
神童の文学少年
愛媛県出身のノーベル賞作家 大江健三郎さん。
ことし3月、88歳で亡くなりました。
生涯を通じて作品の中で描き続けた場所があります。
ふるさと内子町大瀬をモデルにした“谷間の村”です。
少年時代を過ごした“谷間の村”は作家の原点になりました。
なぜ“谷間の村”を描き続けたのか。
“谷間の村”の物語を通して、大江さんは何を伝えようとしたのか。
そのメッセージに迫ります。
神童の文学少年
愛媛県内子町大瀬地区。
およそ1500人が暮らしています。
かつては和紙の生産や木材の取引でにぎわいました。
1935年、7人兄弟の三男として生まれた大江さん。
中学を卒業するまでこの場所で過ごしました。
どのような少年だったのか。
同級生の髙橋 智茂さん
「抜群に優秀。記憶力もいいし。ニーチェとかとにかく世界文学全集を読んでいたのも時々見たことがある」
飽くなき探究心は、時に教師をうならせるほどでした。
社会を教えていた大星 通さん。
授業の内容について、大江さんから指摘を受けたといいます。
大星さん
「(健三郎が)先生違う、と。その作品はその人のじゃない、と言うけん、いやそうじゃと言うて、ちょっと争うたんで。わしも大卒ぞ、と。中学生みたいな小僧が、と腹が立ちました」
後日、大江さんが正しいと分かった大星さん。
以来、何を聞かれても答えられるよう“大江対策ノート”を作っていました。
大星さん
「ああいう生徒がおるのはありがたい、ええなと思います。つくづく思います。自分が勉強になるもん」
祖母の伝承話と1本の木が育んだ想像力
生涯を通じて描き続けた谷間の村。
その原点には何があったのか。
今も残る生家を訪ねました。
義理の姉 大江スヱコさん
「(大江健三郎さんが)小学4年で作った作文を主人が読んで、この年齢で書く作文じゃないって見いだしたって言いよりました。この子は伸びるとこまで伸ばしてやりたいという気持ちになったという話になった」
2階からは大江さんが大切にしていたものが見えるといいます。
自宅近くにある1本のもみの木。
“もみえもん”と呼び足しげく通っては“自分の木”として親しんできました。
そのきっかけは幼い頃、祖母フデノさんが毎晩のように語った物語。
魂にまつわる神秘的な話に引き込まれていったといいます。
大江さん
「僕のおばあさんが、このあたりに生まれる人はこの村に生まれてこの村で死んで、魂もこの村にずっといるもんだ、死んだらもう1回魂がぐるぐるらせん状に回って森にあがって自分の木にきてそこで何十年生きて、次に生まれるまで待つんだ、というのが僕のおばあさんの意見。僕はそれをいいと思ったんです」
谷間の村の1本のもみの木。
そこから豊かな物語を生み出す想像力を育んでいったのです。

父の死から芽生えた死への思索
父の死から芽生えた死への思索
さらに少年時代のある出来事が作家人生に大きな影響を与えていたことが見えてきました。
大江さんが本を読んでいたのは父のお墓の前。
9歳の時に病気で父・好太郞さんを亡くしました。
その直後から“いつもお墓で本を読んでいる”と噂になっていたといいます。
大江文学の研究を続けている菊間晴子さん
「父の死を経験したことは大江さんにとって死というもの、取り返しのつかないものというか、この場所と結びついた父親の喪失の経験はあるひとつの大江さんの原点だと思います」
突然亡くなった父。
“死とはいったいなんなのか”
大江さんは川に潜り息を止めて父の死に迫ろうとしました。
大江さん
「わたしは母親に父がどのように死んだか時々きいていた。しかし答えてくれることはなかった。死んだ父親のことを考えるために、わたしが川に潜って父親のことを想像して本当にそこに父親が川底で波に動かされているのを見ているということを想像した」
谷間の村での経験をきっかけに、大江さんは死を問い続けることになりました。
父の死をテーマに書いた「水死」です。
私は狙った岩の裂け目に頭を差し入れていた。
その下の黒ぐろと翳る深みに大きい男の裸の身体が横になっている。水の底の流れにゆっくり動く父親。 私は、その身のこなしを真似ようとしている。
「水死」より
菊間さん
「ある意味そこに迫っていく。自分が非常に小さいときに亡くなってしまった試写に近づいていく。そこをなんとか創造力でつながっていこうとする、その試みであり続けたんだと思うんですね。ある種の原体験としての父の死っていうものが、ずっと書くことのひとつの原動力、自分の生涯の問題のひとつであり続けたのかなっていう風に思います」

影響を与えた“終戦の記憶”
影響を与えた“終戦の記憶”
父を亡くした翌年、10歳で終戦を迎えます。
大江文学に影響を受けたという松山市出身、直木賞作家の天童荒太さん。
谷間の村で経験した戦争が作家としての礎になったといいます。
天童さん
「森の外に戦争があったということです。森の外にはすごい巨大な暴力と、巨大な死ともう何もかも無にしてしまうような、嵐のような現実があったわけです。で、一方で森の内側っていうのは、守られている世界なんです。そこに生まれる差異、違いみたいなものにすごく敏感に、繊細に、そこに人間の言いしれぬ闇とかがあるんだっていうのをそこを書けばこの世界の秘密や真実にたどりつけるっていうこと、たぶん気づかれたと思うんですよね。今まであるものを疑って、自分たちで考えないと、自分たちで見つけないと、本当にいいものを見つけられない」
大江作品に反映される谷間の村の人々
ふるさとを離れた大江さん。
東京大学在学中に作家としてデビューします。
そして“谷間の村”を舞台に人々の葛藤や模索を描いていきます。
23歳、当時最年少で芥川賞を受賞した『飼育』。
戦争で捕虜になったアメリカ兵と村人の物語です。
谷間の村に戦争がやってきたことで当たり前にあった日常の暮らしが崩れていく様が描かれています。
これ以降も鋭い感覚で時代を切り取った話題作を生み出していきます。
高度経済成長の中、32歳で発表した『万延元年のフットボール』。
スーパーマーケットが進出し、戸惑う谷間の村の人々を描きました。
いまでは、谷間のどの家も餅を搗かないからねえ。
誰もがスーパーマーケットで精米と交換するか現金を出して買うかするんですよ。
そういうふうに谷間の生活の基本点な単位が、ひとつずつ形をうしなって行くんだなあ。
『万延元年のフットボール』より
大江さん
「実は四国のことを書いてあるけど、本当は世界のことを書いているんだ。本当にその土地の持っているなんと言いますかその土地が持つある非常にいきいきとした深いもの。そういう心の動き、人間の感情の動きという風なものを表現するものとしてその場所をとらえて小説の中に表現して、それが僕がやってきた小説なんです」
地域交流で開けた新境地
その後も、数々の文学賞を受賞するなど文壇をリードする存在になっていった大江さん。
50代に転機が訪れます。
“衰退が進むふるさとを活気づけてほしい”と大瀬の人たちに誘われ谷間の村に通うようになります。
地域興しに取り組む“大瀬・村の会”の折本正範さんと石村淳さんです。
大江さんの積極的な姿が印象に残っているといいます。
折本さん
「何かしたいけど何かできませんかって聞いた時に、二つ返事で“分かりました”って」
石村さん
「桜の木を植えたり。健三郎さんはお医者さん的な役割で地域を再生する」
時に酒を酌み交わし、時に自然と親しむ。
ふるさとの人たちと多くの時間をともにし関わりを深めていきました。
そして発表したのが『燃え上がる緑の木』。
交流した実体験を反映させ、新たな谷間の村を描きました。
登場するのは大瀬の人たちを彷彿とさせる“森の会”。
主人公を支える役割を担います。
またギー兄さんの指揮のもとに、その農場に集まっている若者たちの「森の会」が、
こぞって骨おしみせぬ働き手であることも、あらためてこの土地の人たちの全体に印象づけられた。
『燃え上がる緑の木』より
菊間さん
「作家として谷間の村を新しい角度で見ながら生きることの実験場として描くっていうところに、ご自身のリアルな経験、他者との関わりみたいなのが大瀬という舞台を通して入り込んでくる。大瀬と出会い直すことでその現状知り、その活動を見ることで小説世界にそういう問題意識を入れ込む。そこに関わることは大江さんの作品世界をもう一歩おもしろいところに押し出す」
さらにふるさとに通う中で、大切にしていたのが子どもたちとの交流です。
母校の中学校でおこなった授業では地元の川について書いた一人の生徒の作文に注目しました。
『私の川』
僕の家の下の川は、村前川といいます。
僕は釣りが好きだけど、村前川で釣らずに小田川で釣ることにしました。
それは村前川にいっぱい魚が増えたらいいと思っているからです。
今は村前川の水量もかなり減ってきているので、川幅も狭くなってきているし、ごみもいっぱいあるので少しは掃除をしたらいいと思っています。
伝えたのは「身近なことに目をこらせば大切なものが見えてくる」ということ。
大江さん
「これを書いた彼は村前の人で、自分のところの川を大切にしたいと思っているわけですね。僕は自分たちの川を、魚も大切にしたいと思っている。自分の住んでいる地域のいちばん狭い、ほんとに自分と結びついている場所を大切にしたいと思って、皆さんはこういう小さな村、村前なら村前ってことから出発して国は大切だということを考えてられる、と。それが僕はおもしろいわけなんですね」
授業の最後はこう締めくくりました。
大江さん
「文章を書くってことはね、非常に単純なことを僕は言うんですけど、ものをゆっくり見て、ゆっくり考えて、ゆっくり表現していくっていう力を養うことになるわけなんです。ゆっくりした速度で正確に確実にゆっくり考えていくということができるようになるのが大人になるってこえとだと僕は思っています」
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59歳 ノーベル文学賞 受賞
59歳で日本人2人目のノーベル文学賞を受賞。
谷間の村で生まれた『命と神話』の物語は、世界の人々に広く読まれました。
そして78歳。
最後に発表した小説は東日本大震に影響をうけた『イン・レイト・スタイル』。
大江さんを思わせる老人が谷間の村に帰ってきます。
そして孫に語りかけるような詩でこう締めくくられます。
ここにいる一歳の無垢なるものは、
すべてにおいて 新しく
盛んに
手探りしている小さなものらに、老人は答えたい、 私は生き直すことができない。
しかし 私らは生き直すことができる。 『イン・レイト・スタイル』より
私らは生き直すことができる
この言葉こそが、現代を生きる私たちへのメッセージだと天童さんは考えています。
天童さん
「もう生き直すことはできない、取り返すことはできない。でもこれを受け継いだ我々人類総体は、まだやり直せるじゃないか、やり直してほしい、生き直せるんでしょう。
大江さんが心配されていたように、これからの原子力の問題、環境破壊の問題、核戦争も起きやしないかっていう恐れ。若い命や希望をつぶしやしないかと、本気で心配されていたと思います。
だからこそともに支え合って生きていくことが必要なんじゃないか。個では生きていけないよって。
子どもや孫により良いものを、より良い世界を残していけるのかっていうことを物語を通して伝えようとしていたし、それを継いでいくのは次の世代の私たちの責務だと思っています」
生涯を通して谷間の村を描き続けた大江健三郎さん。
10歳の時、初めて書いた詩が残されています。
柿の葉につく、一粒の雨のしずくに見えた世界
豊かな想像力と深いまなざしは生涯変わることはありませんでした。
雨のしずくに
景色が映っている
しずくの中に
別の世界がある