名著136「偶然性・アイロニー・連帯」

NHK
2024年1月30日 午後7:02 公開

「トランプ現象」を予言したとして、SNSで大きな反響を巻き起こした哲学者がいる。リチャード・ローティ(1931-2007)。現代アメリカを代表する哲学者であり、現代哲学界で最も多くの論争を巻き起こした人物と評される。彼が哲学の新たな役割を提示し、あるべき社会の在り方を論じた名著が「偶然性・アイロニー・連帯」(1989)だ。SNSによる社会の分断、ポピュリズムによる民主主義の劣化など厳しい局面に立たされている私達現代人は、どんな社会を構想し、どんな言語空間を創出していけば問題解決につながっていくのか? ローティの哲学を手掛かりに、その解決の道筋を探っていく。

ローティは、伝統的な哲学を葬り去った哲学者ともいわれる。古代ギリシャに端を発し、デカルト-カントによって完成されたとされる近代哲学は、「究極の真理を見出し、それによってすべての学問や知を基礎づけ直す」という野望をもっていた。しかし、ローティはそんな「基礎づけ主義」は百害あって一利なしであり、社会に深い分断をもたらすだけだという。人類にとって特権的な知など存在せず、あらゆる「語り」「ボキャブラリー」は同等であり、それぞれに尊重されるべきものだと主張するのだ。

近代哲学が生み出した「基礎づけ主義」による悪弊は、旧ユーゴにおける民族浄化やルワンダ内戦における虐殺など、さまざまな事象に影響することがありうるという。「理性をもつ存在こそ人間」という近代哲学のロジックは、容易く「西欧近代が基礎づけた理性をもたなければそれは人間ではない」というロジックにすり替えられていく。このことがまかり通ると、ヘイトスピーチや虐殺が簡単に正当化されてしまうとローティは警告するのだ。ローティは、今後の哲学者の役割は、「真理探究」のような大仰なものではなく、歪んでしまった「語り」や「言説」に対して、「治療的」に働きかけることだと訴える。それは、哲学を、社会に開かれたものにしていくローティの戦略でもある。

番組では、朱喜哲さんを指南役として招き、現代アメリカ哲学を代表する名著「偶然性・アイロニー・連帯」を分り易く解説。ローティの哲学を現代社会につなげて解釈するとともに、それを元にしたあるべき社会像を深く考えていく。

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<各回の放送内容>

第1回 近代哲学を葬り去った男

【放送時間】
2024年2月5日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ

【再放送】
2024年2月6日(火)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2024年2月12日(月)午後1時5分~1時30分/Eテレ

※放送時間は変更される場合があります

【指南役】朱喜哲(大阪大学招聘教員)…番組「日本のジレンマ」で論客として活躍。著書に「〈公正〉を乗りこなす」等がある。

【朗読】戸田恵子(俳優)

【語り】八田知大(NHKアナウンサー)

ローティは、西欧哲学の流れを俯瞰し、その根本動機が「究極の真理を見出し、それによってすべての学問や知を基礎づけ直すこと」にあると分析。だが、そのような「基礎づけ主義」「本質主義」は、価値感が多様化した現代にあっては百害あって一利なしと批判する。あらゆる知がそれぞれの地域や時代によって育まれた「偶然的なもの」であるという事実を直視し、そこから哲学の新たな役割を創り出さなければならないと主張するのだ。それは、多様な価値観がせめぎあう社会の中で、歪んだ「語り」や「言説」に治療的に働きかけるという役割だ。第一回は、哲学者ローティがどのようにして近代哲学を葬り去ったかを明らかにしながら、「基礎づけ主義」の何が問題なのか、そこから解放された時どのような社会ビジョンが開かれるのかを考える。

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第2回 「公私混同」はなぜ悪い?

【放送時間】
2024年2月12日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ

【再放送】
2024年2月13日(火)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2024年2月19日(月)午後1時5分~1時30分/Eテレ

※放送時間は変更される場合があります

【指南役】朱喜哲(大阪大学招聘教員)…番組「日本のジレンマ」で論客として活躍。著書に「〈公正〉を乗りこなす」等がある。

【朗読】戸田恵子(俳優)

【語り】八田知大(NHKアナウンサー)

「公私混同はよくない」とされる常識に反して、社会のあらゆる領域で公私は混同され続ける。芸能人の不倫スキャンダルが正義のもとに断罪されジェンダー的に不適切なポスターが公共空間を彩る社会……現代社会は「公的なもの」と「私的なもの」が入り混じる。ローティは、公私の区別こそが民主主義の基盤となると主張し「バザールとクラブ」というモデルを提示。私的な仲間内の「クラブ」ではいかなる奇抜な趣味、異常な趣向をもっていても同好の士の間で共有されるが、そこから一歩外へ出ると自分の基準からは許しがたい価値観の人々も交錯する「バザール」が広がると考える。「バザール」内では公共的な規範やマナーが重視されるべきで、そこを整備することこそ哲学の役割だとするのだ。第二回は、現代社会において「公」と「私」をきちんと立て分けることがなぜ大切かを明らかにし、民主主義の基盤となりうるような公共空間をどのように作っていけばよいかを考える。

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第3回  言語は虐殺さえ引き起こす

【放送時間】
2024年2月19日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ

【再放送】
2024年2月20日(火)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2024年2月26日(月)午後1時5分~1時30分/Eテレ

※放送時間は変更される場合があります

【指南役】朱喜哲(大阪大学招聘教員)…番組「日本のジレンマ」で論客として活躍。著書に「〈公正〉を乗りこなす」等がある。

【朗読】戸田恵子(俳優)

【語り】八田知大(NHKアナウンサー)

ローティは伝統的哲学によって基礎づけられた「人権」という概念に疑義を呈する。それは暴力を阻止するどころか助長することもありうると警告するのだ。「理性をもつ存在こそ人間」という近代哲学がロジックは「理性をもたなければそれは人間ではない」というロジックに容易くすり替えられる。ルワンダでは敵対する部族を「ゴキブリ」「蛇」と名指さすことで虐殺のハードルが著しく下げられ非道な殺戮が横行した。「虐殺の言語ゲーム」として分析されるこうした事例を、ローティは「残酷さの回避」という新たな概念によって抑止しようとする。第三回は、ヘイトスピーチや虐殺を生み出してしまう言葉遣い、ボキャブラリーのメカニズムを解剖し、どのようにしたらそうした事態が避けられるかを明らかにしていく。

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第4回  共感によって「われわれ」を拡張せよ!

【放送時間】
2024年2月26日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ

【再放送】
2024年2月27日(火)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2023年3月4日(月)午後1時5分~1時30分/Eテレ

※放送時間は変更される場合があります

【指南役】朱喜哲(大阪大学招聘教員)…番組「日本のジレンマ」で論客として活躍。著書に「〈公正〉を乗りこなす」等がある。

【朗読】戸田恵子(俳優)

【語り】八田知大(NHKアナウンサー)

ローティは、マイノリティの権利獲得の裏で相対的な権利剥奪感を抱く白人労働者層が「自分たちこそ弱者だ」と叫び強力なリーダーを求める可能性を導き出し、「トランプ現象」を予測したとして高く評価された。マイノリティを救うはずの「アイデンティティの政治」が逆用される現象だ。ローティは、文学やルポルタージュを使って他者への共感能力を育て「われわれ」という意識を拡張し続けるという処方箋を提示する。第四回は、「トランプ現象」や「ポピュリズム」等の現代社会の問題に対して、哲学はどのような処方箋を用意できるのか、ローティが理想として掲げる「リベラルな社会」とはどのようなものなのかを探る。

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☆番組プロデューサーAが、番組内容に即して、今回の番組のこぼれ話をご紹介します。

歪んだ言語空間に「治癒的に」働きかける哲学

「どうしてローティの哲学なの? 全然知らない哲学者なんだけど……」

今回ほど、こんな質問を周囲から受けたことはないかもしれない。当然といえば当然だろう。リチャード・ローティという哲学者は、世間的にはあまり知られていない(哲学界では本流の一つだが)英米の分析哲学・言語哲学の系譜に属する哲学者だから。しかも、その分析哲学・言語哲学の中でも、最も異端視されている哲学者なのだ。なにしろ、「哲学と自然の鏡」という前期の主著で、それまで連綿と積み上げられてきた分析哲学を(他の伝統的哲学も含めて)全否定するような荒業をやってのけた人なのだから。

そんなこともあってか、今回講師を担当してくれた朱喜哲さんと最初にお会いしたときに、解説してみたい哲学者の候補として真っ先にあがったのは、ジョン・ロールズだった。ロールズは、20世紀の政治哲学の一大パラダイムを築いた人だから、ローティよりもはるかにビッグネームである。彼の主著「正義論」を取り上げれば、誰も文句はいわないだろう。わかっていたのだ、そんなことは。

ところが、私が口走ってしまったのは、「リチャード・ローティを取り上げるという案はどうでしょう?」という言葉だった。朱さんも意外だと思ったことだろう(そんな表情をされていた)。だが、私は、今こそローティの哲学を読むべき時代なのではないかと感じていたのだった。ちょうどローティ著「リベラル・ユートピアという希望」という本を読み直していた最中だった。

この論集に収められている「トロツキーと野生の蘭」という自伝風エッセイが個人的に大好きだった。ローティの人柄が伝わってくるとともに、ここで展開されている論点を使えば、公と私が錯綜するSNSに代表される現代の言語空間を批判的に見つめる際にとても大事な論点を与えてくれるのではないかと直観していたのだった。それ以外にも、時事的な問題と格闘している論考も多々あった。読み続けながら思い起こしていたのは、ウクライナ戦争による惨状、そしてその後(すでに番組制作がかなり進行中の時のことだ)に起こる、イスラエルによるガザ攻撃のことだった。戦争を抑止するために、哲学の言説が何らかの形で資することができないか、そんなこともずっと考えていた。

そんな最中での朱さんとの出会いである。朱さんが、実は、ロールズよりもローティに心惹かれていることは、WEB上で連載していた「〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす」という論考(現在は、同名で単著して公刊)を読んでいて、うっすらとは認識していた。この論考を読んでローティを本格的に論じられる若手研究者は稀有だろうとも思った。この出会いを活かさないではいられないとも思った。

そんな意図も裏にはあって、選書はローティで検討してみようということになり、この打ち合わせは一端終わった。それぞれにどの本を選ぶか再検討することになった。主著の一つである「偶然性・アイロニー・連帯性」も私の頭の中をよぎったが、具体性重視の私は、あくまで「リベラル・ユートピアという希望」推しだった。だが、最終的に、詳細なプロット案を作ってくれた朱さんが提案したのは、「偶然性・アイロニー・連帯性」だった。そのプロット案には、抽象度の高いこの著を補うように、先に挙げた「トロツキーと野生の蘭」や孫弟子のリン・ティレルによる「ルワンダ内戦」の分析、ローティの人権論、トランプ現象を予測した論考などが組み込まれていた。

なるほど! この手があったか! 抽象度の高い本を、他の具体度の高いローティの論考によって補っていくこと。この方法を使えば、ローティ哲学の全体像がわかりやすく俯瞰できる。これこそ、最適な入門になるのではないか。このプロット案を読んで私の心は決まった。もちろん知名度の低さなど企画を通すハードルはいろいろある。が、こうした論点が展開できれば、現代社会とも切り結ぶことができるはずだ。当初、心を占めていた「哲学が戦争の抑止にどう資することができるか」という部分にも切り込める。

ここでは詳細は記さないが、朱さんと相談しながら、研究者らしいエッジの効いた表現を一般の人にも伝わるように翻訳しつつ企画書を作成。私の理解の及ばないところもあったかと思うが、嬉しいことに企画書で書いた各回タイトルは、多少の変更はあったが、ほぼ私の原案が採用された。ローティ・ファンとしては、これは嬉しかった。「トランプ現象の予言者」といったキャッチ―な文言も効果的に使うことで、企画はなんとか採択されたのである。

最初から名著として揺るがない地位を築いている本を取り上げるのも、もちろんよい。だが、年に一回くらいは、あまり光が当たってこなかった名著に再び光を当てて、その魅力を知らしめることが必要ではないか……それこそがメディアができる最大の役割だと常々思ってきた(最近は視聴率優先の流れが強く、なかなか実現することは困難になってきたが)。私にとっては、90年代前半あれだけ話題になっていたにもかかわらず、今や主著すらが絶版になってしまっているローティの可能性を再び押し広げること…それこそが今回の最大の目的だった。

朱さんは、「日本のジレンマ」に続いて、おそらく二度目のテレビ出演。だが、そんなことを全く感じさせない、よどみなく明快な解説を果たしてくれた。SNS等での反応からも伝わってくるが、ローティの哲学をここまで身近に感じさせてくれることは未だなかったのではないかと思う。そして、何よりも今回は、テキスト編集チーム、番組制作チームのチームワークが力を発揮した。「難解な著書だからこそわかりやすく、だが、原典の意図を曲げないように」という強い志が、すべてのプロセスに貫かれていた。関係者すべてに深く感謝したい。

番組やテキストの内容が完璧なので、内容面については私のほうで付け加えることはほとんどない。これ以上のローティ哲学入門書はほかにないし、番組も合わせて、繰り返しご覧いただければ(NHKオンデマンドで配信中だ)、ローティ哲学の基本は間違いなく、きちんと学ぶことができる。私が最後に申し上げたいのは、学ぶだけで終わることなく、現実生活、現実社会の言語空間を、ぜひローティの視線から見つめ直してほしいということだ。ローティは、今後の哲学の使命は、絶対的な真理の探究やそのための体系構築などではなく、歪んだ言語空間に「治癒的に」働きかけることだという。SNSに代表される現代の言語空間は、「歪み」に溢れている。ローティ哲学という鏡に照らしてみると、それがどう歪んでいるのか、どう治癒していけばよいのか、最良のヒントが得られるはずだ。これを活かさない手はない。今回の番組とテキストをそんな風に活かしていただければ、プロデューサーとして、これ以上の喜びはない。

謝辞

大学時代は、現代フランス思想を選考していたが、二年生までは、圧倒的な英米系の分析哲学・言語哲学のシャワーを浴び続けていた。80年代当時の熊本大学文学部哲学科哲学コースは、いわば英米系分析哲学の拠点ともいうべき場所だった。論理記号などを駆使して、徹底的して論理的につめていくスタイルの分析哲学には苦手意識が強く、私自身はずっと落ちこぼれ的存在だった。だが、わからない中にもずっと知的好奇心はうずき続けていた。プラグマティズム研究の草分け・魚津郁夫先生、ダメットやオースティンの講読でご一緒させていただいた飯田隆先生(あの「言語哲学大全」の著者だ!)、ヴィトゲンシュタインの研究者・高橋隆雄先生、C・S・パースの研究者・大杉佳弘先生。彼らから受けた学恩がなければ、ローティという哲学者の名前さえ知らなかっただろう(なぜ最初に取り上げる英米系哲学者がローティなんていう異端者なんだ!とお叱りを受けそうだが)。深い感謝を捧げたい。もちろん、本当の恩師は、他に(つまり現代思想系に)いるのだが、それはまた別の機会に。

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