紀元1世紀から2世紀にかけて執筆・編纂された聖典「新約聖書」。今も、キリスト教徒だけでなく、世界中の人々に巨大な影響力を持ち続ける名著です。「新約聖書」に収められた27の書の中でも、イエス・キリストの生涯と言葉が克明に記されているのが「福音書」です。マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝の4つからなる「福音書」は、いわば「新約聖書」の中核ともいえる存在。それぞれが補いあうようにイエスという存在を浮かび上がらせる構成になっています。
番組では、永年に渡って「福音書」を読み続け、自らも糧としてきた批評家・若松英輔さんが、現代の視点からわかりやすく解説します。若松さんによれば、「福音書」は信仰者のためだけの書ではなく、万人に開かれた書だといいます。一見すると信仰者にしか関りのないような奇跡や神秘的な出来事の描写も、文字を追うのとは別な、もう一つの目を見開いて読むと、言葉の奥に隠された深い意味が浮かび上がってくるといいます。それは、それぞれが「私自身のイエス」に出会う体験であるともいえます。そのように読むと、「福音書」は私たちの人生を支えてくれる書となっていきます。
その生涯を通じて、弱きもの、小さきものに徹底的に寄り添い、近づくことをためらう人々の元へこそ出向いていったイエス。彼の言葉と行為は、私たち現代人にとってどんな意味をもつのでしょうか? 「福音書」を万人のために開かれた書であるととらえる視点から、生きることそのものを導いてくれる巨大な書に込められた深い意味を読み解いていきます。
<各回の放送内容>
第1回 悲しむ人は幸いである
【放送時間】
2023年4月3日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2023年4月4日(火)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2023年4月10日(月)午後1時5分~1時30分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】若松英輔(批評家・随筆家)
【朗読】占部房子(俳優)
【語り】小口貴子
イエスはベツレヘムの馬小屋で誕生したとされる。このことから、イエスは貧しい人々、身分低き人々、世間からないがしろにされている人々に寄り添うために生まれたと捉えられてきた。有名な「山上の説教」では、「悲しむ人たちは幸いである」と説かれ、誰が偉いかを競い合う弟子たちには「幼子の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れる者である」と窘める。イエスの生涯は一貫して「悲しむ人」「小さき人」「蔑まれた人」たちと共にあったのだ。若松さんは、これらの言葉にはあらゆる宗教を貫く神髄があるという。第一回は、イエスの生誕、受洗、最初の説教などを通して、イエスの生涯に込められた深い意味を探る。
第2回 魂の糧としてのコトバ
【放送時間】
2023年4月10日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2023年4月11日(火)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2023年4月17日(月)午後1時5分~1時30分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】若松英輔(批評家・随筆家)
【朗読】占部房子(俳優)
【語り】小口貴子
「福音書」は魂の糧となるコトバに満ち溢れている。断食修行中に「神の子ならば石をパンに変えてみよ」と問う悪魔に対して「人はパンだけで生きるのではない」といい人間は言葉によって生きるという真理を示すイエス。五つのパンと二匹の魚で五千人もの男を満腹にさせる奇跡を起こしたイエス。深く読み解けば、人々が食したのはイエスによってもたらされた言葉だととらえることもできる。若松さんは、「永遠の命に至らせる食べ物」「あなた方の知らない食べ物」と繰り返し表現されるものこそ、大いなる働きによってもたらされたコトバであり、魂の糧として人々を生かすものだという。第二回は、一見すると信仰者にしか関りがないと思われる出来事や奇跡の描写の深い意味を読み解き、生きることを支えてくれるコトバの力を探っていく。
第3回 祈りという営み、ゆるしという営み
【放送時間】
2023年4月17日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2023年4月18日(火)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2023年4月24日(月)午後1時5分~1時30分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】若松英輔(批評家・随筆家)
【朗読】占部房子(俳優)
【語り】小口貴子
イエスはついに自らの目的を果たすべくエルサレムへ入城する。そこで驚くべき行為に出る。力をもって神殿で商いをしている人たちを追い払うのだ。福音書で唯一イエスが暴力を振るう場面だ。「わたしの父の家を商売の家にしてはならない」。イエスにとって神殿は人間の魂そのものだった。そうとらえると私たちにとって「祈り」という営みが何なのかが浮かびあがってくる。また、姦通の罪で捕らえられた女性を糾弾する周囲の人たちに対しては、「罪のない人間だけが石を投げなさい」と告げ、たしなめる。そこには「ゆるし」という営みについての深い教えが込められている。若松さんは、福音書に描かれる「ゆるし」は、人々が互いに光を見出すような和解の営みだという。第三回は、イエスが語る祈りやゆるしという営みを通して、人間が最も大切にしなければならないこととは何かを深く考える。
第4回 弱き者たちとともに
【放送時間】
2023年4月24日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2023年4月25日(火)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2023年5月1日(月)午後1時5分~1時30分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】若松英輔(批評家・随筆家)
【朗読】占部房子(俳優)
【語り】小口貴子
最後の晩餐が終わり、オリーブ山に向かう一同。イエスは弟子たちに全員が自分を見捨てるだろうと告げる。「決して見捨てない」というペトロに対しイエスは「鶏が鳴く前に三度私を知らないというだろう」と語る。自分を裏切るユダに対しても「しようとしていることに取りかかりなさい」と告げイエスは衛兵たちに捕らえられる。イエスはこんなにも弱き弟子たちを愛しゆるしていたのだ。ついに磔刑に処せられるイエス。「わたしの神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」という最期の言葉の意味とは? そして「復活」という出来事は何を意味するのか? いずれもイエスが生涯を通じて弱き者たちとともにあることを証しだてる深い意味が秘められていると若松さんはいう。第四回は、「福音書」の中でも最も重要とされる、弟子たちの裏切り、磔刑、復活の深い意味を読み解き、イエスの生涯が私たち現代人に何を問いかけているのかを探っていく。
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「今日は、『あなたのイエス』に出会ってください」
2018年1月28日にNHK文化センター青山教室で行われた「イエスの生涯―四つの福音書をよむ」という講座で、若松英輔さんが冒頭で述べた言葉です。聞いた瞬間に体に電気が流れるようでした。『あなたのイエス』に出会う? 遠い存在だったイエスを、それぞれの立場で感じてよいのだろうか? やや畏れ多いような気持ちでしたが、『私のイエス』に今日は出会ってみようと思いました。
6時間以上に及ぶ講座でしたが、不思議とあっという間の出来事でした。途中、ワークショップのような形で、グループごとに感想を語り合うようなコーナーもあり、初対面の方々にもかかわらず、奥深い話を語り合うことができました。講座終了後、帰路につく受講者の皆さんの、穏やかで晴れ晴れとした表情が今も忘れられません。
妻と一緒に参加したのですが、講座終了後、開口一番、「今日は『私のイエス』に出会えたような気がする」とつぶやきました。実は、私は、そこまでのことは体験できていなかったのですが、何か奥深いものに一歩踏み込んだような思いをしたのを今もよく覚えています。
それから若松英輔さんの著作「イエス伝」を読み始めました。まずは「新約聖書」からとも思ったのですが、心の中にバリアのようなものがあり、最初の数節を読むと拒絶反応が起こるのです。「こんなことがありうるわけがないじゃないか」。心のどこかで、誰かがそうつぶやきます。
このメンタルブロックのようなものがとれない限り聖書は読めないなと思った私は、若松さんの講座で一歩踏み入れた感触を手掛かりに、まずは「イエス伝」を読むことにしたのでした。この本は、私のような信仰を全くもたない人間にも、驚くほどスムースに聖書の世界へと誘ってくれます。マイスター・エックハルト、柳宗悦、ドストエフスキー等々、私自身が馴染んだ思想家、作家の言葉が縦横にひかれ、イエスの生涯が立体的にみえてきました。とともに、イエスの言葉が、ときどき自分の人生と接続するのです。
とはいえ、「新約聖書」という書物は、とてつもなくて、「100分de名著」で取り上げるのは無理だろう……そんな思いがずっと巡っていました。その後も、個人的な読書は続き、新共同訳版「新約聖書」を読み進めていくことになるのですが、やはりイエスの言葉が胸を貫くことがたびたびありました。
ちょうど「マタイ伝」を読みえる頃でしょうか? 2021年12月21日に若松英輔さんからメールをいただきました。「100分de名著forティーンズ」でトルストイ「人は何で生きるか」の解説をお願いしていた頃のことで、その打合わせについてのやりとりの中で、期せずにして「福音書」を読み直すことの意味深さに少しだけ触れられていたのでした。びっくりするようなタイミングで、そのときに直観的にこう思いました。「もう、逃げられないな」と。
若松さんは強い調子で書かれていたわけではありません。囁くように書かれていたと記憶します。ですが、言葉が強く響きました。「福音書」に今、きちんと向き合わなければならない……。覚悟を決めた瞬間でした。
それからおよそ一か月後の2022年2月1日、オンラインで若松さんとお目にかかり、「福音書」についての取材をさせていただきました。お恥ずかしいのですが、その前日のメールをそのまま引用します。
「正直に告白すると、今回全てを読むことはできませんでした。また、あまり構成らしいものも作れておりません。構成というよりも、「問い」の羅列です。心を動かされつつも、いったい、それぞれの言葉から何を問われているのかが皆目わからないというのが実感ですが、なんともいえない畏怖のようなものは感じられます」
読み終えたのはまだ「ヨハネ伝」の途中でした。が、その前の「ルカ伝」までの3つの福音書だけでも、「慄き」のようなものがとまらなくなっていました。私が出した構成案も、その「慄き」がそのまま書かれていたように思います。それは、まさに「構成要素」などではなく、「問い」をただ綴ったものだったのです。
打合せの冒頭、若松さんの言葉は意外なものでした。「安心いたしました」。そう、おっしゃられたのです。自分が考えていることと、そんなにずれていないとおっしゃられたのでした。私自身は、まだ何も理解できていないとの自覚だったので意外なお答えでしたが、後々にわかってきました。「福音書」とは、まさに「問い」を見つけるための書物だということを、です。おそらく「福音書」は、今、自分自身が置かれている状況を、その状況に応じて、照らし出してくれる書物なのです。
私自身が、もっとも畏怖をもって読み入った箇所は、姦通の罪で捕らえられた女性を糾弾しようとする人々のエピソードです。その女性に石を投げつけようとする人たちに対して、「罪のない人間だけが石を投げなさい」とイエスは告げます。私は、このエピソードを読みながら、はるか過去の記憶を思い出していました。
ディレクターとして脂の乗り切った30代。メディアは正義の言説をもってこの世の悪を切りまくる正しい存在だと思い込んでいた若き日の自分。そこには、驕りが確かにありました。不正を断じて糾弾する……そのことだけに目を奪われ、その事象の背景、本当に弱い立場にいた人の事情、不正を犯した人たちの動機、全体においてやむをえざる入り組んだ状況、それらのディテールをまるで無視して、正義の鉄拳を振りかざす……まことに愚かな自分がそこにいたのです。「罪のない人間だけが石を投げなさい」というイエスの言葉が、私の耳元で聞こえてくるような気がしました。
まだ私には深いところまでは理解できていないかもしれませんが、このシーンには「ゆるし」という営みについての深い教えが込められていると思います。若松さんは、福音書に描かれる「ゆるし」は、人々が互いに光を見出すような和解の営みだともいいます。私は、この「ゆるし」という一点を深く考えることができただけでも、今回、「福音書」を読んで本当によかったと思っています。
まだまだ、「福音書」のあらゆる箇所の言葉が心の中で反響し続けており、言語化できないでいます。ただ、それらの言葉が、今後の自分の人生の中で、糧になっていくという確信だけはあります。こんな書物には今まで出会ったことがありません。
今回は、私の方が無理やり読後感を言語化する意味などないでしょう。皆さんも、それぞれに「福音書」を通して、イエスと出会ってほしいと思います。私は、ようやく(辛うじてですが)、イエスの姿を遠くからみられたという感じがしています。今後も、人生の折々に何度も「福音書」を読んでいくことでしょう。「福音書」は、キリスト教を信仰する人だけではなく、かように万人に開かれた書物なのです。
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