世界で最も有名な名探偵、シャーロック・ホームズ。どんな難事件も持ち前の推理力でたちどころに解決する鮮やかな探偵ぶりは、鹿打ち帽、インヴァネスコート、パイプ、虫眼鏡といったいでたちともに、世界中の人に愛され、今も、ドラマ、映画、ゲーム、漫画などで二次創作が続けられています。生みの親は、アーサー・コナン・ドイル(1859-1930)。19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した人気作家です。元医師という経歴から発する人間洞察に裏打ちされた作品群には、単なるエンターテインメント小説の枠を超えて、「人間とは何か?」を問いかける深いメッセージにあふれています。そこで番組では、全シリーズからとりわけ人間洞察が透徹したエピソードを精選し、「人間の暗部や弱さ」「ささいな出来事に潜む犯罪の恐ろしさ」「人間の思考力・推理力の可能性」…といった奥深いテーマをあらためて見つめなおします。
作品の多くは事件の当事者や捜査に行き詰まった警察がホームズに助けを求め訪ねて来ることから始まります。ホームズは現場に調査に赴き、警察の見過ごした物証を発見し鮮やかな推理力を働かせて、事件の謎をことごとく解き明かしていきます。多くのケースが相棒であるワトスンによる事件記録という形で書かれますが、そこに浮かび上がるのは謎解きの答えだけではありません。憎悪や嫉妬がからみあう人間関係のもつれ、欲望に勝てず犯罪に手を染めてしまう平凡な人間の弱さ、善人の中に潜んでいる心の暗部……等々、私たち現代人も日々直面している人生の問題が露わになっていきます。「名探偵」とは、そうした人間に関する普遍的な問題を炙り出していく「文学装置」なのです。
番組では、イギリス文学研究者の廣野由美子さんを指南役として招き、シャーロック・ホームズ・シリーズのを分り易く解説。代表作8冊に現代の視点から光を当て直し、そこにこめられた【人間論】や【犯罪論】【文学論】など、現代の私達にも通じる普遍的なテーマを読み解いていきます。
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<各回の放送内容>
第1回 名探偵の誕生
【放送時間】
2023年9月4日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2023年9月5日(火)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2023年9月11日(月)午後1時5分~1時30分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】廣野由美子(京都大学教授)…著書に「ミステリーの人間学」など。
【朗読】山寺宏一
【語り】小口貴子
名探偵ホームズが世に初めて登場した作品「緋色の研究」。ささいな外見の特徴から初対面のワトスンをアフガニスタン帰りの軍医だと見抜くホームズの推理力に読者たちは喝采を浴びせた。世界で最も有名な名探偵誕生の瞬間である。実はこのホームズには実在のモデルがいた。コナン・ドイルが医学生時代に出会ったジョゼフ・ベル教授。患者の表情や身体の様子からたちどころに病状を言い当てるベル教授からドイルはホームズを発想する。当時のロンドンは「切り裂きジャック事件」など猟奇的な事件が横行、不安に駆られた人々はそんなホームズに待望のヒーロー像をみたのだ。第一回は、ホームズ・シリーズの執筆背景を探りながら、どのようにしてこの名探偵が誕生したのか、そして人々の圧倒的な支持を受けたのはなぜかを考察する。
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第2回 事件の表層と真相
【放送時間】
2023年9月11日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2023年9月12日(火)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2023年9月18日(月)午後1時5分~1時30分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】廣野由美子(京都大学教授)…著書に「ミステリーの人間学」など。
【朗読】山寺宏一
【語り】小口貴子
赤毛の人だけを募集して不思議な仕事を依頼する奇妙な出来事の裏に巨大な犯罪が潜んでいたという顛末を描く「赤毛組合」。怖ろしい誘拐事件にみえた犯罪が、実は妻に自分の秘密を隠すために行われた夫のとっさの行為だったことを描く「唇のねじれた男」。些細な出来事の裏に大きな犯罪があり、重大事件と思われた出来事が実は平凡な人間の弱さから発しているという皮肉。こうした事件の表層と真相の反転を見事に描くのがホームズ・シリーズの特徴だ。第二回は、作品に描かれた事件の表層と真相を読み解き、人生や出来事が一筋縄ではいかない多層的なものだというコナン・ドイルの洞察に迫っていく。ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ
第3回 ホームズと女性
【放送時間】
2023年9月18日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2023年9月19日(火)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2023年9月25日(月)午後1時5分~1時30分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】廣野由美子(京都大学教授)…著書に「ミステリーの人間学」など。
【朗読】山寺宏一
【語り】小口貴子
王族スキャンダルの物証を取り戻そうとするホームズの裏をかき名探偵に苦杯をなめさせるアイリーン・アドラーの活躍を描く「ボヘミアの醜聞」。恐るべき児童虐待にみえた母親の行為が実は我が子を守ろうとする強烈な母性愛から発したものだったことが判明する「サセックスの吸血鬼」。ホームズ・シリーズに登場する女性たちは単なる添え物ではなく、確固とした自我をもち、ときにホームズを驚かせるような知性や行動力を発揮する。生き生きとした女性たちの活躍が作品に大きな魅力を与えているのだ。第三回は、19世紀後半~20世紀初頭の時代背景も交えながら、コナン・ドイルがなぜこうした女性像を描きえたのかを探っていく。
第4回 人間性の闇と光
【放送時間】
2023年9月25日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2023年9月26日(火)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2023年10月2日(月)午後1時5分~1時30分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】廣野由美子(京都大学教授)…著書に「ミステリーの人間学」など。
【朗読】山寺宏一
【語り】小口貴子
幸せそのものだった夫婦が、ある人物の嫉妬による謀略で崩壊し憎悪の連鎖を生み出していく様を描いた「ボール箱」。数多くの状況証拠から父殺しは間違いないとみなされた息子の冤罪を晴らす「ボスコム谷の謎」。ホームズが発揮するのは冷徹な推理能力だけではなく、人生の機微を知り抜き、人間性の底に潜む闇と光を鋭く炙り出していく「人間学」の精華ともいうべき洞察だ。「名探偵」という設定はドイルが仕掛けた人間性の深みを照らし出す「文学装置」なのだ。第四回は、人間性の闇と光を浮かび上がらせる作品の魅力を通して、探偵小説やミステリーを「人間学」としても読み解ける可能性に迫っていく。
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「シャーロック・ホームズ」シリーズはもちろん少年時代から大ファンだった。とりわけ夢中になったのは中学生時代、ようやく読書というものが習慣になりはじめた頃だったが、ホームズ作品だけは別格で、読書習慣などとは関係なく、とにかく次の作品を読みたいと貪るように読んだものだ。
これほどまでにファンなのに、「100分de名著」で取り上げるのはいささか遅すぎたのではないか、とお感じになる方もいらっしゃるだろう。だが実態は違った。これほどまでにスリリングで読みやすく、エンターテインメント色あふれる作品を今さら解説する必要はないのではないかと思い続けていたのだ。
一篇の作品との出会いが、そんな思いを変えてしまった。「ボール箱」という短編である。ドイル生前の版とアメリカ版とでは「シャーロック・ホームズ 最後の挨拶」に収録されているが、近年のイギリス版では「シャーロック・ホームズの思い出」に収録されている。不倫を題材にした作品のため、ドイルが単行本にいれるかどうかを逡巡した作品だからだともいわれる。おそらく少年時代の私は、幾つかのバージョンの訳を読み重ねていったため、どうやらこの「ボール箱」に気づかないまま、全部読んだ気になっていたのではないかと思われる。
一読、心を撃ち抜かれた。トリックの面白さや推理の見事さに、ではない。「人間の本性の恐ろしさ」にだ。そして、それが個人を超えてうねるように周囲を巻き込んでいくさまに戦慄した。とりわけ「嫉妬」という感情の恐ろしさに打ちのめされたのだ。ドイルは、名探偵という「文学装置」を用いて、なんと鮮やかに、その不条理を暴き出したものか。私がホームズ作品の文学作品というセンスを思い知る体験となった。
さて、講師選びである。ホームズの面白さを教えてくれた、数々のシャーロッキアンによるホームズ研究書がまず頭に浮かんだ。こうしたシャーロッキアンの皆さんを私は限りなくリスペクトしている。だが、誰もが気づかないトリビアや物語間の関連性、知られざる背景を暴き出すことで執筆動機に迫っていく手法……ホームズファンにはこたえられないこうした魅力的な記述は、「100分de名著」という番組にはそぐわないのではないか。そうした魅力を伝える番組は、これまでもたくさんあったし、数多く書籍化もされているからだ。
「ボール箱」に出会って再発見した「ホームズ作品の文学としての魅力」を浮き彫りにすること。そのためには、シャーロッキアンを起用するのではなく、同時代の文学状況にも詳しく、なおかつ作品を熱烈に愛読し、さらには、私のようなオタクな興味に引きずられない俯瞰的な視点をもった研究者を起用する……そうした理想イメージを心に描きながら講師候補を探し続けた。その中で出会ったのが「ミステリーの人間学」という本だった。ホームズに割いた紙幅こそ少なかったが、「名探偵」というものを、人間の本性や闇を浮かび上がらせるための「文学装置」ととられる視点、ミステリーを人間性探究のための一つの方法として分析している手法が、私の関心と深く一致した。
早速、著者の廣野由美子さんをお訪ねすることに。上述の「ボール箱」の感慨を最初に話させていただいたのだが、廣野さんもすぐに読んでくださり、私の視点に深く共鳴してくださった。今回の企画作りの面白さは、何よりも、何度も廣野さん直接対面して、ああでもない、こうでもないという作品セレクトのためのブレインストーミングしていくプロセスにあった。
さまざまな視点や論点が交錯したが、私の希望は、「ボール箱」における人間の闇に迫るドイルの視点、「ボヘミアの醜聞」「サセックスの吸血鬼」における自立した女性描写の秀逸さ…この二つは、ぜひテーマに選びたいというものだった。廣野さんは、人間性の闇に迫るとしたら、光にも迫りたいということで、冤罪を晴らす「ボスコム谷の謎」を取り上げることを提案してくださった。そして、ホームズ作品における女性描写については、同時代のシャーロット・ブロンテ作「ジェイン・エア」の事例などを引き合いに出しながら、比較文学的な視点から、その特徴を浮き彫りにするというアイデアを出してくださった。おかげでシリーズ全体が立体的に仕上がっていった。廣野さんには深く感謝したい。
番組制作を担当したKディレクターにも深く感謝したい。番組テキストには出てこないが、当時のロンドンの階層差を示す分布地図を探して出してくれたおかげで、なぜホームズが住んでいるのがベーカー街なのか、「唇のねじれた男」が描かれた場所の意味などについて、深い示唆をもらうことができた。廣野さん取材後に、Kディレクターとざっくばらんにホームズの魅力を語りあう機会があり、そこでいろいろなアイデアが生み出されてこうしたこうした数々の出来事によって、ホームズ作品が、異なった側面から読み直す可能性を開くことができたのではないかと思っている。
以上のように、番組制作というのは、大きな共同作業であり、人と人との出会いによって、幾重にも可能性が広がっていく。今回は、廣野さんと、Kディレクターを代表者として挙げさせていただいたが、多くの関係者の交響楽ともいえる番組制作は、ささやかで小さな出会いから、思わぬ大きなアイデアが生み出されていくことも多々ある。
ホームズもワトソンという最良のバディと出会い、互いに刺激をし合い、新たな発見をしていく。それは、事件に巻き込まれた作中人物も同じだ。ホームズに事件を解決してもらうことで、あるいは、そうでなくても、関わり合いをもつことで、人生を大きく変えられていくケースもある。
思えば、文学作品の読解という営為も同じようなことが多々あるのではないだろうか。読み継がれていく中で、さまざまな読み手が、それぞれの出会いの中で、新たな解釈を生み出し、それが連鎖していく。「100分de名著」という番組も、そうした連鎖を作り出す一つの大きなきっかけづくりになればと願ってやまない。
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