番組のエッセンスを5分の動画でお届けします
(2022年8月6日の放送内容を基にしています)
77年前、多くの子どもたちの未来が、一瞬にして奪われました。
この夏、ひとりの被爆者が対面した、妹の遺品。一緒に通っていた女学校の制服です。
「ここに手があったのね。手が出てたの。顔があったの」
妹は12歳、中学1年生でした。
アメリカが投下した原子爆弾。その年のうちに14万人、8月6日の1日だけでも、5万人以上の命を奪ったと言われています。
その中で、被害がとりわけ大きかった世代があります。12歳から13歳、いまの「中学1年生」です。
なぜなのか。私たちは、被害の全貌を明らかにするため、各学校や遺族のもとに残されていた、死没者名簿や被災記録を独自に収集。生徒たちが、どこで被爆し、どのように亡くなったのかを初めて可視化しました。
8月6日の朝、広島の中心部には、8000人の中学生が集まっていました。その大半が、中学1年生でした。軍の主導で、空襲による火災の被害を抑えるために、木造家屋を取り壊す作業に動員されていたのです。
無防備なまま、原爆の猛威にさらされた生徒たち。
当時の中学1年生「『痛いよ、熱いよ』とか、『先生、お母ちゃん』とか泣いているわけです。『殺してくれ、殺してくれ』と叫んでいるわけですね」
当時の中学1年生「顔はもう、蜂の巣つついたみたいに焼けてね、ガーゼを目と鼻だけ開けて貼ってあったんですよ。そんな人が、もう何人もいましたね」
原爆投下から1か月の間に8000人のうち、およそ6000人が命を落としていきました。
生き残った中学生は、戦後、「あの日の記憶」に苦しみ続けてきました。
当時の中学1年生「息ができんほどつらくて、目にしたもの、聞いたもの、そういうものがわーっと押し寄せてくるんです」
なぜ、子どもたちは、これほどの犠牲を強いられなければならなかったのか。
核兵器の脅威が改めて突きつけられている今、中学生8000人の記録から、子どもたちを襲った惨禍の実態に迫ります。
<多くの中学1年生が命を落とした「平和大通り」>
広島市の中心部を東西4キロに渡って横断する、「平和大通り」です。原爆によって荒野となった広島の「復興のシンボル」とされてきました。実は、この場所は、多くの中学1年生が命を落とした場所でもあります。通り沿いには、この周辺で亡くなった生徒の名前が刻まれた、慰霊碑が建てられています。
あの日、遠くは30キロ離れた自宅から、数多くの生徒がこの平和大通り周辺に集まっていました。中学1年生を中心に、39校、8000人に上ります。
<戦況が悪化する中で入学式を迎えた「中学1年生」>
そのうちの1人、当時12歳だった石崎睦子(いしざきむつこ)さんです。
1945年春、憧れだった女学校に入学。学校生活を綴った日記が残されていました。
「4月6日。一生に一度しかない女学校の入学式で、私も一人前の第一県女の生徒となることができた」「この感激で、一生懸命勉強しようと思った」(睦子さんの日記より)
三姉妹の次女だった睦子さん。同じ女学校に通っていた1つ年上の姉・䂓子(のりこ)さんとは、大の仲良しでした。
植田䂓子さん「『むっちゃん』って言ってました。肌が白い、髪の毛は真っ黒でまっすぐで。何でもはっきりしてたし、何でもさらっとやってたし。どこに行くのも一緒。お風呂から出て、浴衣を着て散歩に行くのも一緒」
<空襲が激化するなかで始まった「建物疎開」>
入学して1ヶ月。むっちゃんの日記には、戦争の影響が色濃く表れ始めます。連日、記されるようになったのは、「空襲警報」の文字。
この頃、戦況は悪化の一方。全国各地に空襲が相次ぎ、焼夷弾による火災で大きな被害が出ていました。そうした中、むっちゃんの日記には、「ある作業」が始まったことが記されていました。
「5月17日。今日から疎開後の後片付けです」(むっちゃんの日記より)
「建物疎開」。密集している木造家屋を強制的に取り壊し、火災が広がるのを防ぐための作業です。
問題となったのは、誰が作業を担うかでした。戦況の悪化に伴い、人手不足が深刻化する中、10代の青年は、次々と戦地に。中学2年生までは、多くが軍需工場などでの勤労奉仕に駆り出されていました。そこで、建物疎開を担うことになったのが「中学1年生」。入学して間もない少年少女までが、動員されることになったのです。
取り壊しの対象となったのが、当時、木造家屋が密集していた平和大通り周辺でした。
森本啓稔さん(当時 市立造船工業学校1年)「木造家屋を大人が柱を切って、ロープで倒して赤土と瓦、木材を分けるのが我々の仕事だった」
中島克己さん(当時 市立造船工業学校1年)「あっちも、こっちも女学生、中学生、もういっぱい1年生」
むっちゃんの日記にも、作業に汗を流した様子が記されています。
「今日は昨日よりたくさん疲れが出た。でも、作業した日ほど気持ちの良いものはない。今度も、どしどし働いて、心を立派にしようと思う」(むっちゃんの日記より)
むっちゃんの同級生だった髙橋冨久子(たかはしふくこ)さんは、子どもながらに精一杯、作業にあたっていたといいます。
髙橋冨久子さん「『これはシュークリームよ』とか言いながらね。ほんとは瓦なんだけど、『シュークリームよ』と渡して、言葉遊びのようなことをしていましたね。ただ、単純に思ってました、『お国のために』って」
炎天下の力仕事。その中で、むっちゃんが楽しみにしていたのが、作業に着ていく制服づくりでした。
髙橋冨久子さん「お裁縫の時間で制服を作るわけです。だけど、白は敵に目立つから染める。ヨモギを摘んできて、煮出して、白い服につけるとね、ヨモギの煮汁って汚い色しているんですよね。白がヨモギの色に染まっていったのを鮮明に覚えていますね」
「きょうは被服の時間にポケットをつける所まで出来上がった。早く作って、はいてみたい。自分が作ったものは、みな大変うれしい感じがする」(むっちゃんの日記より)
<8000人の生徒が中心部に集まった その時…>
1945年8月6日。
植田䂓子さん(むっちゃんの姉)「真っ青でした。真っ青な空でした。朝7時半ごろに警戒警報が解除になったんです。広島の人はみんな安心して出かけたのね。『またね、行ってくるね』とか言って別れたんだと思います」
ヨモギで染めた新しい制服を着て出かけた、むっちゃん。広島市南部の自宅から、「土橋地区」の作業場へ向かいました。こうして集まった、8000人の中学生。この日、これまでで最も多い人数が動員されていました。
午前8時。平和大通りを中心に6カ所にわかれて作業が始まった、直後のことでした。
その頭上で、原爆は炸裂したのです。爆心地付近は、地表の温度が、3000度以上に達し、秒速440mの爆風が襲ったと言われています。
今回、集計したデータによると、その爆心地に一番近かった、「中島地区」には、11校、1800人以上が動員されていました。
<最も多くの中学生たちが動員された中島地区の惨状>
縫部正康(ぬいべのぶやす)さんは、中島地区で作業にあたっていた弟を探すため、10キロ離れた自宅からこの場所を訪れました。中学1年生だった弟の寿彦(かずひこ)さん。あの日の朝は、連日の作業に初めて音を上げたといいます。
縫部正康さん「弟が『きょう学校休む』言うて、お母さんが『なんでや』と。『日本の男子が、何を言っとるんか、そがな男かい、行けや』言って。それで行ったのが最後だった」
縫部正康さん「石段に人がひしめくように座っとった。頭の髪もなければ、もちろん眉毛もないよ。なんにもない。真っ裸。(やけどで)バンバンに膨れとるんじゃけぇ」
中島地区に動員されていたある学校の日誌に、当時の様子が記されていました。
「8月6日。多くは、現場に失明状態にて昏倒」「ないしは、新大橋に向かい、水を求めて移動、河中に飛び込む」「到底助からないと悟った本校学徒は、天皇陛下万歳を三唱し、君が代を静かに歌いつつ、瞑目せり」(広島市立第一高等女学校・経過日誌より)
川に浮かぶ多くの遺体から、寿彦さんを見つけ出したのは、あの日、叱って送り出した母親だったといいます。
縫部正康さん「お袋が『わしの子じゃ』と言うけど、自分で見ても弟と分からなかった。膨れていて、男か女かわからんのよね。父と2人でこの辺に連れてあがって。そしたらゲートルがポロッと落ちて、見たら名前が残っとる。それで間違いない。苦しかったろうと思う。ほんま地獄よ」
中島地区にいた1800人あまりの生徒のうち、8月6日時点で1500人以上が亡くなっていました。むっちゃんが向かった「土橋地区」は、爆心地から800m。ここでは、半数以上が命を落としました。
全体でみると、この1日だけでおよそ3200人の生徒が犠牲となっていました。
<「そして、みんな死んでいった」>
生き残った子どもたちには、何が待ち受けていたのか。
爆心地から1キロ付近で作業にあたっていた瓢文子(ひさごふみこ)さんは、爆風に襲われ気を失い、気づいたときには、瓦礫の下敷きになっていました。
瓢文子さん「一生懸命、首を出したら、真っ暗。誰もいないし、ただ火だけがボーっと、あっちもこっちも。ここにいたら焼け死ぬと思ったから、どうにかして、この穴を抜けだそうと思って通り抜けたら、そのとき初めて自分がやけどしていると分かったんです。頬の辺りからずっと肩、背中、それで手を見たら、皮がぶら下がっていて、手を下げられないんです、痛くて」
爆心地から1.5キロ付近で同級生500人とともに作業にあたっていた大橋和子(おおはしかずこ)さんです。多くの同級生を置き去りにせざるを得なかったといいます。
大橋和子さん「ゴロゴロ足の踏み場がないほど、(人が)横たわっていた。顔が誰か分からないほど腫れ上がっていて、服もない。『ごめんなさい、ごめんなさい』心の中で言いながらね。周りが全部死体の山だから。生きている人もいたか分からないけど、それを踏んで逃げないと道はない」
その日、病気のため、爆心地から2キロ離れた学校にいて一命を取り留めた、西岡誠吾さん。泣き叫ぶ女学生の姿。苦しみのあまり発狂する人たちを目撃していました。
西岡誠吾さん「女学生が全身やけどで両手を出して4、5人が固まって、『痛いよ、熱いよ』とか、『先生、お母ちゃん』とか泣いているわけです。後ろからまた同じような仲間が輪に加わって、わんわん泣いているわけです。道端にはもう力尽きた人が、目玉の飛び出た者とか、はらわたが裂けたとか。腹の底から『殺してくれ、殺してくれ』と叫んでいる」
8月6日を、かろうじて生き延びた生徒たちも、その後、力尽き、次々と命を落としていきます。犠牲者は、さらに増え続け、被爆から2週間で、5000人近くになりました。
<中学生たちを襲った放射線の「急性障害」>
その頃、原爆特有の症状が生徒たちを襲い始めます。
放射線による「急性障害」。吐き気や脱毛、高熱が続き、皮膚に内出血の斑点が現れます。多くを死に至らしめました。
広島大学の鎌田七男(かまだななお)医師は、爆心地から1キロ付近で被爆した中学1年生のカルテの写しを保管していました。
広島大学名誉教授・鎌田七男医師「(白血球の値が)8月31日が210。正常の20分の1くらいになっていますね」
白血球が急激に減少し、免疫力が失われていったことがうかがえます。その後、9月4日に亡くなるまでの様子が記されていました。
広島大学名誉教授・鎌田七男医師「赤のところが(体温)40度のライン。熱が1週間、40度以上続くだけでも、われわれは耐えきれませんよ。『灼熱』というが、すごい痛みが、息をしても痛い。それはもうすごい忍耐、最後は我慢強く生きたと思いますよ」
被爆から2週間以降も、新たな死が積み上がっていきます。ひと月の間に亡くなった生徒は、およそ5300人に上りました。
<息子を探して 母親の苦悩>
その間、行方がわからなくなった我が子を探して、親たちも、連日、市内に入ってきました。集計したデータによると、その数は、確認できただけでおよそ3000人にのぼります。
当時、爆心地付近には、原爆が残した放射性物質が大量に存在していました。その危険性を知らないまま、親たちは、我が子の姿を探し求めたのです。
息子を探した母親のひとり、山根初恵さんです。長男の秀雄さんは、飛行機が大好きで広島市内の工業学校に通っていました。
山根芳枝さん(秀夫さんの妹)「お母さんで、お兄さんで、私と妹、3人兄弟。受験願書を添える写真。希望に満ちた写真じゃ言うて。希望の学校へ入れたんじゃからね」
あの日、初恵さんは、早起きした秀雄さんを、普段より1本早い列車に乗れるよう送り出しました。秀雄さんが向かったのは、自宅から25キロ離れた「中島地区」でした。
おととし見つかった初恵さんの日記には、息子を探し回った日々が記録されていました。
「8月7日。1年生の安否を尋ねたところ、全滅とのこと。驚愕のあまり全身の血は一時に逆戻りして、心臓、破裂のごとく苦し」「すぐ、その足で出発。秀雄の行方を求む。何一つ手がかりなし」(母・初恵さんの日記より)
山根芳枝さん(秀夫さんの妹)「毎日、毎日、きょうもいない。きょうもいない。収容所いう収容所(救護所)、全部訪ねて。お母さんのほうが心配なくらい、心配したんです」
1週間後の8月13日、初恵さんは、爆心地近くの橋のたもとで、「ある物」を見つけました。
「秀雄の弁当箱が重ねてあった。吸い付くようにして手に取り、中を調べたらすぐに判明した」(母・初恵さんの日記より)
見つかった、秀雄さんの弁当箱です。子どもたちがたくさん重ねて置いてあった中にありました。あの日、初恵さんが詰めた、卵焼きとほうれん草の和え物が燃え残っていたといいます。
「13年前、お前に乳房をふくめて横になった、希望に満ちた姿を思い出し、たまらなくなりました」「あの日、今日は休めと言ったら、死なすのではなかったものを。母を、許してください」(母・初恵さんの日記より)
山根芳枝さん(秀夫さんの妹)「ひと汽車遅れて行かしたら、もしかしたら、原爆で亡くならなかったと。早く起きたばっかりに、『行ってきます』という姿がね、たお(峠)の頭で、最後が目についているといつも言ってました」
戦後、後悔の念を語り続けていた初恵さん。自らも甲状腺の異常など、被ばくの影響とみられる病に苦しみながら、10年後、44歳で亡くなりました。
<原爆が奪った“未来”>
毎日、日記を書き残していたむっちゃん。被爆から2週間後、ズボンに縫い付けてあった名札が見つかりました。名札は、作業にあたっていた土橋地区から、自宅があった広島市南部へと向かう道に落ちていたといいます。
植田䂓子さん(むっちゃんの姉)「うちへ帰ろうと思ったんだろうね。家がよかったんだろう、と思います。お父さん、お母さんに会いたかったんだろうね」
そして、もうひとつ、むっちゃんの生前の様子を伝えるものが見つかりました。
ヨモギで染めた制服。作業場のがれきの下で、父親が見つけました。あの日は暑かったため、脱いで作業にあたっていたのか、きれいに畳まれた状態だったといいます。
植田䂓子さん(むっちゃんの姉)「生きてたんですよ、このときはね。行方不明になってしまったけど。生きてたのよ、このときは」
姉の䂓子さんは、爆心地から2キロ離れた軍需工場にいて助かりました。
♪春の丘、多祁理の宮に み船寄せ 理想と仰ぐ 昭代の少女子われら♪
䂓子さんが口ずさんだのは、一緒に通った学校の校歌でした。
むっちゃんが書き残していた日記。最期まで変わらぬ日常が、綴られていました。
「8月5日、日曜日、晴れ。午後小西さんと泳ぎに行った。私はちっともよう泳がないのに、みんなよく浮くなと思うとなさけなかった。今日は大変よい日でした。これからも一日一善と言うことを守ろうと思う」
むっちゃんは、いつ、どこで亡くなったのかわかっていません。
詳しい最期がわからない生徒たちを含め、最終的に6000人の未来が奪われました。
<軍の主導で強行された中学生の大量動員>
なぜこれほど多くの子どもたちが、犠牲とならなければならなかったのか。
今回、中学1年生の動員の内幕を記した資料が見つかりました。原爆投下の1ヶ月前、軍や行政、学校関係者が集まり、行われた会議の記録。参加していた県の職員が、書き残していました。
この場で軍は、建物疎開が大幅に遅れていることを指摘。「一日を争う急務」だとして、中学生を大規模に動員するよう要請します。広島は本土決戦に備える重要な拠点として、軍事施設が数多く置かれていたからです。
軍の要請に対し、異議を唱えたのが、学校の関係者たちでした。空襲警報が続くなか、屋外での作業は危険だと、動員に反対します。意見が平行線をたどるなか、陸軍の責任者が詰め寄りました。
「陸軍の中将は、いらだち、左手の軍刀で床をたたき、作戦遂行上、学徒の出動は必至であると強調。議長に決断を迫った」「議長は、沈思黙考。やむなく出動することに決定した」(広島県職員・長谷川武士氏手記より)
戦争遂行のため、強行されていった動員。こうして8月6日は、それまでで最も多い8000人の生徒が集められ、膨大な犠牲につながったのです。
<あの日の中学生たち 原爆の“爪痕”深く>
数多くの子どもたちの未来を奪った原子爆弾。生き延びたあの日の中学1年生たちにも、深い爪痕を残しました。
爆心地から1.5キロで被爆し、同級生を置き去りにせざるを得なかった、大橋和子さん。左頬には、やけどによるケロイドが残りました。高校時代の写真は、顔の一部が切り取られていました。
なぜ、自分は、生き延びてしまったのか。大橋さんは10代のうちで、5度の自殺を図ったといいます。さらに、大橋さんを苦しめ続けているのが、同級生を置き去りにして逃げた「あの日の記憶」でした。平和大通りに近づくと、亡くなった同級生の姿が、蘇ってくるといいます。
大橋和子さん「だだだっと友達が来て、『生きてよかったね』という声が聞こえるような気がして、気分がわからなくなる。『ごめんなさい、ごめんなさい』って言って。息ができないほどつらくて、目にしたもの、聞いたもの、音、その雰囲気、そういうものが押し寄せてくるんです。それでつらくなる」
<心への影響 若い世代ほど強く>
生き延びた子どもたちが抱えてきた深い「心の傷」。
戦後、アメリカ人の医師が、その詳細を調べていたことがわかりました。イェール大学で、戦争のトラウマについて研究してきた、精神科医のロバート・リフトン氏です。
精神科医(当時 イェール大学)ロバート・リフトン氏「私たちにとって、原爆を経験した人々の喪失の深さを理解することが重要でした」
原爆投下から17年後。あの日の中学1年生を含む、75人に対し、聞き取り調査が行われました。リフトン氏が注目したのは、生き残った者の「葛藤」。被爆当時、子どもだった人に強く現れていたといいます。
「がれきの下敷きになった時、母が助け出してくれました。逃げる途中、今度は母が倒れたので、助けを呼ぼうと、置き去りにしたんです。戻ると、水槽の中でうつぶせで死んでいました。いまだに『助けて』と母に呼ばれている声がします」(被爆当時13歳だった男性の面談記録)
「終戦後、鏡を見て初めて、8時15分までの自分じゃないことを知りました。大人の言うことすべて信じて勤労奉仕に精を出しました。その結果がこれでは、あまりにも、むごすぎます」(被爆当時13歳だった女性の面談記録)
精神科医 ロバート・リフトン氏「子ども時代に深い苦痛と脅威にさらされると、その影響はかなり深刻なものだとわかりました。被爆者が経験したトラウマを、私は『死の刻印』と呼んでいます。それは、究極のトラウマでした」
<終わりなき放射線被害の苦しみ>
一方で、体への影響も終わりはありませんでした。
広島大学の鎌田七男医師は、被爆当時、中学生だった24人の女学生を、40年以上にわたって調査してきました。その結果、24人のうち、9人が「乳がん」を発症(爆心地から550mの建物内で被爆したケース)。一般の人よりも、突出してリスクが高いことがわかったのです。
鎌田七男医師「(乳がんの発生率が)もう考えられないぐらい高かったんですね。普通の細胞より、分裂をしている細胞が放射線に一番弱いんです。思春期であるがゆえに、乳腺組織の分裂が盛んだったということが、大きな要素になっているんじゃないか」
爆心地から1キロ付近で被爆した瓢文子さんも、乳がんなど、度重なる「がん」との闘病を続けてきました。
瓢文子さん「昭和60年に子宮がんの手術をして、平成9年に胆のうを内視鏡で手術をして、10年7月に乳がんの手術をしています。普通の人はこんなにならないと思うんですよね。やっぱり自分の運命かなと思う、最後は」
<“あの日”を背負い続けて・・・かつての中学生たちが今に伝えること>
原爆投下から77年を迎えた広島。
あの日のトラウマに苦しめられてきた大橋さん。自分が目の当たりにした一部始終を、いまこそ書き残さなければならないと、初めて筆をとりました。しかし・・・。
大橋和子さん「ああ、ダメ。書き始めたら頭がワーっとなって、心臓がドクドクドクし出して、もう心の中にしみ込んでるね。それがずっとついて回るから」
むっちゃんの同級生だった髙橋さん。あの日は、偶然学校を休んでいました。毎年欠かさず、同級生223人のために花を手向け続けています。
髙橋冨久子さん(むっちゃんの同級生)「生きていたら、どんなお母さんになってただろう。どんなことを、子どものことを話しただろう。慰霊碑の横に大きいくりの木がある。上を向いたら、青ぐりが彼女たちの短かった命と重なって、下を向いて何か語りかけるような気がして」
無差別にすべてを奪う、核兵器の脅威。
守るべき尊い未来を犠牲にして押し進められる戦争の現実。
77年前を生きた中学生たちの「命の記録」は、その重い教訓を、いまの時代に突きつけています。