映画俳優の吉永小百合さん(78)。14歳でデビューしてから60年以上にわたって第一線で活躍しています。
出演した作品は、なんと123本。 その最新作「こんにちは、母さん」が9月1日に公開されるのを前に、“演じ続ける思い”をインタビューしました。
(聞き手・井上二郎キャスター 取材・おはよう日本ディレクター 井出州)
-井上キャスター
今回の映画の役作りで、いちばん心がけたこと・手間をかけたことはどんなことでしょうか?
吉永さん
今まで(出演した「母べえ」「母と暮らせば」)の2作は、どちらかというと“耐えるお母さん”だったんですね、“山田組”の。 今回はそうじゃなくて、前にグイグイ進んでいくというタイプの人だったので、そういう意味では、“積極性を表に出したいな”と思ってやりました。
9月に公開される山田洋次監督の映画「こんにちは、母さん」。吉永さんは、亡き夫が残した足袋店を守りながら、東京の下町で力強く生きる「神崎福江(かんざきふくえ)」を演じます。母でありながら、祖母であり、恋する女性でもあるという役どころです。
2008年公開の「母べえ」、2015年公開の「母と暮らせば」に続く、山田洋次×吉永小百合で届ける「母3部作」の集大成です。
<『こんにちは、母さん』 ©2023「こんにちは、母さん」製作委員会 配給 松竹>左:息子・昭夫役 大泉洋さん 右:神崎福江役 吉永小百合さん
-「母3部作」の3作目ということですが、吉永さんの中で“お母さんを演じる”ということは、どういうことなのでしょうか?
私自身が母親になったことがないので、“私でいいのかしら”といつも思いながらやるんですけれども。やはり、子どもに対して“かわいい”と思う気持ちとか、“大事に大きく育ってほしい”という思いは自分の子供じゃなくてもあるものですから、そういう思いを実際に、俳優さんに重ね合わせてやっているんですけれども、本当に幸せなことですね。
-幸せ?
はい、そのたびに、“子どもが増える”という感じなんですよね。(母3部作の)「母と暮せば」では二宮和也さんが息子で、今も“本当の息子”という感じで付き合っていられるし。
大泉洋さんは“ちょっと難しいかな”って最初思ったんですけれども、いざやってみると、とても楽しい方で、それとインタビュー上手なんですね。
時間が空いているときに、いろいろ大泉さんから聞かれて、“こんなことまで私しゃべっちゃった”っていうような、私生活のこともベラベラしゃべっておりまして。そういう意味でも、“うんと”つながりができるっていう感じですね。
-今回は、“孫がいる”という役でしたけれども、これもまた1つ“挑戦”でしたか?
そうですね。永井愛さんの原作は“息子と母さん”の話だったんですけど、山田監督が現代に描き直すにあたって、やはり、孫がいて家族の中でのいろいろな思いというのを描きたいっておっしゃって。
“おばあさんの役どうですか”って、監督に聞かれて、“あっ、はいはい大丈夫です”って言ったんですけどね。後で、“ちゃんとやれるかなって”、心配になりました。
どうしても動作が私は、“パタパタ”しているんですよね。おばあちゃんだし、ゆったりとした雰囲気を出さなきゃいけないので監督に注意を受けました(笑)。
<『こんにちは、母さん』 ©2023「こんにちは、母さん」製作委員会 配給 松竹>左:孫・舞役 永野芽郁さん
-今までのキャリアで積み重ねてきた役とは違うなかで、チャレンジをするというのは怖さはないんですか?
怖さっていうのはないんですけれども、自分のできるだけ精いっぱいにやるっていうことは、心がけなきゃいけないといつも思っているんですね。
今回の場合ですと、ミシンをかけながら孫娘にいろいろ自分の生い立ちとか、夫の事を話すシーンがあったんですけれども、ミシンっていうのが工業用で、とても扱いづらいものだったんですね。
それで実際の足袋屋のおかみさんにいろいろ教えていただいてやっと、ちゃんと使えるようになったんです。実際は、“しゃべったりしながらミシンはかけるものじゃない”っていうふうにおかみさんがおっしゃったんですよ。
どうしようと思ったけど、監督は“しゃべってください”“やってください”っておっしゃるし。もう“よしそれなら頑張ろう”と思って、あのシーンは何度も何度も練習したし、リハーサルもやったし、そういう意味では新しい挑戦でした。
-吉永さんは“役を演じる”というよりも、“役を生きる”ようなアプローチなのかなと。
そうですね、演じるにはちょっと力が足りないんですけれども、その役と“友達になる”というか、“その人を好きになる”っていうことがいちばん大事かしらと思うんですね。
だから今回も本当に、“福江さん”という、母さんを好きになって演じたつもりです。
-“紙の台本”だけではなくて、“もっと先まで演じきる・生ききる”というようにお見受けしたんですが。
そうですね、隅田川のほとりの話なんですけれども、そういう所をブラブラ歩いて、空気を吸って、“こういうところで仕事をし、生活し、息子を育てたんだ”ということを感じ取り、そういう思いの中でやっていくということですね。
-そうやって60年以上にわたって、第一線で活躍してこられたのはなぜでしょうか?
まず“健康だった”ということでしょうね。とにかく人に迷惑をかけないように、病気して休んだりしないようにということを心がけて。ロケで、蜂に目を刺されて休んだことはあるんですけど、それ以外のところで、大きく休んだっていうことはないんですね。
今でも、撮影に入るときは万全の体調にするために自分なりの努力はしているんですけど。あと食事もしっかりと、栄養のあるものをとったり、体重も、もちろんコントロールしたりしますけれども、“体にいいものをしっかりとる”ということを気をつけています。
-とはいえ“第一線でずっとやっていく”というのは、難しさがあると思います。難しさに直面したときは、どう乗り越えているんですか?
そうですね。乗り越えられない時もあるんですけどね。1つの作品やっていて、演じ方っていうか、“役の作り方がよくないな”って思うこともあるんですけど、“明日があるさ”と思いますね。
-楽天的なんですか?
そうですね、どっちかというと楽天的ですね(笑)。
-“123作”という作品を積み重ねてこられたわけですけれども、以前に放送した、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」(2019年10月放送)では、“もう潮時かしら”と何回もおっしゃっていた。それでもここまで続けてこられたのはなぜですか。
いや~、ちょっとやめる時期がわからないんですよね、自分で(笑)。
スポーツの選手っていうのは数字に表れますよね。だからそこでやめられる。だけど私たち俳優は、そういうはっきりしたものがない。どこで、自分でピリオドを打つのか、あるいはやれるのかっていうのを、自分で判断しなければいけないんです。
今回、123本目の映画ということで“1・2・3”っていうのは、やめる数字じゃなくて、どちらかといえば“飛び出していく”、“スタートラインにいるような数字”かしらと勝手に自分で思って、それでまた続けようと思ったんです。
まあ私の家族とか周りの人も、“あんまりそういうことを決めないで、やれるところまでやったらいいんじゃないの”って言ってくれるんですね。
-放送の中で、“私はアマチュアなんです”と。どういう意味ですか?
まずいちばんに、“その役を好きにならないとできない”という事があるんですね。むしろ逆に、“何だ、こいつは”っていうような役に挑戦するっていうことも、大きな俳優としての役目のような気がしますが、私はそれができない。
昔、虚言癖のある女性の役をいただいたとき、“私ちょっとできないです”って言ったら、“まだまだ素人ですね”って言われましたけど、そういうところがあるんですね。
好きになるとやっぱり、演じる役と本当に近くなれるんですよね。だけど、嫌いだと、お互いに見合ってしまって、なかなかうまくいかないんじゃないかなと思います。
-それが吉永さんの“役を生きる”っていうことなんでしょうね。
そうですね。でもそんなことばっかり言っていたらいけないのかもしれないし、でもそれだから俳優という仕事は面白いっていうこともありますね。
私たちの仕事は、いろいろな人に“ふんする”ことができるっていう、これはもう“こんなぜいたくな仕事はない”と思うんですよね。
だから、その時々でいろんな人のことを知ることができるし、そういう楽しさっていうか、すばらしさは、俳優じゃないとやれないことなので本当に恵まれていると思います。
-これから“1つの道を貫こう”と思っている若者たちに、吉永さんが、道を続けていくうえで“これが大事だよ”っていうメッセージをいただけないでしょうか?
“自分のやりたいことを見つける”ということは、とても大事だと思うんですよね。私も、最初から俳優をやろうと思っていたわけではないので。
小学校の時、学芸会でとてもいい気持ちになって、映画俳優になりたいという作文を書いたのは事実なんですけど、それでもやっぱり最初の頃はわけも分からずやっていました。 30歳を過ぎてからぐらいに、“本当に映画が好きなんだ”ということを感じるようになったんですね。
だからやっぱり若い方も、なかなか今の世の中で自分のやりたいものを見つけるっていうのは、とても難しいと思うんですけれども、やっぱり絶対に、やりたいこと、好きなことがあるはずだと思うんですよね。
-今回の映画で吉永さんの“怖いのは、いつ死ぬかではなく、いつ歩けなくなって、寝たきりになるかということなんだ”というようなセリフがすごく印象に残ったんですね。人が誰しもぶち当たる“老い”っていうものに対してはどう思いますか?
そのセリフを言ってみて、“自分自身もそういうふう(歩けなくなる、寝たきりになる)になるかもしれない”と感じ、“絶対転んじゃいけない”とか、しっかりと“自分の体を鍛えなきゃいけないんだ”と思いました。
私たち世代の人たちは“やりたいことや興味を持つ”こと、例えば、短歌を詠むとか、書道をやるとか、何か見つけて、“気持ちに張りを持たせる”ことが大事だと思うんですね。
私の場合は、今のところは“スポーツ”なんですけれども、だんだんスポーツができなくなったら、座ったままでできるようなことを見つけたいなと思っています。
-私たちにとっては、吉永さんは“もうキャリアを極めた” というふうにお見受けするんですが…
まだまだ全然極めてなくって、やはり“若いころにやった作品”を超えられない部分もあるので。1962年の「キューポラのある街」という作品が、皆さんご覧になって“いちばんいい”と言ってくださっているものですし、私もたまに見て、やっぱりこれはなかなか超えられない。
だから、これから俳優としての迫力とか、いろいろな面でも、年月もたっていますからね、難しいとは思いますけど、心の面でそういうものを乗り越えて、“こういう役をこんなふうに演じられた”と自分で思えるような作品に巡り会いたいと思っております。
映画ってすばらしい映画だと、50年100年後の人も見てくれる、だからそういう映画に出演して、“演じる”ということを自分の目標にして、これからもやれたらと思っているんです。努力のしかたが足りないと思うので、もう少し努力していきたいと思います。
「演じる」こと以外に、吉永さんが長年取り組んできたことがあります。30年以上前に始めた、戦争や原爆の詩を全国各地で朗読する活動です。
一節一節に気持ちを込めて読み上げることで、たくさんの人に戦争の恐ろしさや、平和の尊さを訴えてきました。
<原爆の詩を朗読する吉永さん 1999年>
-“戦争を伝えること”は、吉永さんライフワークのようになられている。しかし、地球上では今も戦争が起きています。どう感じていますか?
“何ができるんだろう”と常に考えてしまいますね。テレビを見ていても、戦争っていうものが、ドラマやドキュメンタリーのように映し出されてしまっている。発砲したり、ドローンで攻撃したりというのが、映っていると、傍観者になってしまうような怖さがあるんですね。
いろいろなところで戦いが行われていますから、私たちは何としても地球全部が、みんなで“戦争をしない”という方向に向くよう、また“核兵器は絶対使わない”ということをみんなで考えていかなきゃいけない。
そのためには小さなことでも“自分のできることをやりたい”と私は思っているし、みんなもそう思ってほしいなと思いますね。時間の許す限りは、子どもたちに朗読を聴かせたり、CDを作ったり、いろいろなことをやっていきたいです。
「戦争」をテーマにした作品にも数多く出演してきた吉永さん。生まれたのは“1945年”。そこにも俳優活動を続けてきた理由がありました。
-吉永さんは、東京大空襲の3日後に生まれて、きっと傍観者ではない視点で戦争を見つめてこられたのではないでしょうか?
小さい頃に防空ごうが家の庭にありまして、そういうところで遊んだ記憶はありますし、母親から“食べ物がなくて大変苦労した”ということも聞いてきました。
1945年に生まれたということは、自分にとって重いことですし、そのことは忘れないでいようと思っています。
-“映画の力”ってどんなものだと思いますか?
私は小さい頃に見た映画が忘れられなくて、「二十四の瞳」とか「ビルマの竪琴」とか。 戦争のときに“こんな大変なことがあったんだ”という思いを、映画を見て知りましたし、 “歴史をしっかりと語る”ということも、映画の1つの使命だと思います。
そういうものが皆さんの心の中にいつまでも残って、“人が人に対して優しくあってほしい”というようなことを、ずっと思っていただけたら、映画を作る意味もとてもあると思うんですね。
-“124作目”はどんな役をやってみたいと思われますか?
いろいろな役をやらせていただいてきたんですけれども、“実際に生きた方を演じる”っていうのは、俳優にとって、とても魅力のあることなんですね。だから、そういうものがやれたらと思っています。
-これからも第一線で活躍し続けてください。
ありがとうございました。
取材後記
「やめようと思ったことはないんですか?」という質問に対して、井上さんは?と逆質問する吉永さん。「私はすぐに逃げたがるので・・」としどろもどろの私に、長く続けてこられた秘訣を教えてくれました。
いま、自分に与えられた仕事を楽しいと思うこと、そして周りの人たちに感謝し助け合うことだと。俳優として、そして生き方においても一流の人なんだと感じたインタビューでした。