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かっぽう着が“制服”だった 母親たちの戦争~国防婦人会~

NHK
2021年9月17日 午後5:00 公開

戦時中を描いたドラマや映画に、ご近所に戦争協力を求めるかっぽう着姿の女性たちがよく登場します。およそ1000万人の会員を擁し、当時最大の女性団体だった「大日本国防婦人会」です。地域から兵士が出征する時には、日の丸の小旗を手に盛大に見送り、兵士が戦死すると遺族のもとを訪れ「英霊」と讃えるなど、地域社会から戦争を支えました。

今回長野県で見つかった資料からは、普通の主婦たちが国防婦人会に組織され、次第に国策への協力を深めていった実態が見えてきました。満州への移民政策が推し進められる中で、若い女性たちを満州へと送り出していたのです。現地の日本人男性と結婚し、子をもうける「大陸の花嫁」でした。しかし戦争末期、多くの「花嫁」たちが、戦火に巻き込まれることになります。

母親たちはどんな思いで娘たちを満州へと送り出し、戦後をどう生きたのでしょうか。

地域の婦人会が名前を変えて「国防婦人会」に

国防婦人会の資料が残されていたのは、現在の長野県飯田市にあった旧松尾村です。会員の女性たち自身がつづった活動日誌や、会の方針などが記された資料が、地域にある施設の倉庫に眠っていました。

資料によると、村に国防婦人会ができたのは、日中戦争が始まる前年の昭和11年のことでした。当時すでに、国力の全てを戦争へと注ぎ込む「総力戦」が唱えられ、陸軍は家庭や地域社会で戦争協力を担う存在として、国防婦人会の結成を全国で後押ししていました。

資料には「松尾女子会はこれを国防婦人会と改める」と記されていました(松尾国防婦人会会誌より)。すでにあった組織の看板を掛け替える形で、婦人会が組織されたことがわかります。

前身の「松尾女子会」は、養蚕の講習会や農繁期の託児所の運営など、農村の主婦たちが助け合う組織でした。生活に欠かせないこの会には、村の既婚女性全員が参加していました。その女性たち1000人あまりが、自動的に国防婦人会の会員となったのです。

見つかった資料をもとに、母親が村の国防婦人会の会員だったという女性に話を聞くことができました。92歳の後藤繁子さんは、一生懸命に活動していた母・さださんの姿を鮮明に記憶していました。

後藤繁子さん 「母は『このかっぽう着がりりしくて、とても心が引き締まる』って言ったことを覚えています。かっぽう着が制服で、『さて行くぞ』『がんばって働くぞ』という心意気というか。もうどこに行ってもこの姿でした」   

母・さださんは当時40代で、村で商店を営みながら7人の子どもを育てていました。地域の互助会だった婦人会の活動に参加するのは当たり前で、商売と子育ての合間をぬって行事に駆け付けていたと言います。

資料によれば、国防婦人会になってから、戦地の兵士に贈る「慰問袋の製作」や「武運長久祈願祭」など、戦争に関わる活動が増えていきました。家事、子育て、農作業に追われていた主婦でしたが、「自分たちもお国の役に立てる」という“やりがい”から、熱心に婦人会活動に取り組んでいったといいます。こうして村では、女性たちが戦争に協力する体制が作り上げられていきました。

(後列右端:繁子さんの母・さださん)

村に広がる、本音を言えない「空気」

中国との全面戦争が始まったのは、旧松尾村で国防婦人会が結成された翌年(昭和12年)のことでした。戦争が長期化するにつれ、食糧や物資が不足し、生活への影響も大きくなっていきました。夫や息子たちが兵士として出征していく中で、村に残った女性たちに“銃後を守る”ための役割が強く求められていくようになります。女性たちは国策への協力を競い合うようになり、村には息苦しい空気が広がっていったといいます。

繁子さんは、忘れられないという母のエピソードを教えてくれました。

ある日、婦人会から、家庭にある金属を供出するよう指示がありました。当時、金属を兵器に変えるとして「金属供出」が求められ、鍋や釜などが、台所から減っていきました。次第に供出できる物が限られていき、蚊帳を吊っていた小さな金具まで差し出さねばならなくなったとき、母・さださんはこうつぶやきました。

(作画 黒岩園加 永田明日香)

後藤繁子さん 「母親は『そこまでして、それで日本は勝てるのか』って言った。『そんなもの出さなきゃ日本は戦争ができないんだったら、日本は大変だな』って」

家族の前で思わず漏らした本音でした。さださんは、いわば庶民の感覚から戦争の行く末に不安を抱いていたのです。しかし、村が「戦勝」へ向けて一丸となるなかで、こうした思いを家の外で話すことは決してなかったと言います。

後藤繁子さん 「口を封じられたわけじゃなくて、そういう余計なことを言うと大変なことになるんじゃない?へらへらしていれば丸く収まるやつを、反対したりすれば自分の心にはいいんだけど、やっぱり今の世情には従わないとしょうがない」

婦人会の資料に、当時の空気を伝える言葉がありました。会の「心得」として、書かれた一文です。

「常にニコニコして小言を言わぬこと」 (松尾婦人会資料より)

女性たちに求められていたのは、笑顔と従順さでした。

女性自らの手で 娘たちを満州へ

太平洋戦争が始まると、婦人会は新たな役割を担うことになりました。若い女性たちを満州へと送り出す、「大陸の花嫁」の勧誘です。国策で満州への移民が推し進められる中、現地に渡った日本人男性たちを定着させるためには、妻として支える女性が欠かせないと考えられていました。兵士となる男性を「産めよ増やせよ」と号令がかかる中で、日本人男性との間に子をもうけることが期待されていました。

満州への移民が日本一多かった長野県では、「大陸の花嫁」の養成施設を開所し、独身女性に家事や農作業といった「花嫁修業」を行わせていました。旧松尾村の婦人会の日誌には、幹部たちがこの「大陸の花嫁学校」をたびたび視察していたことが記録されています。

国のために命を捧げることが求められた時代、戦場に行けない女性にとっては、「大陸の花嫁」となることが国への貢献と考えられていたのです。

(大陸の花嫁を養成した「長野県桔梗ケ原女子拓務訓練所」での家事実習)

実際に、村の婦人会から満州への渡航を勧められた人も見つかりました。当時22歳だった久保田タカ子さんです(現在99歳)。終戦の1年前、両親と農作業をしていたとき、村の婦人会の幹部が訪ねて来たと言います。

久保田タカ子さん 「婦人会の会長さんたちが勧めに来て、大陸の花嫁だとか言って。(満州に行ったら)土地をたくさんくれるとか。みんな国のためだったもんで」

(作画 黒岩園加 永田明日香)

タカ子さんの兄や弟たちは、出征や満州への移民で村を離れており、残っているのは一人娘のタカ子さんだけでした。「兄弟に代わって自分が家を守るんだ」と決意していたタカ子さんですが、大陸で結婚し子どもを産み育てることを求められたのです。

婦人会の誘いに、父親は「一人娘まで差し出せというのか」と激怒したそうです。母親も本心では満州に行かせたくはありませんでしたが、婦人会の幹部たちの手前、断るのは簡単ではありませんでした。

久保田タカ子さん 「なにしろうちの母親はおとなしい人でね、そんな先立った人に逆らってするようなことは(しづらかった)。せっかく来てくれたのに怒らんでもいいって、母親は。あちらも仕事でみえるんだでね、そんなこと言わんでもいいって」

結局、父親の強い反対でタカ子さんが満州に行くことはありませんでした。しかし、多くの友人が「大陸の花嫁」として、満州に渡りました。

一方、「日本は勝てるのか」と疑問を抱きながらも活動を続けていた後藤繁子さんの母・さださんは、2人の娘を「大陸の花嫁」として満州に送りました。繁子さんの姉にあたる、長女・愛恵さんと、次女・昌枝さんです。終戦間際のこの頃、さださんは婦人会の役員となっていました。立場上、娘たちの満州行きを止めることはできなかったと言います。

後藤繁子さん 「とにかく大陸に嫁を出せという風潮だったの。母親は『大陸の花嫁』を送り出すことが、婦人会の役にいる自分の責任だって感じてたんだな」

子どもを失った母親たち 婦人会の戦後

昭和20年8月、満州にソ連軍が進攻し、開拓民として渡った人々も、戦火に巻き込まれることになりました。そして15日、終戦を迎えます。

旧松尾村から満州に渡った女性たちのうち26名が、再びふるさとの地を踏むことなく亡くなりました。

繁子さんの姉の昌枝さんも、日本に引き揚げる途中で幼い子を残して亡くなりました。婦人会の役員として昌枝さんを送り出さざるを得なかった母親の気持ちを、繁子さんはこう推察します。

後藤繁子さん 「婦人会がみな旗を振って送り出したことは間違っていたと思ってたと思う。だけど言えないわな、そんなことは。お腹の底では本当にそれに賛成したくない。自分の子どもをもぎ取られていくので。みんな国の方に傾いて協力をしたわけです。だけど本当の個人になれば、切なかったんじゃないかな」

父親の反対で満州に行かなかった久保田タカ子さんですが、友人の中には引き揚げ中に亡くなったり、夫を失ったりする人が多くいました。

久保田さん自身は、終戦の翌年、復員してきた隣村の男性と結婚します。結婚を勧めた父親に対しては、複雑な思いも抱いたと言います。

久保田タカ子さん 「(戦時中は)私が家を守らなならんと思ったこともあったけど、(戦後に男兄弟が)みんな帰ってきたら、さあどこか嫁にやらにゃ、女の子がうちにおっちゃいかんって言われたもんで。女の子はそういうふうによそへ片付けなならんのかしらんと思って、諦めちゃった」

その後、村の婦人会はどうなったのでしょうか。活動日誌には終戦後、しばらくは何も書かれていません。

記述が再開されるのは昭和21年1月、そこには「松尾村婦人会」が結成されたと記されています。

「昭和二十年八月十五日の悲しき敗戦のうきめに遭遇し 会を閉づるのやむなきに至り今日にいたりたるも 本村有力者各位のご援助を得て 茲(ここ)に新らしい民主主義の婦人会を発足致すべく(中略)最下部より作り 最下部の盛り上る力で本会を設立致すべく決定」(松尾婦人会資料より・原文ママ)

戦後、「民主主義」を掲げて再出発した婦人会では「政治部」を作り、女性の政治参加を後押しする取り組みに力を入れていきます。昭和26年には長野県初の女性県議会議員を旧松尾村から輩出しました。今は、会員数は十数名となり高齢化が進んでいますが、交通安全や清掃ボランティアなど、地域に根ざした活動を続けています。

今回、村に残る資料や、90歳を超えた娘世代の証言から見えてきたのは、当時の女性たちの暮らしの中に、それほど意識されないままに戦争に関わる活動が入り込んでいき、次第に戦争を支える歯車となっていく姿でした。

社会背景や女性たちの置かれた立場は現在と異なりますが、地域の共同体の中で、隣近所との付き合いや地域活動での立場から、本心を言い出せずに自分を押し殺してしまう姿、社会が求める女性の役割に合わせていってしまう姿は、今の私たちとも重なる部分があるのではないでしょうか。

女性たちは、抗うことはできなかったのか。それは、取材すればするほど、難しいことだと感じました。一番大切な子どもたちを差し出さなければならないところまで追い込まれてしまった母親たちと、再び同じ道を歩まないためにはどうすればいいのか。引き返せなくなる前に、私たちひとりひとりが、常に問い続けていかなければならないと感じました。

(広島放送局 ディレクター 池野 彩)

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