牛乳が飲めなくなる? 令和の酪農危機

NHK
2022年11月1日 午後2:22 公開

「酪農家がかつてないほどの苦境に陥っている。なんとかこの危機を伝えてもらえないか…」

7月、一本の電話がかかってきました。声の主は、14年前の「平成の酪農危機」と呼ばれた時期に取材に応じてくれた栃木県の酪農家。当時、高騰する飼料代と上がらない乳価のはざまで苦しみ、「酪農家仲間には設備投資のための借金を生命保険で返そうと、自殺を考えている人さえいる…」と苦しい胸の内を涙ながらに語ってくれた人でした。

当時を超える苦境とは一体どのようなものなのか。取材を進めると、このままでは酪農家の廃業が加速し、私たちが手軽に牛乳・乳製品を手に入れられなくなりかねないほどの危機が迫っている実態が見えてきました。

(おはよう日本 チーフ・ディレクター 松原恭子)

歴史的な飼料高騰 追い詰められる酪農家

電話をくれた酪農家を訪ねると、「自分はもう第一線は退いた」と言って、若手の酪農家を紹介してくれました。栃木県那須町の遠藤拓志さん(45)。戦後に原野を切り開いて酪農を始めた祖父と、それを継いだ父の背中を追い、20代で就農した3代目です。現在60頭のほどの乳牛を飼っています。開口一番、次のように話してくれました。

遠藤拓志さん

「20年以上酪農をやってきましたが、経験したことがないほど大変な事態となっています」

遠藤さんを苦しめているのは生産コストの値上がり。とりわけエサ代の高騰でした。

日本は家畜のエサの7割以上を輸入に頼っています。その価格は徐々に上がり、コロナ禍による輸送費の値上がり、ロシアのウクライナ侵攻による穀物輸出の混乱、そして急激な円安の影響を受け、ここ数年でさらに高騰。配合飼料と乾牧草(乾かした牧草)は、20年ほど前と比べておよそ2倍に値上がりしました。

「平成の酪農危機」では、オーストラリアの干ばつや、アメリカでバイオエタノール原料としてのトウモロコシの需要が高まったことを受けて飼料が高騰しましたが、このころと比べても今は1.3倍以上に値上がりし、歴史的な高値となっているのです。

遠藤さんがこれまで購入していた配合飼料は、今年3月には1トン当たり7万5500円。それが8月には9万1200円と、5か月で1万5700円値上がりしました。遠藤さんは6月から安価な別の配合飼料に切り替えましたが、それでも3月の飼料代より1万2500円高いといいます。また乾牧草も、3月には1トン当たり7万5500円でしたが、8月には8万8000円に値上がりしました。

その結果、遠藤さんが購入しているエサの総額は、3月の310万円から8月には370万円と、月60万円も値上がりしたのです。

自分で価格が決められない 生乳流通の特殊性

一方、スーパーなど店頭で売られている牛乳の価格は、この20年近く、ほとんど変わっていません。

生産コストが上がっても、酪農家はみずからが生産する生乳の価格を値上げすることができないのです。

牛から搾った生乳は傷みやすいため、すぐ乳業メーカーに出荷して加工・販売しなければならず、コメや野菜と違って市場で取り引きすることがなかなかできません。万一メーカーに買い取ってもらえなければ傷んで売り物にならなくなるため、買い手であるメーカーの価格交渉力が強くなります。

こうした力の不均衡に対抗しようと、国内の酪農家たちは組織化することで価格交渉力を強化してきました。現在は、ほとんどの農家が全国に10ある「指定生乳生産者団体(指定団体)」に販売を委託。生乳の価格である「乳価」は、「指定団体」が代表して年に1回メーカーと交渉することになっています。

「一物多価」という特殊性も

さらに生乳には「一物多価」という特殊性もあります。同じ生乳であっても、それを原料にして何の製品が作られるかによって乳価が異なるのです。

まず、生乳のおよそ半分は最も日持ちのしない牛乳に加工されます。余った生乳から生クリームが作られ、さらに余ったものから、より日持ちのするバターや脱脂粉乳、チーズが作られます。腐りやすい牛乳や生クリームは海外から輸入することが難しい一方、日持ちするバターや脱脂粉乳、チーズは、安い海外からの輸入製品との競合が発生します。このため、バター、脱脂粉乳、チーズなどの加工品の原料となる生乳は乳価が安く設定されています。

生産コスト25円以上上昇も、乳価値上げは10円…

乳価は毎年、4月の年度替わりに向けて改定交渉が行われます。今年度は、当初、値上げが行われませんでした。

しかし、この異常とも言える飼料価格の高騰を受け、遠藤さんが所属している指定団体・関東生乳販売農業協同組合連合会(関東生乳販連)は、異例となる夏の乳価改定交渉に踏み切りました。酪農家の生産コストは、この時点で3年前と比べ生乳1キロ当たり少なくとも25円増えていると試算。9月から乳価を少なくとも15円値上げしてもらわないと酪農家はやっていけなくなると訴えました。酪農家たちは、この交渉にみずからの存続を託していました。

しかし7月末、彼らに通知された妥結額は、「飲用の乳価に限り11月から10円値上げ」というものでした。遠藤さんたちは大きく落胆しました。

遠藤さん

「やー、もうがっかりでした。ぜんぜん足りないって。これじゃあ生活できないですよ」

上がらぬ乳価の背景に、コロナ禍の消費減

一体なぜ、生産者の要求は通らなかったのか。関東生乳販連を訪ねると、メーカーと交渉にあたった常務理事の迫田孝さんが、交渉の経過を記したメモの一部を見せてくれました。

5月から7月までの間に行われた交渉は対面だけでも30回以上。メモには、値上げによってさらに乳製品の消費が減ってしまうことにメーカー側が強い懸念を繰り返し主張する様子が記録されていました。

乳製品の消費は、コロナ禍の学校給食の停止のほか、外食産業やホテル・旅館など観光業の低迷により激減しました。この時メーカーは、大量に余った生乳を捨てるのを避けるため、工場をフル稼働させて、日持ちするバターや脱脂粉乳を作りました。その結果、需要が伸び悩む脱脂粉乳の在庫がかつてないほど増えていたのです。

もし、生産者の要求通りに乳価を上げてそれを製品価格に転嫁すれば、いま以上に乳製品が売れなくなってしまう可能性がある。すると、冬休みなど牛乳の消費が減る時期に、余った生乳の量が工場の受け入れ可能量の限界を超え、生乳を捨てる「生乳廃棄」が起きかねないというのです。メーカーは、そうした事態を避けるためには10円値上げが限界だと主張していました。

交渉が長引けば、その分、生産者の苦しい状況も長引くことになる…。関東生乳販連は10円の値上げを受け入れることを決めたといいます。

関東生乳販連 常務理事 迫田孝さん

「『(メーカーから)これ以上いたずらに交渉を重ねても、11円だったり12円だったりにはしない』ということを言われ、苦渋の決断で(10円値上げという提案を)受けることにしました」

しかし上がり続ける飼料代を前に、10円の値上げは焼け石に水でした。

国が呼びかけた「増産」が農家をさらに追い詰める

酪農家たちが苦しんでいる背景には、もう一つ、大きな要因がありました。数年前まで全国の酪農家は、国の増産要請に応え、借金をして規模拡大を図っていたのです。

「平成の酪農危機」では、国産の生乳が足りなくなってバターが店頭から消え、大きな社会問題となりました。その後乳価は2008年に飲用向けで3円、2009年には10円値上げされましたが、それでも酪農家の廃業は止まらず、生乳の生産量は減り続け、バター不足は断続的に続きました。

そこで、国は2014年、生乳の生産基盤を強化するため、施設整備費や機械導入費を最大で半額補助する「畜産クラスター事業」を開始しました。さらに2018年には、当時730万トン足らずだった生乳生産量を10年後までに780万トンに増やすという目標を掲げました。

「増産せよ」という国の大号令。これを受け、多くの酪農家が、半額は補助金、半額は金融機関から借り入れるなどして規模拡大や設備の近代化を進めました。遠藤さんもその一人でした。

動物を相手にする酪農は、365日、家族総出で休みなく働き続けなければなりません。遠藤さんは3年前、家族を少しでも楽にしたい、夢のある酪農を次世代に引き継いでいきたいと、補助金に加えてみずから1億円以上を借り入れて、老朽化した牛舎を、ロボット搾乳機などを取り入れた新しい牛舎に建て替えました。当時は10年ほどで借り入れを完済できる見込みでした。

しかし、この飼料高騰を受けて経営は赤字に。借り入れの返済に充てるもうけが出なくなってしまいました。

当面は金融機関から新たな借り入れをする目途がたったものの、いつまで借り入れを重ねていけるか、見通しは立っていません。

いつまで耐えられるか…未来が見えない酪農家たち

取材を進めていると、ある日、遠藤さんと同世代の酪農家仲間たちが集まりました。みんな、この先も酪農を続けていけるのか、大きな不安を抱えていました。

「今月うちは赤字に転落した。今後100万、200万と足りない月が出てきた時どうしたらいいのか…」

「この状況が好転しなければ借金はかさんでいくばかり。やめられるタイミングでやめるというのは一つのいい選択なのではと思うが、うちではもうやめられない。借金があるから。酪農の借金は会社勤めをして返していける額ではない」

「来年の春までにどうなっているのか、本当に分からない…」

遠藤さんはここ数年、周辺の土地を借りて自給飼料を増やすなど、できる限り輸入飼料に頼らなくて済むように努力を重ねてきました。その結果、現在、エサの2割を自給しています。しかし、まとまった土地がもう見つからないことや、農作業に費やせる時間にも限りがあることから、これ以上増やすのは難しいといいます。

遠藤さん

「明るい未来は見えないけれど、やるしかありません。やるしかないけれど、どうしたら酪農を続けていけるのか分かりません。どうしたら乳価をもっと上げてもらえるのか、どうしたら前に進めるのか、誰か教えてほしい…」

国内の食料・農業を守ることこそが“安全保障”

日本の酪農家の戸数はいまや全国で1万3000戸ほどにまで激減しています。

どうすれば日本の酪農を守れるのか。農業経済学が専門で農業と食料の問題に詳しい、東京大学大学院教授の鈴木宣弘さんに聞きました。鈴木教授のもとにも、全国の農家から「限界が近い」「年を越せるかどうか」といった悲痛な声が届いているといいます。

東京大学大学院教授 鈴木宣弘さん

「国はこれまで政策で誘導して増産を呼びかけ、多くの酪農家がそれに応えようとしてきました。その矢先にコロナ・ショックやウクライナ紛争が襲い、一転して生産コスト高騰が酪農家に重くのしかかっています。

11月から飲用乳価が10円上がりますが、これだけでは国内の酪農家がバタバタと倒れていきかねません。しかしさらに乳価を上げれば、消費者の負担も増えていくことになります。消費者は自分たちの牛乳を守るためと考え、乳製品の値上げを受け入れてもらいたいですが、消費者の負担にも限界があります。今こそ政策の出番です。国の財政出動で酪農家に補てんすれば、消費者に負担をかけずに酪農を守ることができます」

鈴木教授は、日本の農業は他国と比べて十分守られていないと指摘します。

「しばしば『日本は農業に過保護だ』と言われますが、実際は違います。

例えば酪農政策において、欧米では、乳価が、酪農家が再生産可能な価格を下回らないよう、政府による価格支持が行われています。またバターや脱脂粉乳といった乳製品が余った際には、政府が買い入れて市場から隔離し、国内外の援助に回す制度を維持しています。実際コロナ禍において、アメリカは乳製品を含む余った農産物を政府が買い取り、フードボックスとして困窮家庭に配布しました。

しかし日本にはこうした制度はありません。農業全般についてみても、農業所得に対して公的助成が占める割合は、ヨーロッパは90%以上、アメリカが40%程度なのに対し、日本は30%そこそこと先進国の中でも断トツで低いのです」

そして、今こそ食料安全保障について真剣に考えていかなければいけないと警鐘を鳴らしました。

「中国が食料や飼料を大量に輸入するようになった一方で、肥料などの生産資材の輸出を抑制し、日本が思うように買えなくなってきています。かたや異常気象が通常の気象のようになり、世界各地で農産物生産の減少が頻発しています。つまり、これから食料の輸入は不安定な状態が続く恐れがあります。

そうした中でコロナ・ショックやウクライナ危機のような不測の事態が起これば、『お金を出せば食料は輸入できる』ことを前提にした食糧安全保障は通用しない、ということが明白になってきています。

このまま日本の農家が疲弊していき、本当に食料輸入が途絶したら、国民は食べるものがなくなってしまうかもしれないのです。

国民の命を守ることが国防というなら、国内の食料・農業を守ることこそが防衛の要で、それこそが安全保障です。だからこそ、アメリカもヨーロッパも自国の農業を手厚く保護しているのです。日本もいまこそ安全保障政策の再構築が求められています」

国も対策に動くが…

この内容を「おはよう日本」で放送してから10日あまりたった9月末、新たな動きがありました。政府が畜産・酪農対策を発表したのです。

その主な内容は

▼配合飼料価格の高止まりによる生産者の実負担額増加を抑制するため、10~12月期の実質的な飼料コストが7~9月期と同程度の水準となるよう、補てん金を来年2月に交付する

▼今年4月から、乳価が値上がりする11月の前月までの間のコスト上昇分の一部の補てんとして、経産牛(お産を経験した牛)1頭当たり、都府県で1万円、北海道で7200円を11月以降交付する、というものでした。

この対策で酪農家は救われるのか。再び、遠藤さんに聞きました。

遠藤さん

「支援してもらえるのはとてもありがたいです。ただ今回発表されたのは、とりあえず10~12月は今よりエサ代の負担が上がらないようにするという内容。つまり、今すでに直面している苦しみは続くということにほかなりません。また牛一頭に対する補てん金もわずか1万円で1回限り。継続的なものではないので、未来を見通せない状態は変わりません。私たちはこれからも安心して酪農を続けていけるような対策を打ち出してほしいのです」

酪農家を守るため、私たちにできることは

終わりが見えない「令和の酪農危機」。このまま酪農家が疲弊し廃業が相次げば、新鮮な国産の牛乳が飲めなくなるだけではありません。世界的に供給が不安定化する一方で需要は増加し、海外から乳製品を輸入できなくなる可能性もあります。

そうした事態を避けるため、私たち消費者ができることは何なのか。9月に放送した番組の中で、中継を結んで遠藤さんに問いかけました。遠藤さんはまっすぐカメラを見つめて訴えました。

遠藤さん

「消費者は乳製品の値段が上がって大変かと思います。しかし牛乳や乳製品をたくさん消費していただくことが日本の酪農を守ることにつながります。どうかよろしくお願いします」

【2022年9月9日放送】