亜欧堂田善 「大日本金龍山之図」 文化年間(1804〜18)頃 須賀川市立博物館蔵
日曜美術館HPでは放送内容に関連した情報を定期的にお届けしています。こちらは2/5放送「“日本に生まれたオランダ人” 亜欧堂田善」に合わせたコラムです。番組では「日本に生まれたオランダ人」と賞賛された江戸時代の絵師、亜欧堂田善の油絵や銅版画を紹介しましたが、HPでは日本における「洋風画」の系譜について説明しています。こちらもあわせてどうぞ。
西洋絵画における遠近法の開発
亜欧堂田善 『銅版画東都名所図』のうち「三囲眺望之図」 文化元〜6年(1804〜09)頃 須賀川市立博物館蔵
亜欧堂田善の作品が「洋風画」と解釈される一番のポイントは西洋的な遠近法が採り入れられていることです。そもそも西洋画においては、13〜14世紀にチマブーエやジョットといったイタリアの画家が「線遠近法(透視図法)」※を取り入れ始めたのがきっかけです。その後、15世紀初めに同じくイタリアの建築家、ブルネレスキが線遠近法を論理的に説明することを可能にし、以来ルネサンスの画家たちにとって線遠近法を使った絵画表現がスタンダードになっていきました。イタリア以外にも遠近法は広がり、たとえばフランドルの画家、ヤン・ファン・エイクの代表的な作品「アルノルフィーニ夫妻の像」は線遠近法の表現が印象的な一枚でもありますが、1434年の作品です。
※線遠近法(透視図法)……画面上の任意の一点に向かって複数の線を集約させ、その線に沿って手前から奥に向かってものを小さくするように描いていく手法のこと。
亜欧堂田善 「自上野望山下」 文化元〜6年(1804〜09)頃 神戸市立博物館蔵
さらにレオナルド・ダ・ヴィンチはそれまでの線遠近法に加えて、遠方にある対象物は淡い色合いで描き境界線はぼやかす「空気遠近法」を探求し、併用するようになりました。もっとも、空気遠近法は必ずしも西洋の表現ということではなく、東洋の水墨画などでも古くから用いられていました。また山水画などに顕著なように、東洋においては遠いものを上に、近いものを下に描くという上下法など、独自の遠近法は存在していました。
日本における「洋風画」の系譜
そうした特徴を備えた西洋絵画の表現はいつ頃から日本に入り、また日本人が模倣するようになったか。言い換えると「洋風画」はいつから始まったのかと言えば、まずその第1期はキリスト教の宣教師が日本に上陸した16世紀。このときに日本人は油絵具や線遠近法の表現を目にすることとなりました。
亜欧堂田善 『銅版画東都名所図』のうち「品川月夜図」 文化元〜6年(1804〜09)頃 須賀川市立博物館蔵
第2期は17世紀。鎖国のなか、唯一長崎の出島が海外との交易拠点となります。そこで日本人が触れる機会があったのがオランダの書籍で、本の中には銅版画が挿絵として使われていました。それらを参考に遠近法を始めとした洋風表現を学んだ一人が、蘭学者で知られる平賀源内です。源内が洋風画を学習したのは1760年代頃と思われます。
さらに、平賀源内から手ほどきをうけた秋田の絵師・小田野直武が中心となって洋風画のムーブメント「秋田蘭画」が花開いたのは1770年代です。
同じ頃、もともと狩野派や錦絵を学んでいた司馬江漢も源内との交流をきっかけに洋風画に傾倒するようになりました。見よう見まねながら腐食銅版画を日本で初めて完成させた人物は司馬江漢で、1783年のことです。
亜欧堂田善 「両国図」 寛政年間(1789〜1801)後期〜文化年間(1804〜18)頃 秋田市立千秋美術館蔵
そして亜欧堂田善。田善が松平定信によって才能を見いだされ、その命を受けて洋風画を集中的に制作したのは1790年代から1810年代の20年あまり。銅版画は最初、司馬江漢に師事しようとしたようですが叶わず、その後海外の書物の翻訳などを頼りに技術をものにしました。その精緻な技と表現力に対し、司馬江漢は考えを改め「日本に生まれし阿蘭陀人なり」と評価しました。主君の松平定信はその作品を見て「亜欧両大陸を眼前に見る心地す」と賞賛したそうです。
また田善は油絵も手掛けていますが、当時本物の油絵具も入手することはできませんでしたから、文献などを元にしながら日本にある素材から独自に絵具を作ったとされています。
「浮絵」や「眼鏡絵」
なお線遠近法を使った絵画表現は、1740年代頃、浮世絵師の奥村政信もチャレンジしていました。一点透視図法を採り入れて芝居小屋などが奥行き豊かに表された一連の作品。これを「浮絵(うきえ)」と名付け流行らせました。1770年代には歌川豊春も浮絵を積極的に手掛けています。歌川豊春の活躍は亜欧堂田善にとって同時代の動きであり、田善が江戸の名所を描くにあたって豊春の浮絵も参考にしていたことがわかっています。
亜欧堂田善 「江戸城辺風景図」 寛政年間(1789〜1801)後期〜文化年間(1804〜18)前期頃 東京藝術大学蔵
「浮絵」に似たものとして「眼鏡絵」というからくり絵も同時期に興りました。45度にかたむけた鏡に絵を写し、それをレンズごしに覗くと立体的に見えるというトリックアートで、庶民の間で流行しました。同じく一点透視図法を用いることで奥行き感を強調するのが眼鏡絵の特徴でした。眼鏡絵を得意にして多く手掛けた画家のひとりは、円山応挙です。
こうして次第に社会に浸透するようになっていった西洋由来の線遠近法はその後、北斎や 広重らの風景木版画などでも使われるようになっていきました。
「洋風画」と「洋画」の区別
参考とした書籍などはあったにせよ、あくまで見よう見まねで油絵や銅版画を模倣したのが「洋風画」。亜欧堂田善はその大成者であると言って過言ではないでしょう。そして時代は江戸から明治へ。開国の後、日本人は実際にヨーロッパに渡り本物の西洋絵画を見ることができ、本物の油絵具を使って西洋風の絵を描くこともできるようになりました。こうして「洋風画」でなく、「洋画」の時代の幕が開けたのでした。
展覧会情報
◎展覧会「没後200年 亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡」は千葉市美術館(千葉)で2/26まで開催中です。