イラク戦争の舞台裏で何が 元外交官・岡本行夫の秘蔵資料

NHK
2023年4月24日 午後3:00 公開

安全保障政策が議論の焦点となっている日本。自衛隊の活動範囲拡大の大きな契機になったのが、20年前のイラク戦争だ。NHKは、その政策決定過程が記された資料を独自に入手。3年前に亡くなった元外交官の岡本行夫氏のものである。資料と証言から、アメリカの同盟国として戦争にどう対応するか、苦悩した舞台裏が明らかになった。

(ニュースウオッチ9 平尾崇)

小泉内閣で総理大臣補佐官や内閣官房参与を務めた岡本行夫氏。日米外交に長く従事した元外交官としての経験を生かし、政権の中枢で政策決定に関わった。

「9.11以降、米国は戦争体制である」_「米政府は全体が戦争準備に取組み中」_

(岡本氏の資料より)

アメリカの武力行使が現実味を帯びる中、ドイツやフランスなどの西側諸国は、大量破壊兵器保有の証拠が不十分だなどとして武力行使に反対。こうした中、日本はアメリカの同盟国としてどのような立場をとるか、難しい対応を迫られていた。

実は岡本氏は開戦前、アメリカの武力行使に対して、多くの市民を巻き込み、中東地域を不安定化させるとして強く反対していた。しかし、武力行使が避けられない以上、アメリカの支持を打ち出すことが日本の国益になると、苦悩の末に考えるようになったのだ。そして岡本氏は、小泉総理大臣にいち早いアメリカ支持の表明を進言した。今回入手した岡本氏の資料には、その詳細が記されている。

「武力行使が始まれば日本は米国を支持する他に選択肢なし」

「対米関係で決定的に重要なのは戦闘開始日の総理の第一声」(岡本氏の資料より)

2003年3月20日、アメリカは、国連安全保障理事会の決議を得られないまま、イラクへの攻撃を開始。

(アメリカ軍によるイラク攻撃)                                                                   

小泉総理大臣は、そのわずか1時間後、岡本氏が進言した「アメリカへの支持」を打ち出した。

(小泉総理大臣)

「日本政府はこれまでも平和的解決が最も望ましいと、そういう努力を最後まで続けるべきだと訴えてきた。しかし、イラクは十分誠意ある対応をしてこなかった。米国の武力行使開始を理解し、支持いたします」

当時、官房長官を務めていた福田康夫元総理大臣。日本がいつ、どのような立場を表明するか、難しい判断を迫られたと語る。

(福田元総理大臣)

「決断をする時にどうせ決断するなら、ちゅうちょすることなく、なるべく早くしたほうがいいということになった。早いか遅いか、でもそれが問題だったんですよ。イギリスのブレア首相も非常に悩んでいたんですね。イギリス大使から電話がありまして先に日本が表明してくれないか、そうしたらブレア首相も表明しやすい。こんな話もあったくらいなんです。日本はアメリカの同盟国ですから、アメリカから出てくる以外の情報がなければ、その言うとおりにするしかないという場面ではなかったんでしょうかね」

なぜ、岡本氏は迅速なアメリカ支持を進言したのか。その原点には、湾岸戦争の経験があった。1990年にイラクのフセイン政権がクウェートに侵攻。アメリカは多国籍軍を結成し、翌年1月にイラクへの武力行使に踏み切った。

(1991年の湾岸戦争)

当時、岡本氏は日米関係を担当する外務省北米第一課長を務め、多国籍軍への支援にあたった。日本は総額130億ドル、当時のレートでおよそ1兆8000億円にのぼる多額の資金援助を実施し、車両やコンピューターなどの大量の物資協力も行った。しかし、国際社会から日本が受けたのは“人的貢献が見えない”などという厳しい批判だった。これをきっかけに日米関係も大きく冷え込んだ。

当時、岡本氏とともに多国籍軍への支援にあたっていたのが、元外交官でキヤノングローバル戦略研究所研究主幹の宮家邦彦氏だ。岡本氏の原点には湾岸戦争の経験があったと語る。

(宮家邦彦氏)

「あれだけの貢献を金銭的にしたにもかかわらず、残念ながらそれだけの評価が出てこなかった。やはりお金だけではだめだと、モノだけではだめだと。このトラウマをみんな持っていて、中でも岡本さんが特にそれを持っていたんです。湾岸戦争の教訓を実践する場がイラク戦争だったと思います。その意味では、岡本さんの、そして日本の安全保障政策の原点は湾岸戦争にあるのではないかと思います」

2003年4月、アメリカは圧倒的な軍事力によってわずか3週間で首都バグダッドを制圧し、フセイン政権は崩壊した。その後、イラクの復興支援が必要になると、岡本氏は支援策の具体化に力を入れた。中でも最大の課題が、自衛隊のイラクへの派遣だった。

アメリカは日本に対し「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」をかけ声に、陸上部隊の派遣を求めていた。資料には、アメリカのベーカー駐日大使が岡本氏に、自衛隊の派遣を強く求めていた発言の詳細が記されていた。

「日本は米国の完全な同盟国としてイラクに自衛隊の部隊を大隊規模で送ってもらいたい。これが米国の日本に対する最大の関心事である」(岡本氏の資料より)

しかし、イラクではアメリカなどによる暫定統治に反発する武装勢力が活動を活発化。爆弾テロや襲撃事件が相次ぎ、治安が急速に悪化した。こうした状況もあり、自衛隊を派遣することの是非について、世論の賛否も割れていた。NHKの世論調査(2003年7月)では、自衛隊を派遣してイラクの復興やアメリカ軍などの治安維持活動を支援するための「イラク支援法案」について、「賛成」が43%、「反対」が48%だった。

とりわけ焦点になったのが、憲法の下、自衛隊が活動可能な「非戦闘地域」が存在するのかについてだった。このことは党首討論でも大きな議論になった。

(民主党 菅代表)

「憲法に反するから非戦闘地域を作らなければいけないとのフィクションではないか」

(小泉総理大臣)

「どこが戦闘地域か、この私に聞かれたって分かるわけないじゃないですか」

この頃、岡本氏は繰り返しイラクを訪れ、アメリカ側と交渉や現地の調査を行っていた。現地のニーズや国際世論に触れた岡本氏は、自衛隊の派遣が遅れることへの危機感を官邸に伝えていた。

「勝負はできるだけ早くイラクに自衛隊を派遣できるかにかかってきている」

「湾岸戦争の際、日米関係が一挙に悪化していった状況に似た雰囲気さえ生じかねない」(岡本氏の資料より)

こうした中、福田氏は当初の想定が大きくくるってしまったと明かす。

(福田元総理大臣)

「イラクは全く違う場所になってしまった。日増しにテロが激しくなる状況の中で、非戦闘地域という概念が重要な意味を持つことになりました。岡本さんが調査をしてくれましたが、だいぶ作業が遅れてしまいました。地域・地域で状況は違いますから、なかなか難しい判断ですね。自民党の中だって賛成・反対、両方ありました。行かなくていいなら行かない方がいいというのが圧倒的だったのではないかと思いますが、日米同盟を考え、小泉総理はアメリカに傷をつけることはしないと言われていました」

自衛隊を派遣するか否かが議論になる中でも、岡本氏は「復興支援を遅らせてはいけない」と、繰り返しイラクを訪れ現地のニーズを調べていた。

当時、外務省無償資金協力課長としてイラクの復興支援にあたっていた山田彰氏は、この年の11月に岡本氏とともにイラクに渡り、支援策を探った。岡本氏が特に力を入れていたのがイラクの医療支援だった。病院の再建や医師の教育など、日本の得意な支援で復興の役に立ちたいと考えていた。

(山田彰氏)

「岡本さんは日本の援助が顔がみえる形での支援を目指していました。イラクの復興のために、イラクを破綻国家にしないために日本が精いっぱいの努力をしているんだということを見せたいと考えていました。そうすれば、イラクの人たち、子どもたちはきっと困ったときに日本から支援があったことを覚えていて、それが将来の日本のためになるということでした」

2人を現地で迎えたのが、外交官の奥克彦氏だ。イラクで暫定行政当局と日本大使館との連絡調整を主に担当していた。岡本氏は奥氏と緊密に連携しながら復興支援にあたっていた。岡本氏にとって奥氏はいわば「相棒」ともいえる存在。山田氏にとっても一番仲のいい同期だった。このときの出張は、車で2000キロほど回る強行軍。イラク各地を回り、現地の声に耳を傾けた。

(奥克彦氏)

しかし、岡本氏と山田氏がイラクを訪れた3週間後、衝撃的な事件が起こった。奥氏と、同僚の井ノ上正盛氏、イラク人ドライバーが何者かに襲撃され殺害されたのだ。イラクの北部地域の復興問題を話し合う会議に出席する道中での出来事だった。

(山田彰氏)

「奥は非常に豪快であって、なにより行動力がある人間だったと思います。同時に、弱い人にはすごく優しい人間でした。人の死がこんなに悲しいものだということは、このとき感じました。岡本さんも、本当に奥のことを人間としてほれ込んでいたというか、こいつのために自分も精いっぱいやろうという気持ちでおられたと思いますし非常に悔しい悲しい残念な思いだったと思います」

岡本氏とともに、湾岸戦争で多国籍軍への支援に奔走した宮家氏も、この事件に大きな衝撃を受けたひとりだ。奥氏らの遺体を引き取りにイラクの隣国・クウェートに向かった。

(宮家邦彦氏)

「実際に人が亡くなるリスクが伴っていて、犠牲が伴うことを改めて実感しました。犠牲になるのは外交官なんです。外交官の方が危険なんです。だって武装していないのですから。ただ、犠牲が出たからといってやめるわけにもいかない。非常に悲しい事件でしたが、日本は乗り越えていかなければいけないと私は当時、思いました」

かけがえのない同期を亡くした山田氏。この事件が日本外交に大きな教訓を残したと話す。

(山田彰氏)

「一連のイラクの復興支援に続くプロセスは日本外交をもっと準備して、修羅場にも対応できるような体制を作っていかなければいけないと外務省に思わせたのではないかと思います。世界の平和と安全のために貢献して、それが日本の国益につながるように、もっと強くたくましく、危険な場所でもいろんな対応ができるように準備をしていかないといけないと感じました」

この事件のおよそ2か月後の2004年2月、陸上自衛隊の本隊がイラク南部のサマーワで給水や道路の補修などの活動を開始。この政策決定は自衛隊の活動範囲が拡大する大きな転機となった。

それを見届けた岡本氏は総理大臣補佐官を辞任した。胸中では奥氏を亡くしたことが大きな傷になっていた。岡本氏は自伝のイラク戦争の章を以下の一文でしめくくっている。

「奥、許してくれ。死んでいった人々のことを思い、涙が止まらなかった。」

(『危機の外交』より)

イラク戦争からことしで20年。イラクではアメリカが開戦の大義に掲げた大量破壊兵器は発見されなかった。さらに、イスラム教の宗派間対立やIS(イスラミックステート)の台頭などで治安の悪化も続き、この20年でおよそ20万人の民間人が犠牲になっている。

政権の中枢を担った福田氏は、当時をこう振り返る。

(福田元総理大臣)

「日米同盟をしっかり守った。その結果、米国からの見返りもあったと考えています。ただし、誤情報に基づく決断に協力をしたということ、これはなんとも言いがたいですね。それは断固としてとんでもないと言えば、とんでもない、間違ったこと。だけどノーと言うのは、よほどじゃなければ言えない。そういうことが起こらないようにしなければいけないというのは日本の大きな反省だった。同盟国としての責任でもあったと大げさに言えば、言えるのではないかと思います」

日本外交史が専門の中央大学の宮城大蔵教授は、日本がアメリカを支持したイラク戦争によってイラクで大きな犠牲が出ていることをよく踏まえる必要があるとした上で、戦争が日本の外交・安全保障政策に与えた影響について次のように指摘する。

(宮城大蔵 中央大学教授)

「イラク戦争で日米同盟関係が日本も相当なリスクをとるということに踏み出したこと、非常に緊密化する大きな一歩になりました。アメリカには世界最大最強の並ぶものがない強力な軍事力があるがゆえに、それを使って問題を解決しようという力の行使の誘惑にかられることがある。アメリカの戦争に日本が巻き込まれる同盟である以上、そこを十分意識しつつ、どう同盟関係を維持して緊密にしていくかという非常に難しいさじ加減があると思います」

イラク戦争から浮かび上がる教訓とは何だったのか。日米関係の重要性と難しさの両面を体感し、あるべき姿を考え抜いてきた岡本氏は、後にこう問いを投げかけている。

「米国が反対を押し切ってイラクに攻め込んだあたりからおかしくなった。この点、私自身の自戒も込めている。世界で信用を失墜してしまったアメリカと一緒に、日本がアジア太平洋において、これから二人三脚で進んでいかねばならないし、日本にとってはアメリカしか頼るところが最終的にない。このことは日米間でもっと真剣に検討される必要のある問題である。」(岡本氏の講演録より)