OKINAWA ジャーニー・オブ・ソウル

NHK
2022年6月20日 午後6:23 公開

(2022年5月22日の放送内容を基にしています)

<復帰50年 豊かな沖縄音楽 なぜ生まれたのか?>

沖縄の本土復帰から50年。

激動の半世紀、そこにはいつも「音楽」があった。

沖縄出身の三浦大知です。なぜこの島からは、途切れることなく豊かな音楽が生まれ続けるのか。

今回、時代を刻んだアーティストたちが、それぞれの音楽のルーツを語った。

基地というあまりにも大きな存在。そして、日本本土との格差。

「島唄」が持つ包容力を、新たな音楽に取り込んでいったアーティストもいる。

そしていま、沖縄の音楽は、令和の若い世代の心も捉えている。沖縄出身のラッパー、Awich(エイウィッチ)。ストレートな言葉で刻むのは「生きる」ためのメッセージ。

今回、沖縄の過去と現在、そして未来をつなぐ、新たな歌が生まれた。

50年に思いをはせ、歌う。沖縄の豊饒と不屈を見つめるミュージックドキュメンタリー。

さあ、魂を探す旅に、出かけよう。

<オキナワンロック 血肉にしたアメリカ音楽>

極東最大級のアメリカ軍基地、嘉手納。

そのすぐ隣に、沖縄の音楽を育んできた、特別な場所がある。コザと呼ばれる町だ。

ことし3月、そのコザであるグループが凱旋コンサートに臨んでいた。DA PUMPだ。ボーカルのISSAはこの町で生まれ育った。

2018年にリリースされた「U.S.A.」。YouTubeの再生回数2億4千万をこえ、社会現象にもなった。実はこの曲には、ISSAがコザで見たアメリカのイメージが織り込まれている。

ISSA(DA PUMP)「自分の生い立ちというか、自分のルーツというか、そういうところと精通するところがいっぱいあったので、自分にとっても新鮮だし、懐かしいという気持ちもあったり」

コザには音楽が溢れている。アメリカ発のロック、そしてヒップホップ、古くからの民謡酒場もある。

10代のISSAが心奪われたのは、ヒップホップだった。同級生たちとダンスグループを結成。コザで開かれたイベントに繰り返し参加。音楽漬けの日々だった。

同級生「当時の沖縄には6チャンネルっていうチャンネルがあったんですよ、軍から流す電波。アメリカ専門のチャンネルが」

アメリカ生まれの新しい音楽と出会ったときの記憶が「U.S.A.」で歌われている。

(♪U.S.A./DA PUMP)

作詞:CIRELLI DONATELLA/LOMBARDONI SEVERINO(日本語詞:shungo.)

作曲:ACCATINO CLAUDIO/CIRELLI DONATELLA/GIOCO ANNA MARIA

U.S.A.FM聴いてた渚

U.S.A.リズムが衝撃だった

ISSA(DA PUMP)「ここがあったから今の俺があるんだと、すごく理解できますし、この街にいたから、自然といろんな音楽に触れられたし、音楽のカルチャーに精通することができたのかなと」

(♪U.S.A./DA PUMP)
作詞:CIRELLI DONATELLA/LOMBARDONI SEVERINO(日本語詞:shungo.)

作曲:ACCATINO CLAUDIO/CIRELLI DONATELLA/GIOCO ANNA MARIA

数十年で関係(リレーションシップ)

だいぶ変化したようだ

だけれど僕らは地球人

同じ星(おんなじふね)の旅人さ

C’mon,baby  アメリカ

「コザ」の歴史は、太平洋戦争にさかのぼる。

戦後、沖縄は日本と切り離され、アメリカの統治下に置かれた。島には、次々にアメリカ軍の基地が作られた。その周辺にはバーや風俗店が立ち並び、コザは刹那的な快楽を求める兵士たちで溢れた。

そこで生まれ、本土復帰の前後、1970年代に隆盛を極めたのが、伝説の“オキナワンロック”だ。

アメリカ統治下で結成され、本土復帰のあと、日本の音楽シーンで人気を博したロックバンドの数々。

その1つが、マリー・ウィズ・メデューサだった。伝説はどのように生まれたのか。

マリー・ウィズ・メデューサ 元リーダー、喜屋武幸雄(きやん・ゆきお)、80歳。

当時のコザは、文字通り、生きるか死ぬかの世界だった。

喜屋武幸雄(マリー・ウィズ・メデューサ)「7針ぐらい傷があるんですけど、ビール瓶投げられて。目の前にいる人は、何をしでかすかわからない兵隊たち。それを僕らは相手しているわけですよ。僕らのロックは生きるための武器ですよ」

アメリカは、そのころベトナム戦争のまっただ中だった。嘉手納基地は、出撃の拠点となっていた。戦地に赴くのを待つ兵士。地獄の戦場から帰還した兵士。その精神状態は極めて不安定だった。

喜屋武幸雄(マリー・ウィズ・メデューサ)「僕らを見るとフラッシュバックして、ベトナム人と間違えて僕らに突っ込んでくるときもある。そういう兵隊たちの中で、僕らはプレイしなきゃなんない」

アメリカ兵を納得させる演奏ができないと、命にも関わりかねない。生き延びるために、アメリカのロックを必死で覚えた。

喜屋武幸雄(マリー・ウィズ・メデューサ)「下手なバンドにはブーイングして。YES・NOがはっきりしていますから、アメリカ人は。もう、すぐクビ。僕らも必死になって、アメリカのラジオから流れてくるのを録音して聴いて、それをまたライブハウスでやる。兵隊たちに僕らが育てられたというのは本当の話。それをきっちりやったから、日本の中でも独特の“オキナワンロック”と呼ばれる、ひとつの確立したものが生まれてきたんじゃない」

そうした中、沖縄を揺るがす事件が起きる。1970年暮れの「コザ暴動」。アメリカの統治に人々の怒りが爆発。アメリカ人の車を次々に焼き討ちした。

喜屋武の姿もそこにあった。沖縄に新たな音楽をもたらしたアメリカ。

しかし、そのアメリカとの沖縄戦では12万もの県民の命を奪われた。アメリカの統治下では、兵士による犯罪が頻発。それにも関わらず、罪を問われないことがしばしばだった。

喜屋武の祖母も、アメリカ人の車にひかれ命を落としたが、沖縄に裁く権利はなかった。

人々の命は、あまりにも軽かった。

喜屋武幸雄(マリー・ウィズ・メデューサ)「怒りしかないですよ、『なんで?』って。それもさ、基地の中に逃げ込んでしまえば、それで許されるのかということですよね」

コザ暴動で、自らも積年の怒りを爆発させた喜屋武。しかし事件の翌日、再びステージに立った。生きるために。

喜屋武幸雄(マリー・ウィズ・メデューサ)「『えらいことになっちゃった』と言っているけど、翌日またプレイしないといけない。コザ騒動で車ひっくり返した次の日に、『Heymen!Hey peace!」とやっている自分が、昨日あんなことがあって、今日はまたプレイしている。生きるために必死に生きていた。大変な世界があったなと、今思い出してもね」

1972年に沖縄は本土に復帰。しかし、基地は残り、 “コザ”もそこにあり続けた。

その後も世代を超えて、コザはロックのゆりかごとなっていく。

コザのライブハウスからメジャーシーンで成功をおさめたオレンジレンジ。そして、インディーズながら、トリプルミリオンを記録したMONGOL800。ボーカルの上江洌清作(うえず・きよさく)。若き日々、コザのライブハウスで腕試しした。ロックが放つ魂の叫びは、世代を超えて受け継がれている。

上江洌清作(MONGOL800)「『あの時はすごかったよ』というのを、今でも諸先輩方から聞きます。僕らも何回か若いころにやりましたけど、ビール瓶が飛んでくるっていう(笑)。『実際あるんだ』みたいな。ある意味、モンパチもコザロックかもしれないですよね。つながっていくというか、伝説がこうやって語り継がれていくんだろうな」

(♪あなたに/MONGOL800)作詞:上江洌 清作  作曲:MONGOL800

あなたに 逢いたくて

流れゆく日々 季節は変わる 花咲き散れば元にもどるの

こんな世の中 誰を信じて歩いてゆこう 手を取ってくれますか?

<ダンス・ミュージック 本土への奔流>

本土復帰から10年が経った1980年代、沖縄は観光地として人気を集め始めていた。

その一方で、所得は全国最下位。貧しさから抜け出せてはいなかった。本土との間に差別という、見えない壁も存在していた。

そうした中で生まれた新たな音楽のうねりが、90年代以降、沖縄のイメージを大きく変えていく。

沖縄アクターズスクールからは、歌って踊れる新たなアイドルたちが次々に誕生した。ダンスミュージックを通じて、数々の才能を世にはなったアクターズスクール。

その原動力はなんだったのか。

1983年に、沖縄アクターズスクールを立ち上げたマキノ正幸。

マキノはこれまで、安室奈美恵やMAX、DA PUMPなど数々の才能を沖縄で発掘、世に送り出してきた芸能界のレジェンドだ。81歳になる今も、ダイヤの原石を探し続けている。

本土復帰直前に沖縄に移り住んだマキノ。アクターズの立ち上げには、どんな思いがこめられていたのだろうか。

マキノ正幸「長い間51年いますからね。本土復帰前からいるわけです。何のためにやってたんだとか、どういうバトンを子どもたちに渡したかって言ったら、沖縄をテーマにして勝たなきゃいけない。テーマというのは、本音で言えば食えなかった、本当は食えるようになれば、沖縄っていう場所をどう変えた、自信を持って、僕は沖縄のためって言えますよ」

本土との格差にあえいでいた沖縄。アクターズスクールに通う子どもたちも例外ではなかった。

SPEEDのボーカル、島袋寛子(しまぶくろ・ひろこ)。小学6年生でデビューを果たした寛子。当時の心の内を語ってくれた。

島袋寛子「家族を幸せにしたいし、ストレートな言い方をすれば、お金もあったほうがいい。言葉を選ばず言うと、本当にそういうストレートな思いが強かったです」

当時、実家は、給食費のやりくりにも困るほどだった。母親が昼夜を分かたず働き、スクールの月謝を何とか工面した。

島袋寛子「私のうちは本当に大変でした。母が頑張って、月謝もままならなかったんですけど、それもお願いをして『できるときでいいですよ』って言ってくださることもあったので、それで通わせてもらってました。私は10年って約束してたんで母と。10年やって芽が出なければ、もうやめる、諦めるとやってたので。だから母も応援することで力になってた。ただ、生活は苦しいし厳しいし、その夢も周りの人はかなわないと思ってたと思います」

沖縄の子どもたちをメジャーシーンで成功させたい。そのためにマキノが目をつけたのは、アメリカ軍基地周辺で流れていた最先端のブラックミュージックだった。

当時、人気絶頂だったマイケル・ジャクソン。クオリティの高い歌とダンスに圧倒された。

マキノ正幸「耳に入ってくる感じがすごく心地よいわけです。思わずそのみんなで踊り出しちゃう。彼らが作った音楽に、なんとか近づきたいなという形で、みんなそれぞれ苦労して、アメリカ音楽を自分の中で取り入れて、それぞれタレントという形にしたのが今の形なんですよね」

マキノの娘で、僕の先生でもある牧野アンナ。父親に勧められ、マイケルのパフォーマンスを何度も見返し研究した。

牧野アンナ「お前ができるようになれば、たぶん誰でもできる。お前はできないから、できるようになれば、できるまでの過程がわかるから教えられるようになる。だから、まずお前に教えるからと言って、レッスンから帰ったら、毎晩家で『こうじゃない』って言われながら特訓を受けて」

下半身で力強くビートを刻む場面。上半身はほとんどブレない。上半身で揺れを吸収しながら歌うスタイルを子どもたちに伝えることにした。ブラックミュージックにヒントを得た、激しいダンスと歌を両立させるレッスン。「歌と踊りの島」で育った子どもたちは、みるみる吸収していった。

ISSA(DA PUMP)「ダンスだけではなくて、歌と踊りを一緒に、最初からやっているようなレッスンの仕方。僕たちからの流れのっていうのは、みんな歌いながら踊ることしかしてなかった。ダンスはダンス、歌は歌っていうことがあまりなくて、両方、最初から混ぜ合わせてやっていたことが、そのまま体に身についている。結構独自の教え方、独特のレッスンの仕方があった」

アクターズスクールの開設から12年。安室奈美恵やSPEEDなど、アイドルたちの快進撃が始まる。

家族に楽をさせたい。成功を夢見ていた11歳の寛子。デビュー曲「Body & Soul」がいきなり60万枚をこえる大ヒット。

牧野アンナ「沖縄に対するイメージがガラッと変わったというか。そこの流れでバンバンいけたというか。もうSPEEDなんかあっという間でしたから」

10代前半の子どもたちが、歌とダンスで熱狂を巻き起こしていく。

(♪Go!Go!Heaven/SPEED)作詞・作曲:伊秩 弘将

Go!Go!Heaven  この闇を突き抜け

私たちだけの天国へ

嘘も汚れもない空を見つけに行こう

大きな舞台で夢をつかみたいという、沖縄の若者たちの激しい情熱。ダンスミュージックの波に乗って、沖縄のイメージを「あこがれ」に変えていった。

<“沖縄ポップス” 人びとを癒やす歌>

ダンスミュージックが席巻した90年代。日本はバブルがはじけ、「失われた10年」と呼ばれた厳しい時代にさしかかっていた。

そうした中、沖縄からもう1つの音楽の潮流が生まれる。日本の音楽シーンに新たに登場した、沖縄ポップス。

♪花(石嶺聡子)、♪島唄(THE BOOM)や、♪涙そうそう(夏川りみ)などの、奄美や琉球の伝統音楽だった、島唄などの要素を取り入れた、新たなサウンド。

それまでアメリカや日本本土を強く意識していたアーティストたちは、なぜ沖縄の伝統音楽とのハーモニーを奏で始めたのか。

BEGINのボーカル、比嘉栄昇(ひが・えいしょう)。幼い頃から三線の音色を聞いて育った。しかし、1990年のデビュー曲「恋しくて」はブルース調のバラード。島唄のメロディも沖縄の言葉もない。

比嘉栄昇(BEGIN)「沖縄で生まれた僕たちも、ちゃんと日本人なんだということを伝えるために、とにかく発音がどのバンドよりもいいということを、僕は目指して歌ってましたね。沖縄を仲間にしてもらえたらいいなという思いだけだったですよね」

デビューのころは、できるだけ沖縄的な要素を排除して、成功を目指したBEGIN。しかし、その後、ヒットに恵まれなかった。試行錯誤を重ねる中、BEGINに転機が訪れる。

ブルース発祥の地、メンフィスを訪れたとき、地元のライブハウスで、演奏を持ちかけられた。

「ここで自分が演奏すべきはブルースなのか」

比嘉栄昇(BEGIN)「ブルースだって地元の音楽なんだ。やっぱり同じ土地の歌を歌うということが、音楽家にとっては大事なこと。自分たちが島で聴いて、人づてに聴いて、耳で覚えた、口から耳に入ってきた歌を歌うべきだと」

沖縄に生まれた自分にしか作れない音楽がある。沖縄のエッセンスを取り入れた曲作りを始める。そして2002年、あの名曲が生まれる。

(♪島人ぬ宝/BEGIN)作詞・作曲:BEGIN

でも誰より 誰よりも知っている

悲しい時も 嬉しい時も

何度も見上げていたこの空を

教科書に書いてある事だけじゃわからない

大切な物がきっとここにあるはずさ

それが島人ぬ宝

内なる沖縄と、外来の音楽との新たなハーモニー。それは、多くのアーティストたちがたどった心の旅でもあった。

沖縄民謡界を代表する唄者(うたしゃ)、知名定男(ちな・さだお)。自らプロデュースした「ネーネーズ」は、沖縄ポップスを代表するグループとなった。

新しい音楽を生み出すためのカギは、自分たちの足下にある、多様で豊かな音楽にこそ存在すると気づいたという。

知名定男「新しいものづくりをするときに、古いものを理解しないと、新しいものが生まれるわけはないと思うようになったんです。みんな沖縄発音楽の原点はやっぱり島唄なんだというね、その表れだと思うんですよ。なら沖縄音楽は普遍だなと。この先楽しみだなと」

古くから島国として、海の外から来たものを柔軟に受け入れ、それをチャンプルー、混ぜ合わせることで新しい文化を育んできた沖縄。若い世代も、どこかでその精神を受け継いでいると感じている。

知名定男「ウチナーンチュ独特のアイデンティティーを網羅した、心に秘めた若者たちが、ポップスに盛り込んで叫ぶように歌う。心の魂を叫ぶんですよね。いろんなジャンル、ロックとか。沖縄の音楽、ウチナーンチュだけにしかないアイデンティティーを込めたアーティスト、あるいは楽曲、そういうものがどんどん生まれる」

上江洌清作(MONGOL800)「フレーズを見よう見まねでいろいろ取り込んで、さらに俺らの感覚でチャンプルーして。そのときの好きなサウンドで、あるものを今まであったものを、自分たちは今の時代でまた借りて使っているというか、降りてくるのを待っている」

(♪琉球愛歌/MONGOL800)作詞:上江洌 清作  作曲:MONGOL800

泣かないで人々よ あなたのため明日のため

すべての国よ うわべだけの付き合いやめて

忘れるな琉球の心 武力使わず 自然を愛する

自分を捨てて誰かのため何かができる

日本が自信を喪失した時代と重なるように、沖縄ポップスは、普遍的な広がりを見せていく。

ふるさとを遠く離れ、都会での日々に疲れた多くの人々の心を癒やした。

比嘉栄昇(BEGIN)「『沖縄を“ふるさと”にしてください』というふうに思います。50年間で日本は、本当に“ふるさと”をなくしていったと思うんです。だから、どうぞ良ければ沖縄を“ふるさと”と思ってください。ここで生まれたからということではなくて、自分たちがどう思うか。そこの土地で、そこの文化に触れて、ここが自分の居場所だと思ったところが、あなたの“ふるさと”です、というふうに思える。そんな50年になったんじゃないのかと僕は思ってますね」

(♪三線の花/BEGIN)作詞・作曲:BEGIN

この空もあの海も 何も語りはしない

この島に暖かな 風となり雨を呼び

咲いたのは 三線の花

秋に泣き冬に耐え 春に咲く 三線の花

<復帰50年 新たな世代が未来へ託す歌>

そして2022年。本土復帰から50年となるいま、沖縄には、なおも在日アメリカ軍専用施設の7割が集中している。その一方で、観光地として発展を続け、コロナ前には来訪者が年間1000万人を超えた。

沖縄の音楽はこれからどんなメッセージをつむいでいくのだろうか。

多様性が叫ばれる時代、ストレートな言葉で若い世代の支持を集めるアーティストがいる。日本のヒップホップを牽引する、Awich(エイウィッチ)。

自らの内面を言語化し、リズムに刻む音楽、ラップ。女性である自分。沖縄に生まれた自分。Awichの音楽からは、現実を直視し、ポジティブに変えるエネルギーがほとばしる。

(♪Queendom/Awich)作詞:Awich 作曲:Chaki Zulu

死ぬほど憧れたフェンスの向こう

大嫌いだったOkinawa is my home

飛び交うヘリコプター

ここから飛び立ちたかった

重くしがらむこの島のカルマ

潜り抜けて開く次のchapter

Awich「何が私を作ったのかということと、めちゃ向き合って、自分のルーツを掘り下げていって、そこに注力した方が、私は絶対にかっこよくなれるって気づいたから」

Awichは、今もときおりアメリカ兵行きつけのクラブにひとり飛び込むことがある。そこで、自らの音楽を磨き続けている。

Awich「ウチナーンチュの根底にあるのが、強さというか、“したたかさ”なんですよ。アメリカを血肉にしていくっていうことを、ロックとかヒップホップではやってきたんですけど、ただ逆境を自分たちの力に変えるという根本が、そこにはあると思います。アメリカが憎かったころもあると思う。そこを乗り越えて、米軍のゴミでも何でもいいから、そこを拾って自分たちの生活の糧にしていく、そこに誇りはないじゃないかって言われるかもしれないけど、生き抜く、みたいな、そこが一番大事でしょ」

アメリカ人の夫との間に娘がいるAwich。夫とは死別しシングルマザーとなった。ことし14歳になった娘の鳴響美(とよみ)。友人にもアメリカにルーツを持つ子どもたちが少なくない。そうした友人の中には、周囲から心ないバッシングを受けた人もいる。以前、通っていた小学校にアメリカ軍の機体の一部が落下したときのことだった。

鳴響美「そのことを考えるためのアンケートみたいなのが、その日になったらあるさ。その時に、『自分もハーフだから悪いのかな』って思う子が、いっぱいいたっていう話を先生がしてた」

Awich「ここで育ったっていう、生まれたときからの話全てが鳴響美のストーリーなので。今この状況、生きることを頑張るみたいな」

子どもたちの世代にどんな未来をつないでいけるのか。

Awichは復帰50年のことし、新たな曲作りに挑んだ。モチーフは沖縄の現在、そして未来。

Awich「『自分たちって、どういう存在なんだろう』ということを考えるきっかけの歌にしたくて、大きな世界を見た上で、沖縄ってこういう場所なんだって。そこが嫌だって嘆くよりは、そこを糧にここからそれを理解した上で、世界ってこういうものなんだって、理解した上で羽ばたいていくみたいな」

音楽から沖縄の半世紀をたどってきたジャーニー・オブ・ソウル。旅の終わりが近づいてきた。

時代をこえて、聴く人を力づけ、時に癒やしてきた、沖縄の音楽。

引きつけてやまないのは、生き抜くための「不屈の魂」。

そして、光も影も受け入れ、力に変えて行く、「包容力」。

改めてそう感じる。

(♪TSUBASA/Awich)作詞:Awich 作曲:BIGYUKI

サヨナラがまた僕らを

海をこえ迎えに来る

許される限り遊ぼう

大空を飛び交う影に

僕らの夢乗せてみるんだ

Imagine breaking through the sky into our future

As we chase the rainbow

苦しみはlet it go

負けないように大声で歌うけど

引き裂く音が

遮る言葉

かき消されたありがとう

だから笑顔で手を振って

あの窓から見るこの島はいったいどんな色?

自由に飛んでみたいんだ、青く広がる空を

失くしたものとか

会いたい人とか

さぁ見つけに行こう

僕らも翼広げて

きまぐれな空には今日も虹がかかる

やーの笑い声でここが麓だってわかる

両手広げ空を仰ぐ take a flight like dem choppas

やると決めたらやるだけさ you know that nothing can stop us

生まれたこの街は今もlove & pain渦巻く

光と影と雨と風をchamplooかき混ぜる

この美しさをいつかあなたにも見せたい

こだまするbeatsどんな爆音にも負けない

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