津波災害に備えて ~宮城県石巻市での活動について~

NHK
2024年1月12日 午後5:58 公開

出演:徳島県防災士会

川添 圭子さん

(2024年1月12日(金)放送)

石巻で活動するきっかけ

 私は13年前の東日本大震災のあと、宮城県内の津波被災地で活動した経験があります。そのことをお話ししようと思っていたところ、元日に、石川県の能登半島で、最大震度7を観測する地震がありました。大津波警報も出て、残念ながら大きな被害が出ました。一方で、私たちの暮らす四国でも、南海トラフ巨大地震に伴う津波が心配されています。きょうは私自身の経験が、少しでもみなさんの参考になればと思っています。
 東日本大震災が起きた時、私は国際NGOで海外に駐在する看護師として働いていました。日本国内が大変な時は日本で活動しようということになって、中東の国から宮城県の石巻市へ移動しました。活動場所は決まっていませんでしたが、所属していたNGOの上司である医師の鎌田實先生から「お前の思う地域医療をやってこい」と言われたので、それを常に意識していました。

石巻での活動内容

 当時、訪れた石巻市の状況はひどいものでした。大きな橋が流されたり、牛などの家畜の死骸が転がっていたり、衝撃的な光景が広がっていました。
 地元の石巻市の保健師さんと話し合って、震災遺構となった「大川小学校」のある地域で活動することになりました。大川小学校は、児童や教職員84人が津波で亡くなったり行方不明になったりした場所です。そこで、主に地域の高齢者の支援をしていくことになりました。
 1つ目に、介護保険を申請している方で要介護度が重い人、要介護5の人から順番に訪問して、状態確認と支援をしました。当時はパソコンが使えず、申請書類を確認しながらでした。
 2つ目は、在宅避難者の支援です。必要なケアをしたり、支援物資を届けたりしていました。
 3つ目は、避難所にいる精神疾患の方など、個別で対応が必要な方の支援をしました。

時間とともに変化する活動内容

 最初の1年ほどは、石巻のボランティアセンターの会議にも出席して、情報共有をしていました。その他、支援に来てくれた医師やリハビリスタッフの活動場所の調整など、活動は多岐にわたりました。
 発災から半年くらい経過すると、徐々に避難所から仮設住宅へ皆さんが移り始めました。仮設住宅は、既存の地域の人がそのまま地域で暮らせる団地もありましたが、そうではないところもありました。
 そこで、コミュニティ再生のため、集会所で「おちゃっこくらぶ」という活動を始めました。行ってみようかなと思う時に来られるよう、1日中オープンしていることを大事にし、毎日どこかの仮設住宅で同じ活動をしました。
 徐々にコミュニティが形成されたので、2012年の3月末で「おちゃっこくらぶ」は終了してNGOも撤退しましたが、私は石巻に残って、新たにできた地域包括支援センターの保健師として働き始めました。2014年8月まで活動を続けました。

どうしたら生き残れるか考える

 被災地の支援は、大学生の頃から豪雨災害などで経験していましたが、津波の被害のあとは、それまでの経験とはまったく異なる状況でした。何ができるか?何をしないといけないか?支援者の立ち位置とは?など、自分で考えて動く機会をいただいたのは、非常にありがたかったと感じています。
 石巻で働いて「生き残らなければいけない」と強く思うようになりました。余震とみられる震度6の地震を体験しましたが、立っているだけでも大変です。すぐに、水道や電気も止まりました。幸い私は、中東で電気や水を満足に使えない状況に慣れていたので困りませんでしたが、やはり水がないと被災者の体調や衛生面で心配です。
 これからも災害に備えていかなければいけません。その中でも「生き残る方法を考えてみること」が一番大切だと思っています。
 石巻で一番印象に残っているのが、住民が地域の高齢者たちを軽トラックの荷台に乗せて運んだという話です。本来は軽トラの荷台に人は乗せてはいけませんが、津波が迫る中、全員助かったんです。その話を聞いて、非常時は「常識では考えられないようなアイデア」も必要だと感じました。
 四国のみなさんも、一度、会社にいる時、自宅にいる時、家族がバラバラにいる時、どうしたらみんなが生き残れるかを考えてみてください。その機会を持つということが、防災につながるのではないかと思っています。