大ヒット映画「君の名は。」などの音楽を担当し、今や誰もが知るロックバンド「RADWIMPS」。
現在は3人で活動しているが、実はもう1人メンバーがいる。
ドラムを担当していた山口智史さん。「ミュージシャンズ・ジストニア」という治療が難しい病気を発症し、8年前から無期限休養中だ。
その姿は今、大学の研究室や緑豊かな田んぼの中にある。
「いつかまたRADWIMPSのメンバーとステージに立ちたい」
病による絶望を乗り越え、自らの病気を研究し始めた山口さんの挑戦に迫る。
(おはよう日本 ディレクター 吉住匡史、記者 本多ひろみ)
異変は突然に
2005年のメジャーデビューから4年。
ファンが増え、最初は小さなステージだった音楽フェスへの参加も、年を追うごとに大きなステージになり、メインの会場を任されるほどに。
バンドは徐々に手応えを感じていた頃だった。
<RADWIMPS 野外LIVE2013「青とメメメ」>
山口智史さん
「僕らの音楽を、楽しみに見に来てくれる人がいることが、とにかくうれしかったのは思い出します。高揚感みたいなものがあって、ずっと夢のような時間でした。やはり曲を世に出せるというのは、本当に特別なことです。曲が生まれてから、レコーディングはどうするとか、曲名はどうするとか、絞り出すような感覚だったので、やっと手放して自分たちだけのものではなくなるという喜びを、感じていました」
ツアーまっただ中。
体の異変はある日突然起きた。
ライブ中に右足に違和感を覚えたのが最初だった。
「2009年のツアーを回っている時、ふだんは何も感じないはずのフレーズが、やりづらかったのです。右足が引っ掛かる感じです。フレーズができなくなるところまではいかなかったのですけど、何か変だなと思いました。でも終わってみたらできていたし、ちょっと疲れていたのかなと、それぐらいの感覚でした」
しかしそのささいな違和感が続くことになる。
次のライブでもまったく同じフレーズで引っかかる。
「3回、4回繰り返していくうちに焦ってくるのですよね。僕の場合キックのダブルと言われるような、「ドドン」と足で2回打つようなフレーズが、やりづらくなっていました。これだけ時間をかけて練習してきたから、大丈夫だろうっていう思いで次のライブに行ったのですけど、本番中に突然音が止まってしまいました。 2回鳴らしたいのに、1回で終わってしまったのですよね。人生で初めてのことで、このフレーズができなくなるなんて、想像ができなかったのです。例えばピアニストの方だったら、ドレミファソラシドを弾くのにミスをするのは考えにくいと思うのですけど、それと同じぐらいでした。その瞬間は本当に頭が真っ白でした」
練習不足が原因だと考えた山口さんは、わずかな時間を見つけてはできなくなったフレーズを集中的に特訓した。
しかしやればやるほどできなくなる感覚があったという。
なぜできなくなったのか、泣きながら練習に励んだ日もあった。
「できないことが分かっているのに、お客さんの前に立たなきゃいけないのです。やっとの思いで世に送り出した曲を、万全の状態で届けたいのに、僕のせいで届けられないことも予想できてしまっていて、そういう中でステージに上がるのは、正直とても怖かったです。そして怖いと思っている自分に対して、『何でお前はそんな気持ちでステージに行くのだ』という思いで、心の中はぐちゃぐちゃでした」
原因が分からない中で信じられないミスが
メンバーも山口さんの不調を感じ、ドラムと向き合う時間を作ってくれることになった。
その間、靴やペダルを変えたり、スティックの長さを短くしたり、また足をあえて固定させた状態でドラムをたたいたりするなど、自分なりの工夫を重ねた。
試行錯誤を繰り返しながら何とか続けていたライブ活動で、信じがたい出来事が起きる。
「一番自分の中でショックだったのは、足の不調が気になって、曲の構成を完全に間違えたことです。信じられない出来事だったのですけど、Bメロの時にサビのフレーズをたたいてしまったことがありました。明らかに違うフレーズなので、本当は入った瞬間に気付くはずなのです。でも僕は結構気付けなかったのです。メンバーもちょっと信じられないようなリアクションをしていたと思います。バンドは本当に止まってもおかしくないようなミスだったのですけど、演奏し続けてくれていました。僕を助けてくれたという感じです。違うフレーズをたたいていることにすら気付けないというのは…1つ自分のプロとしての限界を感じた瞬間でした」
やっと突き止めた病名「ミュージシャンズ・ジストニア」
足の状態には良くなるときと、悪くなるときと波があった。
2014年、また不調に悩まされていた時、ある有名バンドのドラマーの話題が耳に飛び込んできた。
ミュージシャンズ・ジストニアという病名を理由に、活動を休止するというのだ。
「初めてそこで、ジストニアという言葉を知りました。発症から病名に出会うまで5年間は、ずっと暗闇の中をさまよっていたような感覚もあったので、名前が見えることのちょっとした安心感、正体が見えたという思いが最初はありました。でも同時に、無期限活動休養に追い込まれるくらい深刻な症状であるという事実も分かってしまったので、もし自分が認めてしまったら、その先に何が待っているのだろうと、怖くて実はすぐには医師の診断を、受けることはなかったのですよね。でもやっぱり症状がよくならなかったので、病院に行きました」
そして医師に告げられたのが、「ミュージシャンズ・ジストニア」という診断。
ミュージシャンが演奏をする際に、力のコントロールが利かなくなり、演奏に支障をきたす病気だ。手や足、腕、肩、口、喉(声帯)など、特に演奏で多用する部分に症状が現れる。多くの場合、日常動作では症状はほとんど起こらないが、ミュージシャンにとって生命線である演奏動作が選択的に障害される。現在までに様々な研究や治療開発が行われているが、克服することは容易ではなく、多くのミュージシャンが発症し、休業や引退を余儀なくされている。
医師から勧められた薬を頼りに、祈るような気持ちでアジアツアーに乗り込んだ。
しかし症状が治まることはなかった。
ライブ終了後に、メンバーから不調について聞かれ、初めて自分の病名を明かした。
それでもメンバーは信じてくれて、背中を支えるような言葉をかけてくれた。
山口さんも期待に応えようと、右足と左足をスイッチさせる方法に打って出た。
<山口さんの足>
「テクニック的には、利き足ではない足でやるのは、かなりリスクがあることだと思っていたので、初めて挑戦しました。変えた直後は右足に起こっているような変なこわばりはなかったです。 『これはいけるかも』ってすごい希望を感じて、これでいこうと練習を重ねていたら、右足で起きていたことが、左足に移ってしまったのですね。 そのときに受けたショックがとても大きくて、右足もだめ左足もだめ。じゃあもうドラムがだめだと、自分の中で思ってしまって、その場でちょっと倒れ込んでしまいました」
断腸の思いで決めた「無期限休養」
メンバーに脱退の意向を伝えた。
しかしメンバーの気持ちは違った。
「メンバーは『いつかまた一緒に音を鳴らしたい』、『いまの智史の状況はよくわかった』と言ってくれました。症状も気持ちもわかった上で、今音楽はできないという気持ちを分かってくれました。数十年後になるかもしれないけれども、またやりたいと思っているから、無期限活動休養という形で籍を残すことを、最後はバンドとして決めました」
<RADWIMPS HPより>
あんなに好きだったRADWIMPSの音楽を・・・
休養を決めてすぐに、バンドは大きな転換期を迎える。
音楽を担当した映画「君の名は。」の大ヒットで、バンドは一躍有名に。曲の制作に途中まで関わっていた山口さんは映画公開の初日に劇場へ足を運んだ。曲の世界観に圧倒され、仕上げてくれたメンバーへの感謝の気持ちがわいてきた一方で、複雑な気持ちもあったという。
「投げ出してしまったような、やるせないみたいなものが、自分の中にはありました。曲の断片は、できつつあって、すごい曲になるなという、予感はあったので、ひとつの挫折でしたね。 作り続けていた曲を、途中で放り出すのは、自分にとっては初めてのことでした。本当に自分勝手な感情だと思いながらも、やれたらよかったなという思いが強まり、『前前前世』とか聞くのがつらくなっちゃった時期もありましたね」
農業はもう1つの居場所
休養中に出会った農業。
病気の治療が進まず、復帰のめどがたたないまま時間だけが過ぎていく中で、山口さんの救いになった。
地域の人たちと一緒に、伝統的な手法の稲作を行っていて、始めて8年になる。
「農の世界とは程遠い人生を送ってきて、わりと都会で生まれ育ったので、すごく新鮮でした。この地域に引っ越してきて、こういう風景があるということと、地元の人の暮らしによって支えられているということに気付くことができました。ある種1回、ドラマーとしてはドラムを叩けないことでアイデンティティーを見失った瞬間があったのですけど、もうひとつの居場所を作ってくれたのが、この田んぼでしたね」
中国人ファンとの出会いで変わった音楽への思い
農業をしながらの生活。
RADWIMPSの音楽から距離を置いていた山口さんに、転機が訪れる。
アメリカで行われた楽器のフェアに、足を運んだ時のこと。ある中国人の男性から声をかけられた。
「『RADWIMPSの智史じゃない?』と声をかけられてびっくりしました。『体は大丈夫なの?』とすごく心配してくれました。実は彼はすごい昔からRADWIMPSのファンでいてくれて、『自分の周りの中国のファンも、智史の休養を心配している』と伝えてくれました。
ちょうどそのころは、RADWIMPSが中国でライブをするようになっていた時でした。ファンの方はライブの時に、横断幕にメンバーへのメッセージを書いてくれたりするのですけど、『もう智史は休養していたけれど、ここにちゃんと書いたよ』って言って、メンバーの絵として書いてくれていたものを見せてくれました。すごいジーンとして、嬉しかったです。だってそんな遠い場所で、離れた国で、自分のことを思ってくれている人がいるなんて、想像できてなかったので、音楽ってすごいなと思いましたし、やっぱりRADWIMPSで、音楽をやってよかったって思いました。その彼との出会い1つで、一気に変わったのですよね。そこからは変なつきものみたいなものがとれて、今ではよく『君の名は。』も聞いています」
同じ苦しみを減らしたい 研究の道へ
病気と向き合う中で思ったこと。
それはジストニアが、あまりにもドラマーに多いのではないかということだ。
環境的な要因が働いているのではないかと、思い至るようになった。
そしてもう1つ山口さんの背中を押したもの。
それは同じ悩みを抱える人からの相談を受けるようになったことだ。
「悩みがすごく分かるからこそ、力になってあげたいと思うのですけど、僕もまだ克服できてないし正体が見えない中で、無力感を感じました。何とかしたいのに、何もできない、このままでいられないという思いが大きくなっていきましたね」
病気の発症から12年が経過した2021年、ある研究者と出会う。
慶応大学の藤井進也准教授。音楽と脳の関係を調べる専門家で、自身もドラマーだ。
<山口さんと藤井准教授>
山口さんは、自らのネットワークを生かし、1000人以上のドラマーをアンケート調査した。するとプロのドラマーの11人に1人が医療機関で、この病気の診断を受けたと報告し、その多くが山口さんと同じ右足に症状が出ていたことが分かった。専門家からは「11人に1人というのは驚くべき数字だ」との声も上がっている。
8月には、海外の研究者が集う学会で発表もした。
<学会でプレゼンをする山口さん>
「正体があまり見えないものは、見る人それぞれによって、言うことが違ってしまいます。分かっていないことは、理解の共有ができないので、それを見えるようにすることで、ようやく次の会話にいけるかなと思っています。だから見えるものにして、社会に共有していきたいです。その結果として、予防法とか治療法が、今後見えてくる可能性もあると思うので、そうやってジストニアに悩む人が一人でも減ったらいいなっていうところがありますね 」
研究を始めて気付いたこと。それは研究と音楽に共通点があるのではないかということ。
「研究を始めて感じているのは、音楽とすごく似ているなということです。‘時空を超えた共創’だと思っていて、音楽も自分が今まで聞いてきた音楽なしに、自分のオリジナルは作れないです。昔からいろんな曲をたくさん聞いて、いろんな人と一緒に音楽をしてきて、そういうものがだんだん自分の中に入り込んでいって、自分を作っていて、そこから自分のオリジナル表現が、生まれてくると思うのですよね。
研究も、先人たちの研究なしに、今の僕らの研究ももちろん存在しないと思います。このミュージシャンズ・ジストニアに関しても、世界中の研究者たちが、たくさんの研究を積み重ねて来てくれています。だけどまだ分かっていないことは、たくさんある状況なのですね。でもそういう人たちの、人生をかけて研究してきた知恵をお借りしながら、その上に自分の新しい視点を加えていくというものだと感じています」
諦めたって逃げたっていい
一時はどん底まで落ちた山口さん。
その経験から、今悩んでいる人へ伝えたい言葉がある。
「諦めたり、逃げ出したりすることを、悪いことと思わないでほしいです。逃げたい時に逃げてもいいのではないかって、言いたい気持ちはあるかもしれないですね。諦めるっていうのは考え抜いた人にしかできないですよね、きっと。逃げるも同じで、最後の最後、もうどうしようもない時は、人生の中である気がしていて、そういうときに逃げていいんだよっていう、諦めてもいいんだよっていうことは自分の経験上、今本当にぎりぎりの人がもしこれを見ているなら、言いたいですね」
今のバンドへの思い
休養から8年。今、RADWIMPSに思うことを聞いた。
「やっぱりもう1回一緒に音楽したいなと思います。一緒に笑顔でステージに立って、RADWIMPSの音楽を奏でられたら、めちゃめちゃうれしいです。それは研究をやるようになってから、自分の中にはっきりと浮かんできた思いですね」
またRADWIMPSとして音楽をやりたい。この思いを実現すべく挑戦を続けている。
「ドラムを楽しくたたきたいです。だけど僕もそうだったようにやみくもにやっても、(病気への)正しい理解がないと、たどりつけないと思うのですね。科学的な裏づけもちゃんとチェックしながら、この部位は無理かもしれないけど、こういうふうに使ったら、できるかもしれないとか、あるいは克服された方の研究もあったりするので、僕自身も理解を深めながら、どうやったらもう1回あの時のように、心からドラムを、音楽を楽しめるのかを考えています。この研究の先にその風景はあるような気がしています。以前は、暗闇のような、どっちに進んでいいのかも分からないし、進んでいいのかどうかも分からないみたいな感じだったのですけれども、今はちょっといい景色がありそうだなと思っていて、そこまで歩いてみたいなという思いがあります」