トリプルアクセルは跳べなくても~伊藤みどり 50代の挑戦~

NHK
2023年6月9日 午後0:43 公開

フィギュアスケート界のレジェンド、伊藤みどりさん。アジア人として初めて世界選手権を制し、1992年のアルベールビル五輪では銀メダルに輝きました。中でも、女子選手として世界で初めて成功させたトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)は、みどりさんの代名詞となりました。53歳となったみどりさん。先月、国際大会に出場しました。なぜ今も、滑り続けるのか。そこにあったのは、大好きなことにひたむきに取り組む姿勢でした。

(おはよう日本ディレクター 田村夢夏)

今も滑り続ける伊藤みどりさん

下の動画は、先月ドイツで行われた大会での映像です。

https://movie-a.nhk.or.jp/movie/?v=lh1y23ie&type=video&dir=oaf&sns=true&autoplay=false&mute=false

「フィギュアスケートはライフワーク」新たなスケートとの出会い

みどりさんは都内のスケートリンクで、練習に取り組んでいました。現在は北九州市に住んでいるみどりさん。3月からは地元での練習に加え、頻繁に上京し、コーチのもとで大会に向けて調整をしていました。この日は、大会のちょうど1か月前。スケーティングや細かい振り付けを、繰り返し丁寧に練習していました。

みどりさんは、時おり、膝に手をついたり、きつそうな表情を見せたりしながらも、1時間ほどのレッスンに集中していました。

みどりさんが出場した大会は、「国際アダルト競技会」。国際スケート連盟公認の大会で、毎年ドイツで開催されています。出場するのは28歳以上の“大人スケーター”たち。大人からスケートを始めた人や、国内外の競技会に出場経験がある人など、さまざまなスケーターたちがレベル別、年齢別に、自分のベストの滑りを披露します。年齢に上限はなく、中には80歳を超える選手もいます。

みどりさんは現役引退後、32歳までプロスケーターとしてアイスショーなどで活躍していました。引退後はほとんど人前で滑ることのなかったみどりさんですが、アダルト競技会を見て衝撃を受けたと言います。

伊藤みどりさん「スケート観が変わりましたね。世界をめざして金メダルへと思って、厳しいとかハードだとか、大変とかつらいとかっていう選手時代でしたけれども、アダルト大会に行ったら、フィギュアスケートって人生のライフワークなんだということに気づかされた。ぽっちゃりした人でも、年齢を重ねた人でも、自分の人生をおう歌していると感じて。私もそんなつもりでスケートしたら、もっと違ったスケートの捉え方ができるんじゃないかなと感じました

41歳の時に初出場。シビアな競技の世界で戦った現役時代とは違い、「自分が滑りたいスケートを見せよう」と自由なスケーティングを楽しみました。ダブルアクセル(2回転半ジャンプ)を決めると、現役時代に引けを取らない、大きくて伸びやかなジャンプに、会場は大いに盛り上がりました。

アダルトの世界では、私はまだまだ若い。まだまだ元気に滑っている姿を見てもらえる、ライフワークが続けばいいな」。みどりさんの新たなスケート人生の幕開けとなりました。

年齢の壁を乗り越えた再挑戦

アダルト競技会に挑戦するみどりさんにとって、大きなやりがいとなっていたのがダブルアクセルでした。出場の度に披露し、会場を沸かせました。

50代になってもダブルアクセルを跳び続けたい」という目標を抱いていたみどりさん。40代最後の挑戦となった2019年大会には、半年ほど前からトレーニングを積み、体重管理にも気を配り、万全のコンディションで臨みました。

しかし、本番で2回挑むも、ダブルアクセルは失敗に終わりました。

やっぱりすごくショックで。ああ、もう49歳くらいになると、やっぱりだんだん力が衰えて、ちょうど更年期に入ってくる時代に、身体の変わり目でやっぱり難しいのかなと思いました

立ちはだかった年齢の壁。みどりさんは一時期、大会に向かう意欲を失いました。その後、新型コロナウイルスの感染が拡大。みどりさんも、引きこもり同然の自粛生活を送ったといいます。スケートの練習から遠ざかる日々が続きました。

しかしこの冬。久々にリンクに立ったみどりさんは、「また滑りたい」という思いが強くわいてきたといいます。

以前は、現役時代の古傷が痛んでいたというみどりさん。コロナ禍で自粛生活を送ったことにより、体への負担が少なくなり、痛みが減っていたことがスケートへのモチベーションを後押ししました。

みどりさんは練習を再開してすぐ、アクセルジャンプの練習を始めました。トリプルアクセルでも、ダブルアクセルでもない、シングルアクセル(1回転半)からのスタートです。

人生の中で、やっぱり年を追うことで、良くなることもあるけれども、できなくなることも多くなると思うんですね。スケートも年を取っていくことで、できることとできないことがある。2回転半ができないなら、それで『じゃあやめるか』じゃなくて。スケートの魅力を伝えるスケートをしたいというふうに方向性を変えて、と思ってスケートをしています。今は本当に楽しく滑っています。自分を表現して、みなさんに見てもらえたらいいな

「ジャンプを跳べないならやらない」ではなく、「できたらいいな、こういうふうでありたいな」と、大きく物事を捉えられるようになった、と話すみどりさん。今大会では、「アーティスティックフリー」と呼ばれる、スケーティングや表現力が重視される部門に出場することにしました。プログラムで披露するジャンプは1回転のみ。一方で、アクセルへの尽きない情熱も聞かせてくれました。

(アクセルジャンプは)現役時代は伊藤みどりの代名詞であったので、やっぱりアクセルとなるとちょっとこだわりがある。アクセルにこだわり続けて、質の良いものを跳んでいきたいなっていうのは思っています。やっぱり(いつかは)2回転半まで。自分のプライドをかけて!?自己満足ですね

表現するのは「伊藤みどりの人生」

みどりさんは、大会が行われるドイツに行ってからも、プログラムの練習に加え、アクセルジャンプを繰り返し練習していました。プログラムでは跳ばないかわりに、本番前の4分間練習で披露することにしました。

迎えた本番の日。4分間練習で、高く跳んだシングルアクセル。会場からは歓声と拍手がわき起こりました。

やっぱり、私のターニングポイントであるアクセルを跳んでおくことによって、自分の体調とか、調子とか、滑りだとかが分かるんだなというのは、今日改めてはっきりわかりました

そして始まったプログラム本番。表現するのは、「伊藤みどりの人生」そのものです。

まだ元気に滑っている姿だとか、その演技を見て、みなさんがいろいろ感じてくださったり、頑張れる力が出てきたり。まだまだ元気に滑っている姿をみなさんに見せていきたい。53歳なんですけど、気持ちは全然53歳ではありません。楽しく滑っている、やっぱり昔から変わらず、フィギュアスケートが好きな伊藤みどりです

今の自分自身を表現した2分10秒。晴れやかな表情で氷上を舞うみどりさんに、会場全体が引き込まれていきます。決して派手な要素があるプログラムではありません。それでも演技中、たびたび大きな歓声と拍手がみどりさんに送られました。

プログラムが終わった後、みどりさんは自ら手をたたきながら、リンクサイドに戻っていきました。その表情は、達成感にあふれていました。

「(観客が)ヒューって言ってませんでした?こうしたいって気持ちが、なんか伝わっていたのかなっていうのは、滑りながら感じてましたね

言葉を超えて伝わるもの

フィギュアスケートは言葉がいらない」。取材の中で、みどりさんがたびたび話してくれた言葉です。

現役の時も含めて、自分のためにオリンピックとか世界選手権とか頑張ったのに、いろいろな人に『すごく良かった』『感動した』『力をもらった』と言われることがあった。言葉は通じなくても、世界中の人たちからそういうような言葉をもらえた時には、やっぱりやりがいがあります

今、一番自信を持って伝えられるのは、50代までひとつのことを続けてこられたこと、とも話していたみどりさん。人生が詰まったみどりさんのスケートは、多くの人の心を動かしています。