【戦争を語り継ぐ】僕たちは秘密の火薬工場で働かされた

NHK
2022年9月7日 午後5:20 公開

壁のあちこちに落書きが描かれ、時間が止まったような廃墟。

京都府舞鶴市の山奥にある建物は、かつて旧日本海軍の"重要な施設"でした。しかし、そこでどんな人が何をつくっていたのか、地元の人でさえ知る人は多くありません。

当時この施設で働いていた人を探し出し貴重な証言を得ることができました。

浮かび上がってきたのは、不都合な事実を隠蔽しながら、危険な環境で中学生を働かせていた海軍の姿です。

(京都放送局 映像取材部 根来勇輝)

山奥に眠る戦争遺構 海軍の秘密の火薬工場だった

太平洋戦争中、京都府舞鶴市は旧日本海軍の重要拠点で、舞鶴港の周辺には造船所など多くの軍事施設がつくられていました。

<現在の舞鶴市朝来地区 海岸から山へと続いている>

私たちが目指したのは港から山側に7キロほど離れた朝来(あせく)地区です。

生い茂った草木が道をふさぐ険しい山道を進んだ先に、ツタや木の根に覆われた建物が見えてきました。

かつてこの場所は「第三火薬廠(しょう)」と呼ばれていました。

1941年に建てられた旧日本海軍の火薬の製造工場で、砲弾や魚雷などに使われる火薬が作られていました。

敷地面積は約600万㎡。およそ300の施設が建ち、5000人が働いていたと言われています。

施設のほとんどは戦後に解体されましたが、今は11棟だけが残っています。

今回、特別に許可を得て中に立ち入ることができました。

内部は雨水が入りこみ水浸しになっていましたが、建物自体には大きな損傷はなく頑丈な造りであることがわかります。

火薬の製造で使われていたとみられる金属製の排気口がさびたまま残されていて、当時の様子を物語っていました。

わずかに残る貴重な施設 歴史を語る戦跡

<覆土式火薬庫>

さらに山道を進むと、ひときわ大きな建物が姿を現しました。「覆土式(ふくどしき)火薬庫」です。

製造した火薬を保管するために使われていて、奥行きは50m以上あります。

屋根の上には土が盛られ、アメリカ軍の飛行機に見つかりにくくなっています。

また二重のコンクリートの壁によって、爆弾を落とされても中にある火薬への誘爆を防ぐ構造になっています。

地元で20年近くにわたって第三火薬廠を研究してきた関本長三郎さん(79)は、火薬製造の規模や技術など当時を知る資料的価値として大変貴重な場所だと言います。

関本長三郎さん

「壁の厚さは40㎝以上あり、現代の一般的なコンクリートの建物と比べてもはるかに頑丈につくられています。火薬廠は全国に3か所つくられましたが、建物がここまで残っているのは舞鶴だけで、当時を知ることができる貴重な遺構です」

<第三火薬廠を長年研究してきた関本長三郎さん(79)>

働かされていたのは中学生 危険な火薬”かゆくてたまらなかった”

戦後も変わらぬ姿で残り続けている第三火薬廠。

しかし軍の機密情報が漏れるという理由で、中にあった資料は終戦時にほとんどが廃棄されています。

施設内で何が行われていたのか、

さらに取材を進めると貴重な証言にたどり着くことができました。

舞鶴市に住む小坂光孝さん(92)は、中学3年生だった1945年に第三火薬廠で働いていました。

小坂さんと同じように第三火薬廠に学徒動員された学生は1300人以上にのぼります。

当時は沖縄戦が激化していた時期で、戦況が日々悪化していく中の作業でした。

小坂光孝さん

「『お前たちの働きで沖縄戦の勝敗が決まる』と叱咤激励されて、一生懸命やったのを覚えています」

<中学生の頃の小坂さん>

小坂さんが第三火薬廠で撮られた1枚の貴重な写真をみせてくれました。

危険な火薬を扱うにも関わらず、手作業で行っている様子が写っていました。

小坂さんは作業をしていた時のことを今でも覚えています。

「この火薬は手についたら真っ黄色になって、ものすごくかぶれてしまう。そんな火薬がついた手で顔などを触ってしまったら体じゅうがかぶれてしまって、全身かゆくてかゆくてたまらない」

当時、海軍が製造していた火薬には海外ではほとんど用いられていない強い毒性を持つ原料が使われていました。

しかし物資不足から安全な原料を調達することができず、危険な火薬を使い続けました。

知らずにつくらされた特攻兵器

この火薬を使っていた兵器が、人間魚雷の「回天」です。

改造した魚雷に人が乗り込んで操縦し、敵の軍艦に体当たりする特攻兵器です。

<人間魚雷「回天」 提供: 周南市回天記念館>

その回天の弾頭に火薬を詰め込む重要な作業を行っていたのが、小坂さんたち動員された生徒でした。

回天は当時の海軍にとって最重要機密だったため、小坂さんたちは何をつくっているのかを全く知らされなかったと言います。

「『詳しくはお前らは知らんでもええ、ここでしている事を親にもしゃべったらあかんぞ』と言われて。人が乗って帰ってこられずに敵に突っ込むしかない、そんな兵器だとは全く知りませんでした。みんなが動揺するような話は絶対しないように抑えつけていたんでしょうね」

同級生の死も隠蔽され…

秘密を徹底して守ってきた海軍の第三火薬廠は、時には都合の悪い事実を隠蔽してきました。

小坂さんがそのことを強く感じた出来事がありました。

同級生がトラックで運搬中の回天に挟まれ死亡する事故が起きてしまいました。

しかし小坂さんたちにはその死は伝えられず、詳しく知ったのは戦後になってからだったのです。

「きちんとロープをかけていなかったために、急ブレーキで荷台に積んだ回天が倒れてきて亡くなったそうです。そういう話は上からは全然伝わってきません。学校で葬儀をしたみたいですが、それすら僕たちが気づかないうちにされました。学問を途中でやめて、あそこで死んでどんなに無念な思いだったか。2度と繰り返してはならないと思います」

“消されていく歴史“ 後世にどう引き継ぐか

中学生たちが理不尽な環境で働かされた第三火薬廠。

戦後、敷地は国有地となりいくつかの建物は取り壊されずに残りました。

しかしこれまで活用されることはほとんどなく、歴史は埋もれてきました。

長い年月を経て、残された遺構は落書きされ荒らされてきました。

今年の夏も、小坂さんは犠牲になった仲間たちの慰霊祭に参加して第三火薬廠での体験を語りました。

当時を知る人も高齢となり、参加する元学徒の数は年々減っています。

「本当に何か消されていくような思いがします。それを食い止めないといけない気持ちです。(第三火薬廠の)建物はあと何十年も残るでしょうから、その場所に集まる人たちが、そこで何があってどんなものを作っていたかという歴史を引き継ぎ平和な日本を作る。そんな場になってくれたらと願っています」

<慰霊式で祈りを捧げる小坂さん>

私たちが取材を始めたきっかけは、「建物がここまで残っているにも関わらず、どうして詳細がほとんど知られていないのだろう」と不思議に思ったことでした。

浮かび上がってきたのは、戦後も不都合な事実と向き合うことなく、小坂さんたちの声に耳を傾けてこなかった社会の姿です。

第三火薬廠のほかにも未来に伝えるべき歴史を持つ戦争遺構は全国に眠っているのではないかと思います。

戦争の悲惨さを語ることができる体験者がどんどん少なくなる中で、戦争遺構から戦争の歴史をどう伝えていくか。

我々メディアとしての責任も問われていると取材を通じて強く感じました。

【2022年8月12日放送】