人間にとって「いのちとは何か」「病とは何か」「絶望の中で希望を見出せるのか」といったテーマを真摯に追求した一冊の名著があります。北條民雄「いのちの初夜」(1936)。作者自らハンセン病を患い、世間から隔絶された療養所生活の中で、自らの絶望と向き合いながら、それでも生きていく希望を見出そうという祈りにも似た思いで書かれた小説です。
作者の北條民雄(1914-1937)がハンセン病に罹患したのは十八歳のとき。東京東村山のハンセン病療養所「全生病院」への入所を余儀なくされます。現在では極めて伝染性の低い病であることがわかり治療法が確立しているハンセン病ですが、当時の患者たちは、圧倒的な差別と偏見に晒されていました。一度感染すると社会から完全に隔離され、後は死を待つしかない病とみなされる中、作者の北條は、作品を通して自らの絶望的な状況を見つめぬきました。その果てに北條が見出したのは「苦しみや絶望の底にあってなお朽ちない、いのちの力」。それでも絶望を拭い去ることはできませんでしたが、北條は、最期の最期まで生き抜こうという意志を、執筆を通してつかみとっていきました。
この作品の主人公・尾田は、北條の分身ともいえる存在です。何度も「死のう」と思い自殺を試み続けますが、「いのち」がそれを拒みます。やがて、書くという行為を通して懸命に生きようとする佐柄木という人物と出会うことによって、ぎりぎりの状況で「生きよう」という意志を取り戻していきます。「いのちの初夜」は、極限状況を描いた作品ではあるが、苛烈な競争社会、分断と憎悪の連鎖から免れ得ない現代にあって、私たちがひとたび生きる希望を見失いかけたとき、再生への道筋を照らし出してくれる作品でもあるのです。
番組では、「いのちの初夜」を研究し論文も執筆したという、俳優、作家、歌手の中江有里さんを講師に招き、新しい視点から「いのちの初夜」を解説。「いのちの尊厳」「いわれない差別や偏見がもたらすもの」「死や病との向き合い方」など現代に通じるテーマを読み解くとともに、絶望的な状況の中で人はどのように再生していくことができるかを学んでいきます。
※一部に配慮すべき表現 用語がありますが著者の意図を尊重して原文通り用いています
<各回の放送内容>
第1回 せめぎ合う「生」と「死」
【放送時間】
2023年2月6日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2023年2月7日(火)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2023年2月13日(月)午後1時5分~1時30分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】中江有里(俳優、作家、歌手)…作品に「ティンホイッスル」「水の月」などがある。
【朗読】本郷奏多(俳優)
【語り】島津有理子
ハンセン病に罹患し、療養施設へと向かう主人公・尾田高雄。尾田はそれ以前から何度も自殺を考えながらも思いとどまることを繰り返していた。入所した瞬間、尾田は絶望的な状況に直面する。看護師たちから向けられる差別的な視線、金銭や衣服を取り上げられるという社会からの隔絶。そして自らの未来を見せつけられるような重症患者たちの苛烈な症状。そんな中で、彼は、自らもハンセン病患者であるにもかかわらず、他の患者たちを蔑んでいる自分に気づき愕然とする。第一回は、作者・北條民雄の目を通して、当時のハンセン病者たちが置かれていた過酷な状況を浮かび上がらせるとともに、差別の視線に引き裂かれる主人公の葛藤の意味を深く読み解く。
第2回 「いのち」を観察する眼
【放送時間】
2023年2月13日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2023年2月14日(火)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2023年2月20日(月)午後1時5分~1時30分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】中江有里(俳優、作家、歌手)…作品に「ティンホイッスル」「水の月」などがある。
【朗読】本郷奏多(俳優)
【語り】島津有理子
絶望の只中にあった尾田は、佐柄木という一人のハンセン病患者に出会う。彼は無私ともいえる態度で、甲斐甲斐しく重症患者たちの介護を続ける。だが尾田はそんな佐柄木に嫌悪を感じる。夜になり庭で自殺を試みて失敗するが、その一部始終を佐柄木にみられてしまう。佐柄木は、そんな尾田に「新しい出発をしましょう。それには、先ず癩に成り切ることが必要だ」という意味深長な言葉を投げかけるのだった。第二回は、佐柄木という人物が投げかける問いによって「いのちそのもの」に向き合い始める主人公・尾田の心境の変化を通して、あらゆるものを奪い去られても、ただ一つ残るかけがえのないいのちの意味を考える。
第3回 再生への旅立ち
【放送時間】
2023年2月20日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2023年2月21日(火)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2023年2月27日(月)午後1時5分~1時30分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】中江有里(俳優、作家、歌手)…作品に「ティンホイッスル」「水の月」などがある。
【朗読】本郷奏多(俳優)
【語り】島津有理子
一端は寝つくが悪夢にうなされて目覚める尾田。そこには、過酷な症状の患者たち、そして絶え間ない泣き声や苦しみの叫びがうず巻いている。だが佐柄木は何かを書き続けていた。それは一篇の小説。佐柄木はいままでになかった人間像を描くといい「新しい思想、新しい眼を持つ時、(中略)再び人間として生き復るのです。復活、そう復活です」と尾田に語りかける。やがて散歩に出かける二人。朝の光の中でこの一夜のことを振り返り「生きてみることだ」と尾田はつぶやくのだった。第三回は、佐柄木という人物との語らいから再び生きようとする意志を取り戻す尾田の姿を通して、絶望的な状況の中で人はどのようにして再生していくことができるかを学んでいく
第4回 絶望の底にある希望
【放送時間】
2023年2月27日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2023年2月28日(火)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2023年3月6日(月)午後1時5分~1時30分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】中江有里(俳優、作家、歌手)…作品に「ティンホイッスル」「水の月」などがある。
【朗読】本郷奏多(俳優)
【語り】島津有理子
「いのちの初夜」は文豪・川端康成によって見いだされ雑誌「文學界」に掲載、文學界賞を受賞し芥川賞候補ともなった。一躍時の人となった北條だが、世間からは「ハンセン病作家」「ハンセン病文学」というセンセーショナルな受け取られ方しかされない。その上、北條は二つの危機に見舞われる。症状の進行により将来書き続けられなくなるのではないかという危機と、同じ患者たちの反応が芳しくなく反発を受けていたという危機だ。施設での厳しい検閲も相まって北條の足場は揺らぎ続ける。だが、それら危機の自覚に導かれ、患者の「断種問題」に踏み込んだ傑作が結実する。第四回は、さまざまな危機に直面しながらも、そのせめぎ合いの中で生きる意味を求め続けた北條の姿を通して、降りかかる困難の意味を深めゆく人生のあり方を学ぶ。
ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ
今回の北條民雄「いのちの初夜」シリーズは、ひとえに出演者の皆さんに助けられてこそ、成り立ったシリーズでした。何よりも、卒業論文のテーマに、北條民雄の文学を選んで研究し、その後もさまざま形でハンセン病についての発信を続けてきた俳優・作家・歌手の中江有里さんの尽力が大きかったです。その真摯な読みには胸を打たれました。その解説を受けて、心揺さぶられながら、北條民雄の文学からもらった衝撃や感動を自分の言葉でなんとか表現しようと模索してくれた、司会の伊集院光さん、安部みちこアナウンサー。そして、医学生としての学びのさなかで、いのちの重みを感じさせてくれるような凛としたナレーションをつけてくれた島津有理子さん。胸の奥に響き渡るような、心のこもった朗読をしてくれた本郷奏多さん。出演者の皆さんに心から感謝します。
ハンセン病やハンセン病文学について、あるいはハンセン病を巡る現在進行形の問題について、懇切丁寧に事実確認や助言を行ってくださった関係者の皆さんにも、心から感謝いたします。その御恩はこれからもずっと忘れないでしょう。
私自身は、まだまだ全く学びが足らず、ハンセン病の問題、ハンセン病文学の本質、北條民雄の文学性等々について理解が全然及んでいないことを思い知らされました。北條民雄「いのちの初夜」は私の人生を支えてくれた一冊ではありますが、私には、北條民雄の作品を語れる資格は、まだまだないと思います。これから、一生涯かけて、少しずつでも、ハンセン病の問題、ハンセン病文学について、学び続けていきたいと思います。そして、いつの日か、今も差別や偏見に苦しみ続けている当事者の皆さんのためになるような仕事ができれば、と決意しています。
ハンセン病について学べる施設や資料館が全国各地にあります。魅力的な展示や企画展も行われていますので、この番組をきっかけに興味をもっていただいたら、ぜひ足をお運びください。ハンセン病の問題が今も現在進行形の問題だということを学ぶことができます。
※番組内、ホームページ内に、一部配慮すべき表現・用語が出てきますが、作者の意図や時代背景を尊重し、そのまま用いています。
ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ
『いのちの初夜』見逃した方はNHKオンデマンドへ※別タブで開きます