92歳のジャズピアニスト・秋吉敏子さんは、本場ニューヨークで活躍を続けてきた世界的な「レジェンド」です。
グラミー賞にノミネートされた回数は実に14回。30年にわたりビッグバンドを率いてジャズ界に貢献したとして、全米芸術基金から最高の栄誉とされる「ジャズマスター」の称号を受けました。
コロナ禍で果たせなかった3年ぶりの帰国で、自らの戦争体験やアイデンティティーと向き合いながら作ってきた曲を奏でた秋吉さん。ウクライナ侵攻など混沌の時代にも、「努力」と「希望」のメッセージを送り続けています。
(聞き手 おはよう日本キャスター 井上二郎)
コロナ禍で3年ぶりの日本“うまくなりたいと努力していた”
―新型コロナの影響で3年ぶりの帰国になりましたね。音楽活動がままならない時期というのもあったと思うんですけど、どういう思いで過ごされていましたか。
秋吉敏子さん
コロナのせいで予定もみんなキャンセルしなきゃいけなかったし、ちょっと悲しいですけど、私はうちでとにかく毎日少なくとも2時間は鍵盤を押さないといけない。外で演奏して皆さんに聞いていただくのは"キャラメルのおまけ"みたいなもので、問題は自分。結局ピアニストというのは、音楽家というのは自分が最初の聴衆ですから、だから自分が聴衆として満足できるようなプレーをするような毎日心掛けるわけです。それの連続ですね。いつまでたっても「これでいい」というのがないので、ある意味ではやることが毎日あるので、幸福かなと思っています。
やっぱり私は努力をしないと、毎日少し昨日よりもよく進歩したい。私はそう思って、また進歩してないかもわからないですけど、少なくとも努力する。
―まだうまくなりたい?
うまくなりたいですけどね、少なくとも努力する。才能っていうのは、誰かがずっと前に言ったけど「小さな火」のようなもので、消えないようにあおぎ続けないと。才能があって毎日寝ているとうまくならないし、努力しないといけない。努力がなぜできるかというと、愛するということですね、やることを。どれだけ自分が愛しているかってことにかかってますよ。愛してなければ途中でやめちゃうでしょう。
―愛することに出会えるというのは幸せなことですね。
そうです、そのとおりです。絶対そのとおりです。
―音楽家の中にはやっぱり聴衆に発表する場がなくなって、自分の気力がちょっと失われてしまったというふうに言う人もいると思うんですけど、音楽への見方、社会への見方が変わったということはありましたか。
われわれは聞いてくれる人、何か共感してくれる人がいてはじめて自分のやってることに意味や意義があるわけですから、感じてくれるような演奏ができないと、独りよがりで終わっちゃうということだと思いますね。
私は社会の中の人間の1人ですから、社会で起こることに関心があるわけです。昔まだ10代のときには、私は「まずジャズピアニスト」で、その上で「日本人で、女性で」っていう頭があったんですが、今は逆になって、私は社会の中の1人で、日本人で女性であると。仕事として関係しているのがジャズピアニストであるとオーダーが変わった。10代のときにはむやみやたらと弾いて満足してたんだけど、私は社会で起こることには、大変関心があります。それが私の音楽で表せればいいなって。
思い出す満州からの引き揚げ 「なぜまたロシアが・・・」
―社会で起きたものすごく大きなこととして、ウクライナでの紛争があります。どういうふうに見てらっしゃいますか。
私はロシアという国、まだ覚えているのは第2次世界大戦のとき日本が負けそうになって、そうしたらロシアがわーっと入ってきて。私は満州で生まれて、いわゆる引き揚げるまでいましたから、ロシア軍が入ってきてという経験をしています。父が地下室に場所つくってあって、その中にわーっと入って隠れるわけです。われわれも16歳になるかならないぐらいです。
―戦争、引き揚げの体験がある中で、やっぱりまた起きてしまった戦争というのはどう捉えてらっしゃいますか。
私はやっぱり怒ってます。悲しいというのはちょっと当たらないですよね。またなんでロシアって感じです。いわゆる大きな国、ロシアにしろ、アメリカにしろ、イギリスにしろ、自分たちの国が支配者になりたいというのかな、上のほうで動きがあって、それで多分戦争になるんだろうと思いますけどね。どういうわけか悲しいことに、どの国も自分が世界の支配者、一番上に立ちたいという、あれは政治家なんでしょうね。支配者というのは支配したいから支配者になるんでしょう、多分ね。そうすると、われわれ平民はその中で動かなきゃいけないという。たとえば日本はいわゆる第2次世界大戦、軍国主義という国のやり方で、われわれ平民はその影響を受けるわけですから。
無力とわかっていても、あきらめずに「希望」の音楽を
―秋吉さんは音楽で平和というのも訴えられてきました。でも戦争は繰り返し起こってしまう・・・。
音楽というのは、私自身はある意味での「反抗」、つまり国の行き方に対する反抗みたいなものだと、私はそういうつもりで音楽つくったり、プレーしたりしているんです。
私はどこで演奏しても、『HOPE(希望)』という曲を最後に演奏するんです。平和は来ないでしょうけど、われわれはいつか来るように希望しますと。多分駄目だって分かっても、やっぱりそうありたいっていう。
―私は最近、ウクライナから日本に避難してきてる若者と話す機会があって、それこそHOPE、「希望とか夢を、今は持っちゃいけないんだ」という話をしてました。つまり将来がない。
それは悲しいですね。やっぱり悲観的な立場にあればあるほど、HOPEは持たないといけないですよ。そうでなかったら、われわれは前に進んでいくことができないと思いますね。われわれ生きてるかぎりは、前に進んでいくのが当然だと思うし、言葉でうまい具合に言えませんけど。悲惨な立場にいればいるほど、希望は持たなきゃいけないですね。恵まれた立場にいたら、希望なんて持つ必要ないかもしれない。
アメリカで見出した日本人としての”誇り”
―ライブのお話をお伺いしたいんですが、『Long Yellow Road(黄色い長い道)』という曲からスタートしますよね。
日本で一流のプロたちの演奏を聞いて、最初それを真似した。だけど、ものまねで終わってたわけです。それがアメリカに行って、ピアノ弾いてる後ろで気が付いたのは、”自分の言葉”というのを見つけないといけない。アメリカという国は人種意識の強いところですから、われわれが黄色い黄色人種ということになっているので、「道は長いな」と思ったのが、黄色い長い道という曲になったわけです。
―1950年代にアメリカに渡り、ジャズをやる東洋人女性に対しての見方、差別や偏見というのは人生にはどんな影響を与えたんでしょうか。
アメリカに行ったら、「メルティング・ポット(人種のるつぼ)」と言われるけれども全然違う。まだ私が行ったころには、黒人はバスで後ろに座らなきゃいけないとか、同じおトイレ使っちゃいけないとかまだ残っていた時代です。
私が影響を受けたのはデューク・エリントンの生き方です。自分が黒人であることを非常に誇りに思って、『Black and Tan Fantasy』とかそれに根づいた曲が多いわけです。私が日本にいたときには「日本人でジャズを演奏する」というのは、ハンディキャップと思われてた時代ですよね。でもデューク・エリントンは黒人であることを非常に誇りに思っている。それで私、日本人というのは逆にそれは私の財産だと思うことにしたんです。それで日本の伝統から何か引き出してという気持ちになったわけです。
―その後秋吉さんは日本特有の旋律や楽器をジャズに取り入れ、終戦を知らずに戦い続けていた日本兵をテーマにした「KOGUN(孤軍)」や水俣病を描いた「MINAMATA」などを発表してきました。作品を聞いていると、自分の伝統や文化を誇ってもいい、もっと大事にしなくてはという気持ちをもらえる気がします。誇りやアイデンティティー、プライドというのはどう考えていますか。
プライドというのは、誤って出るといわゆる権力者みたいなほうに走るでしょう。正しいプライドというのは、私の場合、日本人であるということにプライドを持つ、誇りを持つ。女性であるということに誇りを持つ。別にだんなさまの10メートル後ろで歩かなくてもいい。「いい意味での自信を持つ」ということですね。自分をよく見つめるということですね。
例えばアメリカの場合、当時黒人が自信を失っていたということもだいぶあって、ブラック・イズ・ビューティフルというスローガンができて、彼らたち自身が自分に対して誇りを持つという運動がわーっと行われた。自信を持つってそういうことであって、自慢というのと違いますね。
―秋吉さんの作曲とアイデンティティーというのは、すごく深く結びついていると感じがします。
でも問題は、勝負は私が死んでからですね、いいものは残るし。ベートーヴェンの時代にも他の作曲家がいたと思うんですけど、曲はあとに残るほど優れてなくて、消えちゃったんじゃないか。よければ残る。私としては、勝負は私が死んだ後と思ってます。
―長いジャズ人生の中で、秋吉さんにとってジャズとは・・・。
ジャズは私にとって、私の人生そのものですね。16歳のときにプロフェッショナルな世界に入ってまもなくジャズを見つけて、それからの長い間ですから。いわゆるジャズの中で私は育った人間です。ジャズを通して社会で起こることをある程度批判の目で見るようになって、今年の12月で私93歳になります。なかなかね、進歩しないものですよね。でも努力だけはするということですね。
【取材後記】 努力と共感の大切さを感じて
世界的なレジェンドに会える!大げさではなく、前日のライブでピアノに向かう姿は鍵盤と格闘するようで、縦横無尽に動く手が発光する瞬間を確かに私は見たのです。興奮と緊張の中で迎えた当日。部屋に現れた「伝説」は、本当に本当に、小柄で、きゃしゃな女性でした。
なぜ、この小さな体から世界を魅了するパワフルな響きが生み出されるのか。なぜ、70年以上第一線に立っても情熱の炎が消えることがないのか。秋吉さんから出た答えは「毎日同じことやっているうちに、93歳になっちゃった」でした。実は過去に手の筋肉が萎縮する病気になったり、不慮の事故で手の腱を切ったりしたことがありました。それでも"努力"を続けて乗り越えたのです。これほどの天賦の才に恵まれた方も惜しみなく努力を続けていると聞き、私は消えてしまいたいような思いにかられました・・・。
そして最後に視聴者の皆さんにメッセージをとお願いすると、「ありがとうございます」という言葉を選ばれました。込めた思いは「共感」の大切さ。一つのことに打ち込むときも、人々と共感しあうことで自分の存在意義を確認できると言います。大きな歴史のうねりを見てきたからこそシンプルな言葉に、今の断絶の時代に大切なキーワードを示された気がしました。努力を続け、共感を得られる存在になる。私にとって「Long Road」ではありますが、大きな刺激をいただいた帰り道でした。
【放送日:2022年12月10日】