「伊藤さんはヤクルトスワローズの大ファンだそうですね」
朝5時半に行われるおはよう日本の打ち合わせ。「イラスト解説ここに注目」のコーナーでウクライナ産の農産物輸出について解説をすることになっていた出川解説委員が、おもむろに切り出してきました。胸ポケットから取り出したのは、ヤクルト村上宗隆選手のカード・・・。そう、出川解説委員もスワローズファンの同志だったのです!
話を聞いてみると、出川さんは何度も「歴史的瞬間」に立ち会っていました。スワローズ愛がNHKの中東取材を陰ながら支えてきたことがわかってきました。
(おはよう日本キャスター 伊藤海彦)
王さんから村上選手まで 出川解説委員が目撃した「歴史的瞬間」
伊藤海彦キャスター
ニュースセンターで打ち合わせをしている時に出川さんのスーツの胸ポケットから村上選手のカードが出てきたこと、すごく覚えています。「これは本物だな」と思ってですね(笑)
出川展恒解説委員
あ、今も持っていますよ。これですね。「三冠王」と書かれたカード。神宮球場で村上選手のネームの入った飲み物を買うとついてくるオマケなんです。
海彦:実は僕も持っていまして、こちらは「56号」と。今年の村上選手は本当にすごかったですね。
出川:去年までもすごかったんですけど、今年大飛躍ですよね。三冠王をとるとは予想していなかったし、一番びっくりしたのは5打席連続ホームランです。今年は村上選手のホームランは全部で7本見たんですけれども、シーズン最終戦の最終打席で打った56号ホームラン、実は目の前で見ることができました(ドヤ顔)。
<今年の日本シリーズを観戦していた出川解説委員>
海彦:いやあ・・・目の前で歴史的な56号を見たというのは、どんな気持ちだったんですか?
出川:「ついにやったな」と。「この人、本当にやるんだな」と思いましたね。55号を打ってからずっとホームランが出なくて、本人は相当苦しんでいた。最後の最後で本当に見事に、打った瞬間ものすごい打球が一気にライトスタンドに突き刺さりました。今でもあのシーンが思い浮かびますね。
どんな気持ちで56号を打った? 海彦キャスターが村上選手のメンタルに迫る記事はこちら
出川:私がプロ野球を好きになったのは、V9時代の巨人軍の王貞治選手なんです。高校1年の時に世界記録である756号を打ったんですけれども、私は756号を見るために毎日後楽園球場に通いました。1977年の9月3日。ついに目の前で見たんですよ。私の60年の人生の中で忘れられないシーンとして記憶に残っています。
5万人を超える超満員の観客。私は左中間外野席の中段の通路に新聞紙を敷いて座り、双眼鏡で見ていたんです。ヤクルトの鈴木康二朗投手の投げたフルカウントからの6球目を王さんが見事に打って、打った瞬間ホームランと分かる当たりでした。その時の歓声は、ふつうとは全く違う、まさに歴史的瞬間という感じの歓声で、ライトスタンドの中段に飛び込んでいきました。
王さんが打席に立つと、みんながホームランを期待している。その期待に応えてくれるんですね。そういう選手はなかなか現れなかったと思うんです。今年の村上選手を見ていて「これは王さんの再来だな」という思いを強く持ちましたね。
海彦:何十年もたって、しかもファンであるヤクルトからそういう選手が出てきたというのはどんな思いなんですか?
出川:よくヤクルトに入ってくれたなあという感じ(笑)。来年以降どんどん記録を伸ばしていく可能性があるでしょ。どこまで伸びるのか。ヤクルトにいたバレンティン選手が60本打っていて、村上選手はこれを次の目標にしていると思うんです。・・・そういえば私、実はバレンティン選手の60号も目の前で見ているんです。
海彦:すごいな(笑)
若松選手にあこがれて 野村監督にはまった
海彦:そもそも出川さんがここまでヤクルトに熱中する理由、きっかけはなんだったんでしょう?
出川:最初は王選手と長嶋選手が活躍していたV9時代の巨人を応援していて、ヤクルトは当時弱小球団だったんですよ。初優勝は1978年、王さんの756号の翌年で、その戦いぶりにひかれました。そして、当時チームリーダーに若松勉という選手がいました。「小さな大打者」と呼ばれ、小柄で167センチ、73キロ。右投げ左打ち。私も野球をやっていたんですけど同じ身長で右投げ左打ちだった。だから若松さんは私にとってお手本、師匠だと勝手に思ってね。フォームをまねしながら素振りをしたんです。
<東京六大学軟式野球オールスター戦に出場した出川解説委員(右上)>
海彦:出川さんは入局されてから記者として海外に行かれて、中東の取材をずっとされてきたんですよね。
出川:はい、1985年国際報道を目指してNHKに記者として入りました。海外特派員になりたいと思ったのです。中東担当になったのは巡り合わせです。最初に海外に派遣されたのが91年、イランの首都テヘランでした。
そしておよそ1年後、日本に帰って本格的にヤクルトにはまったのが92年と93年。セ・リーグ連覇の時ですね。野村監督のもと「ID野球」といわれるデータ重視の野球でした。よそのチームを戦力外になった選手を再生させていく手腕。野球の奥深さというものをみせられた思いがあります。特に2年連続の西武との日本シリーズは心に刻まれています。
海彦:森監督の西武でしたね。
出川:そう、92年も93年も紙一重の死闘でした。持てる力を双方がすべて出し切った、どっちが勝っても不思議でない名勝負でした。今年と去年のオリックスとヤクルトの日本シリーズが重なってくる、プロ野球の醍醐味を心から味わわせてくれるような勝負でした。
海彦:日本シリーズも見に行きましたか?
出川:行きました。93年の第7戦は西武球場で、今の監督、高津臣吾投手が、9回裏、最後のバッター鈴木健選手を三振に打ち取って優勝が決まりました。優勝インタビューで野村監督が今の気持ちは?と聞かれて「最高です」と答えました。そのインタビューの中で「ファンの皆様に、感謝、感謝、感謝です」と3回繰り返すんですけど、それが去年高津監督が優勝インタビューの中で同じように「感謝、感謝、感謝です」と言ったんですよ。高津監督はたぶん、野村さんに教わったものを自分なりに解釈してチームづくりの指針にしてるんだろうなと思いますね。
厳しい中東報道のさなか ヤクルトに元気をもらった
海彦:そのあと94年から98年まで今度はエルサレム支局に駐在していますけれど、この間はヤクルトの試合はどう見ていたんですか?
出川:95年と97年にヤクルトが優勝していて、当然気になっていましたが、なかなか直接テレビで見ることはエルサレムにいるとできないですね。まだ当時あまりインターネットも発達してなくて、遅れて送られてくる新聞を読んだりとか。
<ヤクルトが優勝した1995年9月、イスラエル・ペレス外相と(左)PLO=パレスチナ解放機構 アラファト議長と(右)>
海彦:すごく神経をすり減らすような仕事だったと思うんですけど・・・。
出川:93年に「パレスチナ暫定自治合意」という歴史的な和平合意がイスラエルとパレスチナ解放機構との間で結ばれ、国を持つことができなかったパレスチナ人に国家独立の機会を与え、イスラエルと平和共存させようという中東和平プロセスが本格的に始まりました。それに対する世界の期待は非常に大きかった。ところが反対する勢力もいてテロが起きるわけですよ。イスラエルのバスがパレスチナの過激派に自爆テロで爆破される現場をいくつも取材しました。
それから忘れもしません。イスラエルのラビン首相が和平に反対するユダヤ人の過激派の青年に銃で撃たれて暗殺されたんです。1995年の11月4日の夜、テルアビブでした。私はラビン首相が最後の演説を行った10万人が集まった平和集会を目の前で取材していました。「何者かに撃たれた」という一報を聞いて、すぐラビン首相が搬送された病院に駆けつけました。はじめは「重傷だが命は助かりそうだ」という情報でしたが、突然「今、ラビン首相が亡くなった」と発表がありました。そこから携帯電話で東京に連絡、そのまま緊急ニュースとして電話による中継リポートを必死で伝えました。これこそ「歴史上の大事件」です。95年、ヤクルトが優勝した直後なんだけどそれどころじゃなくなりました。
海彦:エルサレムにいた4~5年、すごく忙しい中で、ヤクルトの情報に触れる時はどんな気持ちになったんでしょう?
出川:ヤクルト優勝のニュースはいい気分転換でしたね。思考回路が完全に変わりますから。厳しい和平交渉の密着取材をしたり、テロの現場に行ったり、そういうことばかりの毎日だと気持ちがまいってくる部分もあるんですけど、野球で勝った、負けたっていう話は人の命がなくなるわけではないですから。これは「戦い」でも、「健全な戦い」なわけですよ。そういう情報に触れるのは楽しみでした。
海彦:98年に国際部のデスクとしてまた東京に戻られますが、この頃は試合に行きましたか?
出川:よく神宮球場に行きましたね。私が尊敬する若松勉さんが監督になったので、応援にも熱が入りました。2001年に念願かなって優勝するんですが、夏場になって調子がどんどん上がり、巨人と首位争いを繰り広げました。いよいよ球場に行きたくなる状況の中で、とんでもないことが起きたんですね。
9月11日、アメリカ同時多発テロ事件です。
この日を境に私の生活が完全に変わりました。その日は国際部の泊り勤務だったんだけど、その日から4か月間、一度も自宅で寝ることがありませんでした。テレビの解説を担当して、ほぼ毎日出演することになり放送センターに詰めていました。アメリカをはじめとする多国籍軍が、アフガニスタンを拠点とする国際テロ組織「アルカイダ」への報復攻撃を行い、ビンラディン容疑者をかくまったイスラム組織「タリバン」の政権を打倒しましたが、その間、戦況分析やイスラム過激派の思想についてニュース解説を続けました。12月から翌年1月まではアフガニスタンに出張し、現地からリポートしました。
9月11日以降、野球を見る時間はなくなりましたが、いよいよヤクルトスワローズにマジックナンバーが灯り優勝という話になってくると、そういう情報はなぜか頭の中に入ってくるんですよね。ニュースのスタジオにいてもヤクルトに関する情報は聞こえてくるんです。
海彦:優勝が決まった情報も・・・。
出川:日本シリーズは近鉄バファローズと戦って圧勝したわけですけど、優勝が決まったのは神宮球場でのナイターだったんですね。ちょうどスタジオに入るタイミングでした。「若松監督のヤクルトがついに日本一になったなあ」というのはすごく覚えてます。もちろんテレビでそういう喜びの表情は出せる状況ではありません。同時多発テロと軍事作戦の解説をしていましたから。気持ちを押し殺しながら「優勝決まったぞ」みたいな感じでした。
海彦:同時多発テロを分析しながらヤクルト日本一という情報が入ってきて、頭がぐちゃぐちゃになりませんか?
出川:いや、元気が出ましたよ。毎日ずっと情報を追い続けてテレビ出演もあって、睡眠時間も非常に短いですから疲れがたまって。ぎりぎりの生活をしているんだけど、そこで元気の素になりましたよね。じっくり観戦することはできなかったけれども、いよいよ優勝だぞとわくわくしながら。
<2005年1月 イラクの首都バグダッドから「おはよう日本」に中継リポート>
野球は奥が深い!来シーズンも期待しています
海彦:そのあとカイロ支局長としてイラク戦争の報道などに4年間携わり、解説委員として戻ってきたあと、なかなかヤクルトは勝てない時代が続きましたよね。
出川:勝てない時代も神宮球場には行っていましたよ。ヤクルトファンの友人のサークルもできて、情報交換しながら一緒に見に行ったりしていましたね。
そして2015年は最下位の翌年、真中監督の就任1年目で14年ぶりの優勝でした。川端選手が首位打者になって、若き山田選手がホームラン王、畠山選手が打点王。投手陣も小川、石川両投手を中心に抑えのバーネット投手まで勝ちパターンが確立され、投打のバランスがとれたチームでした。うれしかったですね。
海彦:ひょっとしてこの年は優勝の瞬間も神宮で見ている・・・?
出川:優勝が決まりそうな状況になってから毎試合見に行ってましたね。10月初めの阪神戦でした。最後は去年引退した雄平選手が1塁線にサヨナラヒットを打ったんですよ。あのシーンも忘れられないシーンです。その試合はNHKが衛星放送で中継していました。1塁側スタンドを映した映像に私が映っていたんです。かつて解説委員室にも在籍していた内山俊哉アナウンサーがそれを見つけて「見に行ってたでしょ」と(笑)。別に仕事さぼって見に行っていたわけではありませんけど。
その年の日本シリーズはソフトバンクホークスに歯が立たなかったですが、ヤクルトが勝った試合、山田哲人選手が3打席連続ホームランという離れ業をやるんですよ。あの試合も見に行ってました。
<若松さんを真似た打撃フォームで、今も打席に立っています>
海彦:ほとんどの試合を見に行かれてるんじゃ…でも出川さんが行くとなかなか勝てないという説もあるそうですね。
出川:今年は非常に勝率が悪くて、レギュラーシーズンは13回見に行って4回しか勝てませんでした。日本シリーズは1戦と2戦、6戦と7戦が神宮球場でしたが、全部見に行きました。第3戦まではヤクルトペースだったから「今年はいけるな」と思いましたよね。
海彦:本当に思いました。
出川:しかもオリックスは山本由伸投手が第2戦以降投げられなくなったと伝えられていたから「これでもらった」という感じだったけれども、そのあとオリックスが巻き返して優勝しましたから、野球というものは非常に奥が深い。投手陣を立て直してセ・リーグ連覇に導いた高津監督は素晴らしい監督だと思いますが、中嶋監督のマネージメント能力も本当に素晴らしいと思います。
海彦:来シーズンヤクルトスワローズの戦いぶりはなにを期待したいですか?
出川:もちろん3連覇してほしい気持ちがあります。でもセ・リーグの全チームが束になって倒しに来るので簡単にできることではないと思いますね。でも、今のチームの力や良好な雰囲気を見ていると、3連覇できる可能性は十分にあるし、また来年オリックスと日本シリーズやるようになったらいいなあと思ってますよ。
<対談の途中でユニフォームを着替えました>
海彦:僕も思います。次こそ、ちゃんと山本由伸投手を打って日本一になりたいですね。
出川:そうですね、日本シリーズにプロ野球の魅力は凝縮されていると思います。どちらが勝っても死力を尽くした戦いを見ることがいちばん満足感を得られますね。敗北が決まった時に、高津監督が悔し涙を人目はばからず流していましたが、そのあと中嶋監督のところに歩み寄っていって祝福していました。あのシーンを目の前で見て「ああ、やっぱりスポーツはすがすがしいな、いいもの見たな」と思いましたね。
海彦:来年も同じような光景・・・逆になってほしいですけど、ちょっと気が早いですけど来年も期待して、出川さんとこうやってお話させていただければと願っています!