「土方さんとわたし」 土方歳三資料館から中継したディレクターの告白

NHK
2022年12月6日 午後2:15 公開

唐突ですが、わたし池田は入局2年目のディレクターで、新選組"鬼の副長"こと土方歳三の大ファンです。

小学生のころから憧れの存在で、部屋には特大ポスターを貼っています。

そんなわたしにとって「聖地」だった資料館が、先日惜しまれながら長期休館することになりました。

「記録に残さなくては」と現場からの中継を提案したわたし。

土方さんと向き合い、迷える毎日から抜け出しました。

(おはよう日本ディレクター 池田佳恋)

「人気がありすぎて」休館することになった 土方歳三資料館

土方歳三の生家は、東京・日野市に残されています。

資料館はその跡地に建てられ、およそ70点の遺品や史料が展示されてきました。

土方歳三や新選組に関するものは明治に処分されてしまったものも多いんですが、生家では大事に守り残してきたのです。

中には新選組の名を一躍有名にした「池田屋事件」で使用したという、鎖帷子(くさりかたびら)も。

槍で突かれたとみられる穴も残っています。

多くの人が目当てにやってくるのが、愛刀の「和泉守兼定」です。

函館での戦いで亡くなるまで使用されたと伝えられています。

さやの部分には無数の刀傷があり、激しい戦いに身を置きながら指揮をとっていたことがうかがえます。

土方歳三は、多くの小説や映画、マンガなどの題材として取り上げられたこともあり、新選組の中でも屈指の人気を誇ってきました。

実は、資料館が休館するのは人が来ないからではありません。

ファンの聖地となって多い日には来場者が1日1000人を超え、対応できるキャパシティーを超えてしまったのです。

<休館を前に、資料館には朝から行列が>

資料館を運営してきたのは、土方歳三の兄の子孫です。

現在は6代目の土方愛(ひじかためぐみ)さんが28年続けてきました。

開館日の対応だけでなく、コロナ禍による予約制のイベントなども行ってきましたが、一時休館することを決意しました。

土方愛さん

「ずっと個人で運営していて対応が難しくなっていました。いちど休館して今後の体制を整えたいと思っています。全国から来てくださり、歳三さんが愛されているのを感じています。さらに資料館のおかげで新選組の子孫の方も来て、研究では見つからないような発見もありました。時代を超えて多くの人たちの絆をつないでくれていると思いますので、今後も前向きに準備を進める予定です」

ディズニーランドより土方さん!追い続けたわたし

20回以上は通った資料館が休館する・・・。

その知らせを聞いて、心にぽっかりと穴が空くようでした。

わたしは土方歳三のことを「土方さん」と尊敬と親しみをこめて呼び、ずっと人生の指針にしてきたのです。

好きになったのは小学生の頃。

きっかけは司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』で、主人公である土方さんの「刹那的で苛烈な生き方がかっこいい!」と熱狂しました。

それからは、夏休みになると図書館にある新選組関連の本を読みつくしました。

自由研究のテーマも、もちろん新選組の刀。

調べた訳は「新選組のかっこよさをみんなに教えるため」です。

福岡の実家の玄関には土方さんの特大ポスターを飾り、一礼して学校へ行くのが日課でした。

ちなみに実家だけでなく、いま一人暮らしの部屋にもポスターは貼ってあります。

中学生になって生徒会長をつとめたのも、土方さんが行動の指針。

『鬼の副長』として恐れられながらも、新選組の強化に努めた土方さんがお手本でした。

土方歳三資料館を初めて訪れたのも、中学生の家族旅行でした。

親には「東京ディズニーランドよりも資料館に行きたい!」と訴えたそうです。

高校、大学と進むにつれ、応援団やバンド、アルバイトなど世界が広がります。

土方さんがいち早く西洋式の服装や武器を取り入れ、「自分に合う戦い方を選び取り入れる」たという柔軟さにひかれていきました。

“厄介オタク”なわたしは、土方さんのエピソードが史実なのか創作なのか、もはやわからなくなっています。

もちろん史実をアップデートしていくことも大事ですが、歴史上の人物だからこそ、自分の解釈を楽しむことができるとも思います。

わたしにとって土方さんは理想の「推し」として、人生の糧にしてきたのです。

放送で伝えたい「土方さん」の意外な魅力

そんなこんなで人生の大半を土方さんに支えてもらった私は、東京に住むようになってから毎月のように資料館に足を運んでいました。

それでも、いちファンの立場で土方さんに関する取材を行うことにためらいがありました。

歴史に詳しいわけでもない自分が、中途半端な覚悟で立ち入っていい世界ではないと考えていたからです。

ただ休館前、もう最後になると思ってうかがうと、地域の方などさまざまな方の協力のもとで成り立っている資料館が尊いと感じる気持ちが強くなりました。

中継をしたいと思い切って土方愛さんにお願いをして、快諾いただいたのです。

<資料館入り口にある竹は土方歳三が植えたとされる>

実際に中継をするとなってからが、わたしにとって大きな挑戦でした。

土方さんの魅力とはなんなのか。

土方さんの魅力をどうすれば伝えられるか。

土方さんに恥ずかしくない放送が本当に出せるのか。

まさに土方さんに見られているような場所から伝えることになったのですから。

悩んだあげく、わたしが最初に紹介することにした資料がこちらです。

土方さんが、京都へ向かう前にまとめた「句集」です。

「しれば迷いしなければ迷わぬ恋の道」という恋の詩も書かれています。

剣に生きたイメージ強い土方さんですが、趣味で俳句を詠んでいて、ロマンチックな面もあったのです。

もともと故郷や仲間を大事に思う人間味のある人だったから、新政府軍に追われた時にも、隊士たちは「赤子が母を慕うように土方さんについて行った」と伝えられているのではないか・・・。

そんな側面を伝えられればと思いました。

その後放送では、池田屋事件で使われた鎖帷子、愛刀の和泉守兼定を紹介。

そして最後に紹介したのが、全国のファンから寄せられたメッセージでした。

「子どものころから、ずっとここに来るのが夢でした」

「中学生の頃に土方さんを好きになって、追いかける気持ちで京都にも進学しました。今もこれからも土方さんが頑張る理由になっています」

「28年間本当にお疲れ様です。大切な友人と一緒にたくさんの思い出を作った大事な場所でした」

土方さんにエネルギーをもらってきたのはわたしだけでないということ、こんなに大きな輪に広がっていること。

テレビで見ていたみなさまに、そして空から見ている土方さんにも伝えられればと思ったのです。

資料館ではこのあと、史料を今後も良い状態で保存するために記録をとって修復し、次の世代へ残す体制を検討するそうです。

各地で個人が運営する資料館をどう存続するか課題になる中で、土方愛さんは今後のモデルケースになれるよう模索したいと話していました。

“激動の時代、最後まで戦う決意”

就職活動で「土方さんのようになりたいんです!」と大真面目に話したわたし。

2年後に土方さんのことを伝えているとは思ってもみませんでした。

コロナ禍に社会に出て、報道の現場で情報の海にもまれている自分にとって、どのように生きていくべきかいつも迷い、探し続けている最中です。

こじつけではありますが、幕末に生きた名もなき人たちも同じだったかもしれません。

土方さんのように激動の時代で信念を貫き、最後まで戦い抜くことだけは忘れないでいようと思います。

<左から土方愛さん、黒田アナウンサー、池田ディレクター>

土方さんは28歳で京都に上り、その後新選組を結成しました。

資料館は28年の歴史で人々をつなぎ、エネルギーを与えてくれました。

わたしは28歳まであと数年、自分で考えて決めたことに責任を果たし、信頼される人になりたい。

竹林を抜ける風に吹かれながら、そんなことを考えました。

【2022年11月5日放送】