エリザベス女王~光と影 元側近が語る外交秘話~

NHK
2023年2月9日 午後5:41 公開

(2022年12月25日の放送内容を基にしています)

2022年9月、イギリス史上最長の在位70年を務めた女王エリザベス2世が、その生涯を閉じた。エリザベスが駆け抜けたのは、激動の時代だった。国と国とがぶつかり合う国際政治の局面で、エリザベスは「王室外交」というソフトパワーで和解の道を探った。世界を飛び回り、華麗にそして粘り強く平和のために尽くしたエリザベス女王は、分断が深まるこの世界に何を残していったのか。元側近たちの証言でたどる。

第二次世界大戦後まもない1952年。エリザベスは、25歳で女王に即位する。この日、女王の様子を間近で見ていた人がいる。介添人を務めたアン・グレンコナー。エリザベスとは、80年来の幼なじみだ。

アン・グレンコナー「戴冠式(たいかんしき)では、みんな緊張していました。何百万人もご覧になっているんですよ。でも彼女だけは落ち着いて、心の準備ができているようでした。10歳のときに、女王になることが決まりましたから。成長するにつれ、さらにしっかり者になっていきました。こんなことがありました。バッキンガム宮殿で、彼女はカーテンを体に巻きつけたんです。そして振り返って言いました。『これで戴冠式も大丈夫ね』。みんなで大笑いしました。戴冠式の日、女王のドレス姿を私たちがいちばん最初に見ました。そのドレスが本当にすばらしかったんです。イギリスと旧植民地の花々が刺しゅうされていました。そうした国々に人生をささげると、固く決意されていました」

ドレスに刺しゅうされていたのは、インドの蓮(はす)や南アフリカのプロテア。かつて大英帝国が支配した国を象徴する花々であった。

女王になる5年前(1947年)。

エリザベスは即位に向けた思いを語っている。

エリザベス「皆さんの前で誓います。私の人生が長かろうと短かろうと、私たち『帝国の家族』のために人生をささげます」

「帝国の家族」。当時はまだ世界各地に植民地を抱えていた。

エリザベスが生まれた1920年代。大英帝国は圧倒的な軍事力で、世界の4分の1を支配していた。天然資源で利益を上げようと現地の住民を労働力として使い、抵抗する勢力は武力で抑え込んだ。

戦後、帝国主義は終わりを迎え、世界各地で植民地独立の機運が高まっていった。エリザベスが女王に即位した1950年代は、歴史の転換点だった。

マンチェスター大学 デイビッド・オルショガ教授「歴史が彼女に背負わせた使命は、19世紀に築かれた『大英帝国の清算』でした。大英帝国によって生み出された多くの問題、混とんとした状況。それらがエリザベス時代に引き継がれたのです」

1957年、時代が動く。

アフリカで、イギリスの植民地が次々と独立を始める。先陣を切ったのは、ガーナ共和国だった。だが、人種差別が色濃かった1950年代。イギリス政府では、黒人政権に差別的な見方が根強かった。

イギリス政府レポート「植民地以前の野蛮な生活に逆戻りするだけだ」

イギリス政府高官の言葉「未開地の住人たちに、洗練された女王の役割などわかるまい」(The Conservative Government and the End of Empire, 1957-1964)

旧植民地と、どう新しい関係を築くか。女王として最初の試練がやってきた。

1961年。

エリザベスはガーナに降り立った。一体何を語るのか。世界が固唾を飲んで見守った。

エリザベス女王「私たちは家族です。堅苦しいしきたりや規則にとらわれることはありません。相互に愛と敬意を持てば、強い絆が生まれるはずです。お互い、批判も前向きな意見も交わせる関係を目指しましょう」

このときの女王の思いを聞いていた側近がいる。女王報道官を長く務めたチャールズ・アンソンだ。

チャールズ・アンソン「その当時は、多文化共生・人種平等なんてまだ遠い未来の話でした。若き女王は情勢が不安定な時期のガーナを訪ね、『輝きを加えたい』と思ったのです。そしてどんな人々も平等だというメッセージを伝えようとしました」

訪問の最終日、エリザベスは世界をあっと驚かす。3千人が招待されたダンスパーティーで、エンクルマ大統領(当時)とダンスを踊ってみせたのだ。その様子は、世界各国の紙面に踊った。イギリスが独立を歓迎すること、対等な関係を目指すことを印象づけた。

チャールズ・アンソン「魔法のような時間で、誰も予想していませんでした。でも女王は、ダンスが平等の象徴になると意識されていたと思います」

シティ・ロンドン大学 アンナ・ホワイトロック教授「女王は気づいたのでしょう。カリスマや女性らしさを通じて、世界に影響を与えられることを。たとえ政治には関われないと定められていても『女王にしかできないことがある』と」

印象的なふるまいと言葉で世界を動かす“ソフトパワー”。それが、エリザベス、生涯の強みとなっていく。

しかし課題は山積みだった。最近見つかった、女王宛の手紙。

女王陛下へ。ナイジェリアでのイギリスの行為に抗議し、勲章を返上致します。

差出人は、ジョン・レノン。

1960年代、アフリカ諸国は、いっとき独立の歓喜に沸いた。しかし多くの国で内戦の火種がくすぶっていた。その背後にいたのは、イギリスなど旧宗主国。地下資源の権益を確保するため、介入を続けていた。帝国主義の影が、大きなひずみを生んでいた。

1976年、かつての植民地・南アフリカ共和国が非常事態に陥る。

人種隔離政策「アパルトヘイト」を進める白人政権に、住民の怒りが爆発した。民主活動を率いていたのが、後にエリザベスの盟友となるネルソン・マンデラだ。

政治犯として収監される直前のテレビインタビューで、ネルソン・マンデラは、こう話している。

記者「ヨーロッパ人とアフリカ人が、一緒に国を発展させることができると思いますか?」

ネルソン・マンデラ「私の主張ははっきりしています。この国は、全ての人種が集う国。どんな人種の人にも居場所がある国です」

マンデラは、獄中から民主化を訴え続けていた。

国連安保理「南アフリカ政府のとっている政策は、人権に対する重大な侵害だ」(1977年)

国際社会は、南アフリカの政権を非難。制裁を課し、アパルトヘイトをやめさせようとする。

エリザベスは、かねてからアパルトヘイトを懸念していた。1960年代、こんな言葉を残している。

「(旧植民地からなる)イギリス連邦の共通の価値観は『自由』です。あるべき政治体制を、押しつけたくはありません。でも『自由』は、何世紀にもわたる試行錯誤を経て育まれた、不完全とは言え、最良の理念だと思うのです」(女王のスピーチ/1964年)

ところが、意外なところから異論が出る。イギリス史上初の女性首相、マーガレット・サッチャー。

マーガレット・サッチャー「南アフリカの困難な状況に、経済制裁なんか無意味です。さらに悪くなるだけです」

金、ダイヤモンドに、武器の取り引き。南アフリカとの貿易は、イギリス経済に大きな利益をもたらしていた。女王と首相の意見は、割れていた。

このときのふたりの関係を知る手がかりが見つかった。最近アイルランドで、そのころの公文書が機密解除になったのだ。ロンドン駐在のアイルランド人外交官が、本国に向けて送った外交機密文書に、こう記されている。

「経済制裁をめぐるサッチャーの対応に、女王は激怒している」

「1世紀以上続く首相との定例会談を、中止したいと真剣に考えるほどだ」

女王と首相の対立は、深刻だった。サッチャーの秘書官、ロビン・バトラーもただならぬ空気を感じていた。

ロビン・バトラー「サッチャーは女王と週に1回、非公開の会談をしていました。会談のあと、気が立っていることが何度かありました。終わるなりウイスキーを飲み干していました」

女王の報道官を務めていたチャールズ・アンソンは、エリザベスの葛藤する姿を見ていた。

チャールズ・アンソン「サッチャーは、明らかに南アフリカの白人政権寄りでした。貿易額も多かったですから。しかし女王は、政治的なアクションを起こすことはできません。王室として、法のルールには注意深くなくてはならないのです」

エリザベスは、手をこまねいていただけではなかった。そして思い切った手段にでる。

1986年、イギリスの旧植民地などの首脳が集う国際会議が開かれた。

初日の夜、エリザベスは首脳たちをバッキンガム宮殿での晩さん会に招待する。しかし、ドレスコードは“ビジネス”。家族同伴も禁止した。晩さん会は、いわば口実に過ぎなかった。

このときのエリザベスの様子を、当時のカナダ首相・マルルーニーはこう語っている。

マルルーニーの話「女王は、明言はされませんでした。ニュアンスや身振りで、その場の話し合いをリードされていました。そして人権を第一に考えるよう促していたんです」

チャールズ・アンソン「女王は、アパルトヘイトや経済制裁に対して直接意見できません。ですから『話し合いの余地があるなら、ぜひ続けてほしい』『話し続ければ、いつかきっと解決策が見つかる』とおっしゃいました」

その翌日、サッチャー首相は歩み寄りを見せる。部分的ではあるが、経済制裁に同意した。

アンナ・ホワイトロック教授「南アフリカ問題への女王の関わりについては、多くの議論を呼びました。女王がこうやって政治的空間に足を踏み入れたのは、現代史において、あとにも先にもこのときだけなんです」

1990年、マンデラは釈放。

さらに4年後、人種隔離政策「アパルトヘイト」は撤廃された。

ネルソン・マンデラ「白人の同胞にも呼びかけたい。一緒にこの南アフリカを作っていこう」

かつてマンデラとともに政治犯として収監されていたデデ・ウンスィリンウィは、マンデラと、女王について話したことがあった。

デデ・ウンスィリンウィ「エリザベス女王はもともと大英帝国の君主であり、父親からそれを引き継いだ人物でもあります。でもマンデラは『過去』で人物を判断しなかった。大事なのは『未来』へ向けてどう動いているかでした。女王はマンデラ解放のために、陰で尽力されていたと聞いています。イギリス政府にもかけあってくれて。ですからマンデラは、女王のことを本当に尊敬していました」

1991年。

マンデラと初めて同席した晩さん会で、エリザベスは食事がすむなりマンデラのもとに歩み寄った。

ネルソン・マンデラ「女王陛下、多忙なスケジュールなのにお元気そうですね」

エリザベス女王「あしたは16人に会うので、疲れてしまうかも。先ほど、ある方が話しかけてきたの。『アフリカを訪問したことはありますか?』と。『お言葉ですが、私は誰よりもアフリカの国々を巡りました。よく知っているのよ』と言っておきました」

エリザベスとマンデラ。このとき生まれた絆は、のちに女王を助けることになる。

<日本への旅>

エリザベスに、大きな影響を与えた旅があった。

1975年、イギリスの君主として初めての訪日。11万の人々が沿道を埋め尽くし、歓迎の渦に包まれた。NHKを訪問した際には、大河ドラマの収録を興味深げに見学。主演の石坂浩二に、時代劇について尋ねたという。

第二次世界大戦で戦火を交えた日本とイギリス。訪日は、両国の関係改善を目指し、戦後30年たちようやく実現したものだった。

この訪日で、エリザベスが切に望んだことがある。それは昭和天皇との会談だ。通訳だけを残し、2人で話し込んだと伝えられている。

「戦争と平和を国民とともに歩まれた方ですので、自分が教えを受けられるのはこの方しかないと信じて、地球を半周して来たのです」(女王の言葉)

昭和天皇は皇太子時代にイギリスを訪れ、エリザベスの祖父にあたるジョージ5世から「君主としての心構え」を教えられていた。

「キング・ジョージ五世が、ご親切に私に話をした。その題目は、いわゆるイギリスの立憲政治の在り方というものについてであった。その伺ったことがそのとき以来ずっと私の頭にあり、常に立憲君主制の君主はどうなくちゃならないかを始終考えていたのであります」(天皇の言葉 / 高橋紘・鈴木邦彦「陛下、お尋ね申し上げます」(1982))

第一次世界大戦とその後の苦境を、国民に寄り添い歩んだジョージ5世は、エリザベスが理想とする君主だ。

女王と天皇の会談をそばで見ていた人がいる。女王の侍従武官、ロビン・ブローク大佐だ。

ロビン・ブローク「話の内容を聞くことができたのは唯一通訳だけですが、とても貴重な時間であったことは感じられました。天皇は長年君主を務め大変な時代を生きた人ですから、その経験から学ぶことが多かったのだと思います」

会談を終え日本を離れる前に、エリザベスはこんな言葉を残した。

「女王は孤独なものです。重大な決定を下すのは自分しかいないのです。そしてそれから起こる全責任は自分自身が負うのです。歴史に裁かれるのは私であると覚悟しております。この立場が分かっていただけるのは、ご在位50年の天皇陛下しかおられません。陛下のひとこと一言に、私は多くの、そして深いものを感じました。感謝でいっぱいです」(女王の言葉)

ロビン・ブローク「世界を見回しても、立憲君主制を続けてきた国は、あまり存在していません。だから、とても孤独な仕事だったのだと思います。イギリスと日本には多くの共通点があります。女王と天皇は、お互いの立場を理解しあえる数少ない人として、本心から会話をされたのだと思います」

<王室の危機>

女王として、外交の舞台で存在感を示してきたエリザベス。しかし家庭を顧みれば、決して順風満帆とは言えなかった。1990年代、立て続けに王室は危機に見舞われた。長女のアンが離婚、長男のチャールズも別居。

女王の在位40年を祝う午さん会で、エリザベスは珍しく弱音を吐露した。

エリザベス女王「1992年は、私が純粋な喜びとともに振り返ることのできる年ではありません。今年はひどい年でした」

チャールズ・アンソン「女王のために働いた7年間は、70年の在位の中で最も困難な時期だったと思います。家族のスキャンダルのニュースが出て、世論の厳しい批判にさらされていましたが、実際には女王が落ち込んだり自らをあわれんだりしていることは一度もありませんでした。どんなにつらいことがあっても感情を表に出しませんでした。女王は静かに受け入れ、自分の中で解決していたんです」

1996年、ダイアナとチャールズは離婚。ダイアナは王室メンバーではなくなる。

それからわずか1年後、ダイアナが事故死する。

しかし王室は短い声明を出すのみで、女王が国民の前に姿を表すこともなかった。王室の対応は、激しい批判を呼んだ。

イギリス国民「王室のこんな態度は、本当に恥ずべきことだと思います」

イギリス国民「王室の誰も姿を見せることもなければ、亡くなったダイアナに対してメッセージもない。非常に不愉快です」

ダイアナは既に王室を離れていたので、特別な対応はしない。それが、これまでの王室の慣例だった。

ダイアナが亡くなってから5日後、女王はバッキンガム宮殿の前に姿を現した。このときの様子を、40年にわたって王室を取材してきたジャーナリストは間近で見ていた。

王室専門誌 編集長 イングリッド・スワード「女王が群衆の中に入っていったときだと思います。その場の雰囲気が伝わって女王は緊張していました。映像にも残っていますが、群衆の中の1人が女王に花を差し出したのです。女王は『私に?』と問いかけました。さらに周囲の人たちも、女王に花を渡しはじめました。でもまだ国民の間にあったわだかまりは消えてはいませんでした。緊張が解けていったのは、バッキンガム宮殿から国民に向けた女王のスピーチが行われたときでした」

女王は生放送で、死を悼む家族として国民に語りかけた。それは、王室の伝統からは外れた異例の行動だった。

エリザベス女王「女王として、そして祖母として、心からお伝えします。まずダイアナに弔意を表したいと思います。彼女は才能にあふれたすばらしい人でした。彼女の生き方から、私たちは多くを学びました。その死に対する人々の悲しみの大きさからも明らかです。彼女の思いを大切にする決意を、私も皆さんとともにしています」

さらに、ダイアナの葬儀を王室と政府で主催。これも異例の対応だった。

イングリッド・スワード「あのときは本当に君主制の危機でした。女王そして王室へのバッシングは、いまだかつてないものでした。怒りの矛先はチャールズだけでなく、女王にも向いていました。でもこのとき女王は気づいたのです。伝統をただ守るのではなく、時代に合わせ変えなくてはならないと。ダイアナの死は大きなターニングポイントでした」

時代とともに変化もいとわない女王・エリザベス。この姿勢は、隣国との長い確執をも解決に向かわせることとなる。

イギリス・北アイルランド。住宅街の真ん中に、異様な構造物がそびえ立つ。高さ8メートルの「分離壁」だ。かつて敵対していた二つの地区を隔てている。

争いの始まりは12世紀。

イギリスがアイルランドに侵攻。その後、アイルランド語の使用を禁止した。

1922年。

アイルランド自由国(自治領)が誕生するが、北部はイギリスに残った。アイルランド系とイギリス系の双方が暮らす北アイルランドでは、帰属や宗教をめぐって確執が深まっていった。

1960年代、対立が激化する。

イギリスは軍隊を使い、力で抑え込もうとする。対するアイルランド側は、武装組織・IRA(アイルランド共和軍)が爆破テロを繰り返した。北アイルランド紛争で亡くなった人は、3千人以上に及ぶ。

怒りの矛先は、ついにイギリス王室に向けられる。狙われたのは、エリザベスの夫のおじにあたるマウントバッテンだった。

1979年。マウントバッテンは、家族とボートで海に出かけた。

娘の証言「突然、父の足下からテニスボールくらいの光の球が膨らむのが見えました。次の瞬間、水中にいて溺れて死ぬのだと思いました」

ボートに仕掛けられた爆弾で、マウントバッテンとその家族が暗殺された。犯行は、イギリスの支配に抵抗を続けてきた武装組織・IRAによるものだった。組織を率いていたのは、29歳の強硬派、マーティン・マクギネス。

当時、マクギネスとともに闘った元IRAのメンバーのひとりが、その重い口を開いた。

パット・シーハン「マクギネスはIRAのリーダーのひとりでした。私たちは仲間でした。15歳のとき、イギリス側の武装勢力が家におしかけてきた。父に向けていきなり発砲したんです。そういう環境の中で、私は育ったんだ。常軌を逸した不正義です。私たちは、同じ市民として見られていなかった。たとえ儀礼的立場であったとしても、女王はイギリス軍の最高司令官です。私たちはイギリス軍の手で苦しめられてきたんだ」

この時期、女王は双方に対してメッセージを伝え続けていた。

エリザベス女王「多くの事件に触れ、深く悲しんでいます。暴力とそれに続く悲しみに、心を痛めない人はいないはずです。私たち自身そして次の世代のために、未来に目を向けましょう。私たちにはできるはずです」

その後、和平へ向けた交渉は幾度となく行われた。しかし、解決の糸口は一向に見えてこなかった。

王室報道官としてエリザベスと日々接していたアンダーソンは、葛藤する姿を見ていた。

エルサ・アンダーソン「女王は、アイルランドへの訪問を希望していたと思います。現地の情報にいつも耳を傾け、読んでいましたから。政治家ではない彼女ができることは、和解を行動で表すことだけなんです。私が王室に勤務していたのは12年間ですが、王室内ではいつもそのことを話していました。いつなら訪問できるか。永遠に無理だろうという人もいました。アイルランドと北アイルランドの状況は、とても複雑で困難でした」

現場に赴き、自らのふるまいと言葉で事態を打開してきたエリザベス女王。しかし、アイルランドには訪れることすらできないでいた。

そこに、意外な仲介者が現れる。アパルトヘイト問題を通じて信頼を深めた、ネルソン・マンデラだ。マンデラはIRAとも交流を重ねていた。マンデラは、アイルランドとイギリス、双方に足を運び和平を訴えた。

ネルソン・マンデラ「あなた方の平和交渉を応援します。和解に関係する全ての方に、私たちができることは何でもやります」

パット・シーハン「彼らは南アフリカでの和平の経験を話してくれたんです。交渉方法など、多くのことを教えてもらいました」

3年後の1998年。

雪の降る中、両国政府と紛争当事者が話し合いを続けた。

バーティ・アハーン「今日という日を、明るい未来の礎にしましょう。血塗られた歴史は、過去のものとするのです」

800年の確執を越え、ついに和平合意に至った。

だが、その後も散発的な衝突は続いた。争いを終わらせる最後の一手が求められた。

2011年、エリザベス女王はアイルランドに渡った。

隣国でありながら、君主の訪問はこの100年間一度もなかった。向かったのは、慰霊碑。大英帝国の名の下に、戦争で犠牲となった4万9千のアイルランド人をまつっている。女王は、静かに頭を下げた。

アイルランド訪問の終わりに開かれた晩さん会には、かつて武装闘争を率いたマクギネスたちも招かれていたが・・・。

アイルランド マカリース大統領(当時)の回想「最後まで晩さん会の席を空けておき、マクギネスたちが来ることを望んでいました。でも、来ませんでした」

依然残っていた深い溝。

だが、重苦しい空気を女王が打ち破る。

エリザベス女王「大統領そして親愛なる皆さま」

かつてイギリスが奪った「アイルランド語」での挨拶から、女王のスピーチが始まる。

エリザベス女王「今回の訪問で大事なことを再認識いたしました。過去に頭を下げつつも、過去に縛られないこと。私たちの関係は、複雑でした。何世紀にもわたり、厳しい道のりを歩んできました。私たちの歴史は、悲しみと後悔に満ちています。お互い心を痛め、多くの犠牲を出してきました。歴史に『もし』が許されるなら、もっと別の歴史を歩むことはできなかったのかと思ってしまいます。この争いで傷ついた全ての人に、心から哀悼の意を表します」

このスピーチが、マクギネスたちの心を動かした。

パット・シーハン「彼女のスピーチを聞いて、『今度は私たちが動かなければ』という思いになりました。真剣に和解に向き合っていることを示さなければと考えたのです。女王もこの紛争で家族を亡くしていて、複雑な思いだったはずです。その上でこのような行為をされたことに、心から敬意を表します」

翌年(2012年)、エリザベスは再び海を渡る。迎えた人の中に、マクギネスの姿があった。かつて家族を殺害した組織のリーダーと、握手を交わした。憎しみを越え、未来を築こうとした瞬間だった。

あの分離壁の前で、写真を撮るグループがいた。

「私は壁のこちら側。彼女はあちら側」

「あのオヤジは、俺に石を投げていたもんだ」

「彼は火炎瓶も用意していた」

「今は家族だ」

「どうしたら人々が違いを乗り越え、良き社会をつくっていけるか。世界はその答えを探しています。この街が、生きた手本であり続けることを願っています」(女王のスピーチ/2014年)

2022年9月。エリザベスは、96歳で亡くなった。最後まで女王であり続けた。

「これから先も、多くの困難があるはずです。平和的解決は必ずしも簡単ではありません。でも、不可能を可能にしてきたことも事実です。もしあなたが将来、困難に直面しあきらめそうになったら、いつも思い出してください。私も含め何百万の人々の思いと祈りが、あなたとともにあるということを」(女王のスピーチ/2014年)