尾崎豊 「平和」「反戦」願い続けて~没後30年「伝説のライブ」関係者が語る秘話

NHK
2022年4月22日 午前11:30 公開

ミュージシャン・尾崎豊さんが 26 歳の若さでこの世を去って2022年 4 月 25 日で 30 年です。歌を通して社会に対して強いメッセージを訴えてきた「10 代のカリスマ」。実は「平和」や「反戦」への願いを込めていたことを知っていますか?

(取材 アナウンサー 利根川真也)

“伝説”の飛び降りライブで「反戦」を訴えた

盗んだバイクで走り出す「15 の夜」 夜の校舎 窓ガラス壊してまわった「卒業」・・・

18 歳、高校 3 年生の 12 月にデビューして以来、若者の思いをストレートな歌詞で表現してきた尾崎豊さん。

その一方で、父親が防衛庁(当時)の職員だったこともあり、幼いころから「戦争」を身近に感じていました。

尾崎さんが生きた 1960 年代から 80 年代にかけては米ソ冷戦時代で、核兵器の開発も盛んに行われていました。

<「アトミック・カフェ・ミュージック・フェスティバル」の出演者リスト>

デビュー直後の 1984 年 8 月 4 日、尾崎さんは、東京・日比谷公園にある野外音楽堂で開かれた音楽フェスティバル「アトミック・カフェ・ミュージック・フェスティバル」に参加。「反戦」「反核」というライブのコンセプトに合わせて「核(CORE)」という曲を作り、自らのステージの冒頭で披露しました。

♪ 俺がこんな平和の中で 怯えているけれど 反戦 反核 いったい何ができるというの  (「核(CORE)」より)

実はこのライブは、デビュー直後の尾崎さんを一躍有名にした、今でも語りつがれるものでもあるのです。30 分ほどのステージ中盤、尾崎さんは照明のやぐらによじ登り7mの高さから突然ジャンプ。足を骨折し全治3か月の重傷を負いました。

それでも、フラフラになりながらも、スタッフに抱えられながらも、最後までステージに立って歌い続けました。そのため、「伝説のライブ」とも言われています。

<大久保青志さん(左)と筆者>

その音楽フェスティバルを主催した大久保青志さんに、話を聞くことができました。音楽雑誌を出版する「ロッキング・オン」の創設に携わるなどしてきた人です。アトミック・カフェには「尾崎本人がイベントに興味がある」と、事務所サイドから参加の申し出があったそうです。

尾崎さんのステージをすぐ後ろで見守っていた大久保さん(写真中央、尾崎さんの後方で首からタオルをかけているのが大久保さん)。そのステージにかける尾崎さんの熱意を感じたと言います。

大久保さん

「演奏は素晴らしかったし、迫力のあるステージだったと思います。イベントの趣旨に合わせて『核』という曲も用意して、1曲目に披露してもらっていたので、それは主催者として感謝しているし、すごく嬉しかった」

なぜそうまでして参加してくれたのか―。真意を尋ねたかった大久保さんは、ライブから半年ほど経った頃に尾崎さんのもとを訪ね、1時間ほどじっくり話を聞きました。そして、その話を記事にまとめました。記事を見ると、尾崎さんの平和への思いが伝わってきました。

1985 年 「第 2 回 アトミック・カフェ・ミュージック・フェスティバル パンフレット」より

「今一番怖いものといえば、やはり第三次世界大戦と、いつ降ってくるかわからない核の存在です。うちは朝霞の基地のすぐ近くで、飛行機が一度に何十機も飛んだりすると、もしかすると始まったんじゃないかと思ったりもします。環境的なこともあって、割と小さい頃から核のこと考えたり、話したりした方じゃないかな。学校でも社会の授業中に『俺たちに必要なのはそんなことじゃない』なんて食ってかかったこともあったし」

「僕の『街の風景』という曲の中に“誰もが眠りにつく前に”というフレーズがあるんですが、核で誰もが死んでしまう前に、という意味をイメージしてつくったんです」

尾崎さんは、小学5年生の頃に父親の仕事の関係で埼玉県朝霞市に転居したときのことなどを回想していました。このとき尾崎さんは、大久保さんの目をじっと見て話をしたといいます。大久保さんは「当時の社会情勢を敏感に捉えていた」と、そのときの印象を振り返ります。

大久保青志さん

「1980 年以降、現実に核戦争が起こりうるのではないかというムードやイメージが世界を覆っていたので、そこで尾崎くん自身も危機意識を持っていたのではないか。 自分の感じている思いや、社会のノイズとか、さまざまな問題に真摯に向き合ってきたミュージシャンなので、尾崎くんの残したメッセージというのは、今でも非常に重たいなと感じています」

「愛することから始める」

尾崎さんが亡くなる1年半ほど前に発表したのが「COOKIE」という曲です。平和が脅かされる中でも、愛する人との何気ない日常の大切さを歌っています。

♪ 新聞に書かれた人脅かすニュース 美味しい食事にさえぼくらはありつけない

空から降る雨はもう綺麗じゃないし 晴れた空の向こうは季節を狂わせている

正義や真実は偽られ語られる 人の命がたやすくもて遊ばれている

未来を信じて育てられて来たのに 早く僕たちを幸せにしてほしいよ

Hey おいらの愛しい人よ おいらのためにクッキーを焼いてくれ

温かいミルクもいれてくれ おいらのためにクッキーを焼いてくれ 

(「COOKIE」より)

実際、本人はどんな思いで曲を作っていたのでしょうか。デビュー以来尾崎さんを支え続けた、音楽プロデューサーの須藤晃さんに話を聞きました。

<尾崎さんと須藤さん 撮影日:1985 年 10 月 26 日>

須藤晃さん 音楽プロデューサー

「尾崎さんがよく言っていたのは、まずは愛することからスタートしなきゃいけない、と。だからそれができないと戦争反対みたいなことを呪文みたいに唱えたとしても『はい、わかりました』という流れになるわけじゃない。 ミュージシャンとして自分の考えを行動で表す、つまり、まず一番そばにいる人間をきちんと愛せるかどうか、愛することから始めると歌詞で歌っている」

代表曲の「I LOVE YOU」をはじめ、「OH MY LITTLE GIRL」なども、そういう思いから作られていた部分もあったのか、と須藤さんの話を聞いて非常に納得できた気がしました。

昭和、平成、令和と愛され続ける尾崎豊

没後 30 年の今年、尾崎豊さんを偲ぶ巡回イベントが全国各地で開かれています。本人が愛用していたギターや、ライブで着用した衣装、それに、歌詞や日々の思いを書きためたノート・・・。3 月下旬、東京・銀座で始まった巡回展のオープニングに、私も足を運びました。

私より上の世代の方が多いのではないかと予想していましたが、思った以上に若い世代の方も多く訪れていて、今なお、尾崎さんは幅広い世代に注目されている存在なのだと感じました。

40 代の女性

「尾崎さんがすごく昔から好きだった。娘もとても素敵な方だと言っている」

10 歳の娘さん

「『I LOVE YOU』が好きです」

20 代の男性

「僕らも共感できる部分がすごく多く、30 年前の言葉で今も共感できるというのがすごい」

なぜ今も尾崎豊は愛されるのか…。尾崎さんが参加したライブを主催した大久保さん、そしてともに歩み続けた須藤さんに聞いてみました。

大久保青志さん

「アトミック・カフェ以降のツアーや作品の中でもさまざまな社会的なメッセージを発していた。今でも語りつがれる、歌われ続けるのは、社会や世界を見る、本質的なアーティストとしての表現のすばらしさがあるからだ思う」

須藤晃さん

「自分は当事者なので客観的に言えるかどうか分からないが、作品がすばらしいということと、あとはごまかしがない人で、どこを切り取っても尾崎豊という感じがする。近くにいて、誠実な生き方をしている人だというのは常々感じていたし、嘘がないので伝わるのだと思う。尾崎豊を知れば知るほど魅かれるという状態が、亡くなられて本人不在なので、そういう愛おしさも含めて、ずっと続いているのだと思う」

没後 30 年が経ったいま、改めて尾崎さんの曲を聞き直してみると、胸に迫ってくるものがあります。もし尾崎豊さんが今も生きていたら 56 歳になっていますが、この世界情勢を見てどんな曲を作っていたのでしょうか。

(取材 アナウンサー 利根川真也)

【2022 年 4 月 12 日放送】

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