のパートナーとして中井さんの本を読み続けました。今回の番組でも紹介した「治療文化論」の「中山ミキ論」と「妖精をみる女子学生の症例」の話も、ことあるごとに何度も読み返したエピソードです。螺旋を描くがごとくうねるように展開する「治療文化論」の全体像は、恥ずかしながら今回の斎藤環さんの解説で初めて理解しましたが、そのときはそこしかわらかないような部分部分のエピソードが、確かに今必要としていることに応えてくれる……これも「箴言知」たる中井久夫さんの文章の不思議です。ある意味、全く対照的な存在ですが、河合隼雄さんの本もそんな存在です。中井久夫さんと河合隼雄さんは、勝手に言わせてもらえば、私にとって人生の伴走者だったのでした。

今回の番組制作の中でも、今後の私の番組作りの基本姿勢ともいえる大事なメッセージをあらためて中井さんからいただきました。

「治療とはそれぞれのために心をこめて、そのひとだけの一品料理をつくろうとすることである」

この言葉に触れて、あらためて心の奥が震えました。私自身も「それぞれのために心をこめて、そのひとだけの一品料理をつくろうとする」ように、番組一つひとつを大切に作っていきたいと今、あらためて決意しています。

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