みなさんにとって、「ふるさと」とは何ですか?
さまざまな思いが巡ると思います。生まれた場所、長く過ごした場所、思い出がある場所…。
でも、「ふるさとが失われる」事態に直面した事がある方は少ないのではないでしょうか。
あの日から12年。
"ふるさとを奪われた町"で出会ったのは、厳しい現実に向き合い「ふるさとの力になりたい」と行動する人たちでした。
(おはよう日本・井上二郎キャスター おはよう日本・川上慈尚)
12年 時が止まったままの双葉町の風景
12年前に起きた東京電力福島第一原子力発電所の事故。
福島県双葉町は、町内全域に避難指示が出された、いわば「ふるさとを奪われた町」です。
去年8月30日に帰還困難区域の一部で避難指示が解除され、およそ11年半ぶりにようやく町に人が住めるようになりました。
それから半年。町を"作り直す"作業が少しずつ始まっています
私たちがまず向かったのは、JR双葉駅から歩いて5分ほどの所にある通り。
目にしたのは、「12年止まったままの景色」でした。
崩れたままの家、2011年3月のカレンダー、倒れた電柱…。
聞こえてくるのは自分の足音と、鳥の鳴き声と、時折遠くから聞こえる工事の音だけ。
人とすれ違うことはありません。
でも確かに、ここには人の営みがありました。
町の方にいただいた一枚の写真です。
かつては商店が建ち並ぶ町の中心部で、秋には地元の祭りが行われていました。
このふるさとのにぎわいが震災と原発事故によって奪われたのだと、現場に立って実感しました。
戻ってきた住民が直面する不便な生活
町は帰還者や移住者に住んでもらおうと、駅の西側に災害公営住宅など現在25戸の住宅を建てました。
今も工事中の現場が広がり、来年の5月までに86戸の建設を目指しています
去年10月からこの災害公営住宅に暮らす、志賀隆貞さん(73)に話を聞くことができました。
志賀さんは津波で家が流され、震災後は福島県の別の村に家を建てていましたが、双葉町に戻ることを決断したのです。
帰還ができるようになって真っ先に戻ってきた志賀さんに、「ふるさとへの思いが強いんですね」と尋ねました。
答えは意外なものでした。
志賀隆貞さん
「こんなにふるさとに恋したり、愛着を持っていたりするというのは、震災があって初めて分かったんですよ。双葉町のために何かしたいと、やっぱり行かなきゃ分からんと」
ふるさとへの思いは、転々とした避難生活の中で募っていったというのです。
しかし、帰還して直面したのは生活の不便さでした。
町にはスーパーやコンビニなどがなく、志賀さんは新聞を買うために毎朝車で30分かけて、隣町まで行っているといいます。
そして、住民同士のコミュニケーションもほとんどありません。
志賀さんは集える場所をみずから自宅に設けることにしました。
玄関先の土間にイスとテーブルを用意して、花を飾り、誰もが気軽に訪ねて話ができる場所を作りました。
「前に進まないとだめでしょう。やっぱりいつまでもね、嘆いてばっかりじゃ。このくらいであきらめるなら、双葉に帰ってきていないですよ」
「あきらめがついたのかな」長すぎた帰還までの時間
しかし、志賀さんのように町に帰還する人は多くはありません。
原発事故の前にはおよそ7000人の町民がいましたが、現在町に暮らすのは60人あまりにとどまっています。
「長すぎた時間が帰還を難しくしている」と教えてくれる人がいました。
町の情報発信などに携わっている祓川正道(はらいかわ・まさみち)さんは、すでに別の町に生活の基盤を築き、毎日車で1時間をかけて双葉町まで働きに来ています。
私たちが訪ねたこの日、築30年を超えた祓川さんの実家ではちょうど解体作業が行われていました。
二階の左側が、祓川さんの部屋でした。
そこから見える風景や、裏山から聞こえるカエルの声がふるさとの光景だと、祓川さんは言いました。
実家は、祓川さんの父親が40代の時にようやく建てた家でした。
震災後、父親は「いつか再びこの家で暮らそう」と、家の掃除や庭の手入れのために東京の避難先から車で通っていました。
しかし、次第にその足も遠のき、父親はついに家の解体を申し込んだといいます。
祓川正道さん
「町から出ましてやっぱり双葉のことがどうしても気になるっていうか、忘れられないのがふるさとです。でも父は、自分の体力的な面とか年齢的な面とか、あきらめがついたのかなと。帰れるようになるまでが早ければ早いほど、すぐ戻ろう、じゃあ帰ろうかとかそういうふうな気持ちになったのかな…」
ふるさとはなくなっていない 未来に向かって動き始めた若者たち
一方で、町では新たな取り組みが始まっています。
その担い手になっているのは、震災当時まだ子どもだった若者たちです。
双葉駅の横に案内所を構える町づくり会社「ふたばプロジェクト」は、訪れる人の案内やSNSでの町の情報発信、イベントの企画などを行っています。
町の空気を少しでも明るくしたいと、駅前でイルミネーションを点灯したり町なかを花で彩ったりしてきました。
町づくり会社で働く双葉町出身の加藤奈緒さん(24)は、小学校6年生の時に被災しました。
東京や岩手など避難先を転々としましたが、いつも心にあったのはふるさと双葉町のこと。
町の運動会でリレーの選手に立候補し、走った時の歓声が忘れられないと言います。
双葉町の未来に少しでも貢献したいと明るく語ってくれました。
加藤奈緒さん
「避難先で生活している時に『双葉町はすごくすてきな町だったのに、あの日のまま止まった状態だっていうのが悲しい』というのもあって。何も力のない私ですけど、今はまだ若いからこそできることを今やろうという気持ちで、双葉のために何か役立ちたいと思って来ました。町の人と双葉町で何かやりたいことがないかと話をして、『こういうのもいいね』という未来を描いて、ここに戻ってきてよかったって思ってくれるように私も頑張りたい」
たとえ町から離れても…ふるさとに貢献したい
今は双葉町を離れていても、ふるさとに貢献したいという若者もいました。
現在は東京に暮らす加藤佑規さん(25)は中学1年生の時に被災し、実家は今も立ち入りが制限されている地域にあります。
「ふるさとのためにできることはないか」という思いを抱きながらこれまで暮らしてきたといいます。
大学院で建築を学んでいた加藤さんは、修士論文のテーマに「双葉町の復興」を選びました。
震災で失われた町並みについて調べ、その面影を残し、町の人たちが交流する施設をデザインしました。
<加藤さんが書いた修士論文>
さらにことし1月には、JR双葉駅前で行われた太鼓の演奏会に参加。
住んでいる場所は遠くても、ふるさとへの思いは消えません。
<太鼓の素振りをする加藤さん>
加藤佑規さん
「生まれて13年双葉で育って、やっぱり双葉が自分の場所だっていうのは幼いながらあるんですよ。被災して自分の大切なものが失われたっていう感覚はあったので、"帰る場所"として双葉をずっと持ち続けようと思います」
"『元気だ』を忘れないで" 新たなつながりも
今年の3月11日には、ふるさとを通じて新たなつながりも生まれました。
町の産業施設でコンサートが開かれ、ウクライナのアーティスト・カテリーナさんが伝統楽器のバンドゥーラを披露したのです。
双葉町の人が多く訪れ、切なく温かい音色に耳を傾けていました。
<3月11日に開かれた音楽イベントの様子>
このイベントを企画したのは、ここでファストフード店を営む山本敦子さんです。
もともと双葉駅前にあり、学生を中心に地元の人に愛されていたという店でした。
山本さんは避難先の横浜市で生活基盤を築いていましたが、双葉町のにぎわいを少しでも取り戻そうと福島に戻ってきました。
<ファストフード店で働く山本敦子さん>
当初、自身は横浜に残って社員を雇うことなども考えましたが、半年ほど悩んだ末、みずからキッチンに立つことを決めたといいます。
「なぜ10年以上暮らした横浜から帰る決断を?」と尋ねた私たちに、山本さんは笑顔で応えました。
山本敦子さん
「避難した町民が双葉に帰ってきた時に、双葉の"知っている顔"がいるっていうのは安心材料なんじゃないかなって私は思うんですよ。双葉弁で『なんだ、元気だったか』っていう、『元気だ』っていう。双葉弁を忘れそうになったらこの店に来てという話をしています」
山本さんは今年の3月11日を前に、「ふるさとへの思いをつなぎたい、震災や双葉町のことを忘れないでほしい」と、交流のあるウクライナ人アーティストのカテリーナさんを町に招くことにしたのです。
カテリーナさんのふるさとウクライナでも、ロシアの侵攻によって多くの人がふるさとを追われています。
かつて事故をおこしたチョルノービリ原発も不安定な状況にあります。
東日本大震災のこと、原発のこと、戦争のこと。音楽を通じて共感し、ふるさとに対する気持ちを呼び起こしたいと2人は話していました。
山本さんは、思い出の詰まった海の景色を眺めながら、ふるさとへの思い、そしてこれからの双葉のことについて語ってくれました。
「潮の香りだったり、雨が降りそうな時はもっと湿気っぽい感じのにおいだったり。そういうにおいが好きなんですよね。それが当たり前だったので。普通に暮らしていた空気は変わっていないので、ここに来ると双葉を感じることができる。本当はみんなでまた戻って前みたいにできればいいんでしょうけど、新しい出会いを大切にしてやって双葉を盛り上げたいという思いはあります。ふるさとはなくなっていないので」
今回の取材で多くの方に「ふるさととは」と質問をしました。それはにおいであり、音であり、心の中の風景だとおっしゃっていました。
一方で、そうした抽象的な思いや甘い追憶だけでは、厳しすぎる現実には立ち向かえないという声もあり、実際に街を歩いてみると、確かにその通りだと感じざるを得ませんでした。
しかしながら、今回出会った方々のようなふるさとへの強い思いや、小さくても何かしたいという一人一人の力が、立ち上がろうとする双葉を支えているのだと強く感じました。
姿かたちは変われども、自分のこれまでと今、そしてこれからの軸になる「ふるさと」という存在を、改めて見つめなおしたいと思った取材でした。